信じる力

私たちは、普段自分は目覚めていて何らかの活動をしているという自覚を持っています。その自覚は身体の五感を駆使することでトータルな知覚として得ることができるわけです。

水泳をしている、テレビを見ている、誰かと握手しているなど、どんな状況でも身体の知覚によってそれを把握しているわけです。そして、一般的に、自分の知覚というものを信じています。

現代では、テレビや映画、ゲームなどのように視覚や聴覚に対するニセモノによって、実在しないものをあたかも実在するかのように思わせられたりしています。味覚や嗅覚も例えば本当のメロンの代わりになるようなメロンの香りや味のするものがありますね。

触覚だけは複雑すぎてそれを模倣するのがむずかしいのでしょう。触覚は身体の各部分の感覚が総合されたものだからですね。それでも、最近は例えばロボットの遠隔操作など、柔らかいものを掴むときにその力加減ができるように、掴んだ感触を手のひらに伝えてくれるようなものが開発されてきたりしています。

こういったものは、我々はあたかもホンモノのように感じられつつ、でもホンモノではないということを予め知っていますので、何の問題もありません。逆に生活がより豊かになるためには必要なものと言ってもいいですね。

しかし、問題は自分の知覚を信じすぎて、実在とはかけ離れたものをホンモノと信じてしまっているような場合があるということです。

強い思い込みなどによってもこういったことが起きてきます。まず、こうあって欲しいが心に生まれ、それに都合のいいように五感を使って知覚するようになるのです。その結果、それが本人にとっては真実と思えてくるのです。

例えば、ストーカーなどはその典型でしょう。相手からどんなに嫌いと拒絶されても、キミは俺と一緒にいるのが幸せなんだからという思い込みによって、相手の態度もそのように変形させて知覚してしまうのです。

いい例もあります。あまり良い言葉ではないかもしれませんが、あばたもえくぼ、などはそのいい例ですね。恋に落ちて、相手のことを大好きなうちは、とても素敵に感じるように知覚をコントロールしているのです。でも、本人にはその自覚はありません。

そして、ひとたびその恋が破れてしまうと、急に気持ちが覚めてしまって、何であんな人を素敵だなとと思っていたんだろうと本人がびっくりしてしまうのです。

このように、私たちは本当に沢山の間違いを信じて生きています。そして、その信じるという心の力は私たちがイメージしている以上にすごく強力なものなのです。一旦何かを信じてしまうと、それが自分の中で真実になっていきます。

つづく