自分の本当の姿 その4

またまたまた続きです。

知覚するとは願望を満たすことなので、私たちは自分の見ようとするものを知覚しているということになります。しかしそれは、自分の想念が作り上げたものですから、ホンモノではありません。

その願望の中心となっているものは、自分がその他のものと分離しているということです。実際私たちは個別の身体を持って、それぞれが別々のことを考えながら生きていると思えるように知覚しているのです。

これこそが私たちの願いそのものです。 それが願いなのだと言われてもきっとピンと来ないかもしれませんね。それなら、これを想像してみてください。世の中で自分が一番忌み嫌うような人をイメージして、その人と自分が一心同体だとしたら…。

絶対いやだと思うはずです。つまり、それが自分は自分として、他の人と違うものでいたいとする心の働きなのです。私はあんな人とは全く違う、似ても似つかない。

極悪非道な殺人鬼ともしも一心同体だとしたら?冗談じゃないと思いますね。それこそが、分離を願う原動力になっています。

もっと一般的な表現をすれば、自分の中の認めたくない闇のような部分を、自分から切り離して、それを自分の外側にある存在として分けたのです。そうすることで、自分はそんな酷いやつとは違うのだと思えることで安心しようとするのです。

その外側にいる酷いやつとは、自分がでっち上げた想念による知覚が作った幻想なのですが、でもその知覚を信用してホンモノとしてみることができるために、あいつは自分ではないとすることが可能になるのです。

でも実は、外側にいると思い込んでたあいつは、自分の内部にいる自分にとっては都合の悪い闇の部分だったということです。

さて、まとめましょう。自分の本当の姿というのは、実はスピリットであり、きっと愛の想念であるのですが、理由はともかくとして、何か自分の内部に良からぬ部分があると思い込んでしまったのです。

でもそれはとても都合の悪いことなので、その部分だけを心の中で隔離して見えないようにするとともに、知覚を使ってその都合の悪い部分を自分とは分離された外側の存在とするような錯覚を起こしたのです。

身体もこの世界もその悪い奴もみんながバラバラに存在しているという錯覚を作り上げて、安心することにしたというわけですね。

分離しているという錯覚によってひと安心はできたものの、自分とは身体を持っていずれ死ぬ運命にある個体としての人間だと惑わされているわけですから、心から満たされるということはあり得ません。

それに身体を持ってしまったという錯覚によって、様々な不幸が訪れるようになってしまいました。それは、病気であり、怪我であり、本当に愛する人とはどんなにくっついてみても一つにはなりようがないという絶望的な悲しみです。

身体を死から守らねばならないという幻想を持ったことで、自己防衛を続けなければならなくなってしまい、そうやってエゴの活躍が続くのです。本当の自分であるスピリットであれば、全く無防備でいられるはずなのですが。