判断しない

私たちは日頃、よい判断、悪い判断という言葉を使っています。よい判断ができる人、的確な判断、正しい判断ができる人はすばらしいし、逆に悪い判断をする人、不適切な判断をする人に対しては否定的になってしまいます。

また、世の中には正しいこと、正しくないこと、というものがありますね。これは、実際には自分が正しいと判断したものが正しいし、正しくないと判断したものは正しくないとしていることなのです。

ところが、この自分の判断というものが大変怪しげなものだと言ったらどうでしょうか?
立派な人格者はいつも正しい判断をするので、そういう人が下したこれは正しいという判断は信用できると思いがちですね。

自分だって冷静であれば、そこそこ正しい判断をすることができるよ、と自負している人も多いはずです。逆に、自分はいつも判断がうまくできなくて、すぐに人に聞いてしまうので、困っています、という人もいるでしょう。

さて、今日のテーマは、なるべく判断するのを止めてみましょうということなのです。

なぜなら、自分の判断とは、エゴの判断であるからです。エゴである自分は、物事を判断する時に、エゴの防衛システムにその情報を送り、そこで防衛するのに都合のいい判断をし、防衛システムはその結果を自分に返してくるのです。

私たちは、それを自分の判断として使って生きています。例えば、人に迷惑をかけないようにするのが正しい行動である、という判断をしているとします。(多くの人がきっとそう判断しているでしょうね)

そうすると、自分の行動の一つひとつをチェックしては、それが迷惑をかけない正しい行動かどうかの判断を下すのです。そして、迷惑をかけそうに思える、つまり正しくない行動だと判断された場合には、自己犠牲を払ってでもその行動を中止するのです。

それは実は人に迷惑をかけないようにすることで、自分の評価を下げないようにする自己防衛の行為なのです。エゴはこの防衛をするためだけに、その行動を中止させるのです。そのために、本音を抑えたり、いつも人の都合を優先するような生き方になってしまいます。

それが愛から出た行動ならいいのですが、防衛からの行動であるために、自己犠牲が発生して、それを繰り返すことで心が苦悩することになってしまいます。

また、毎朝きちんと部屋の掃除をすることが人として正しい行為だと判断していると、それができない人を否定することになってしまいます。人を否定することは、自己防衛の得意技なのです。そうやって、人間関係が悪化することになっていくのです。

だからといって、判断を止めてしまったら、一日たりとも普通の生活ができなくなってしまうと思われるでしょうね。確かにそういう面も沢山ありますが、正しさというものを判断によって作り出さないようにするということはできるはずなのです。

今まで、長年かけて作り込んできたこれは正しいという判断結果を、総ざらいしてその判断を無効にしてしまえばいいのです。これは真剣に取りかかれば全くできないということはありません。

それと、日々の判断が必要なことも、即時性が要求される場合は無理としても、比較的ゆっくり判断すればいいような場合には、例の聖霊に判断を委ねればいいのです。そうすれば、自分のエゴの判断を使わずに済みますね。

実は聖霊だけがまともな判断ができるのです。なぜなら私たちはエゴです。防衛を主目的として判断してしまうわけですから、それこそ聖霊の判断とは常に違う判断をしてもおかしくはないのです。

実はこれは幸せを手に入れる最短の生き方なのです。それだけに、なかなか実践することは難しいと感じるかもしれません。でも、少しずつでもやっていくことで自分を慣らして行くことが大切ですね。