体験談その8

体験談その8(過去世退行)

 ”前世療法”をkeyにこのページにたどり着いたと言われる40歳の理知的な女性。自分が生きている意味、あるいは価値がわかったらこれから生きていく日々が自分にとって価値あるものと感じられるかもしれないという期待から、前世療法を体験してみたかったとのことです。セッションを体験された後、以下のような内容のメールをいただきました。とても正直で新鮮な感じがする内容でしたので、掲載させていただくことにしました。

 そこで体験したこと...それは「体験した」という言い方が正しいのかどうかわからない。猜疑心が強く、うがった見方をする自分には、それが神聖なものであるとか神秘的なものだとか信じることには抵抗がある。例えば暗い室内で、眠らず、自分自身を見つめた時、誰しも頭の中でいろいろな事を思い出すに違いない。 そしてそれが長い時間になるうち、思い出していることに思いついたことや考え出したことがプラスされていっても不思議はないのではないか?

 本当に催眠状態だったのか。または本当に感じたものは見えたのか、思い出したのか。それとも思いついたのか...明快に理解できていない状態。ただ、ひとつ言える事は、例えば私が疑うようにそれが催眠でなくても、前世に旅をしたわけじゃなくても、自分が口にしたことは間違いなく自分の中にあったものだ。少なくとも言わされたものでも誘導されたものでもないということ。だとしたら、それが前世体験かどうかというのは大変な問題ではないかもしれない。忘れていた/気がつかなかったけど、自分は確かにそう思っていたということに違いはないのだから。

階段について。
 
なぜだか下りの階段というのがうまくイメージできない。 これは大変に重要な問題で、この時点で私は相当焦り出してしまう。 なぜぇ~???(大変に汗)実は自慢だが、私はけっこう物のカタチや様子をよく覚えているほうだ。 一旦読んだ漫画を、台詞とか擬音とかも含めてコマ割やどんな絵だったかも覚えていたりする。だからたかが階段がイメージできないのは、けっこうショックなのだ。階段、階段。 昇りは結構イメージできる。 なのに下りは最初の1段しか思い浮かばない。思うにこれは、昇る時はけっこう上を見ているが、降りる時は足を降ろすその1段を凝視しているためかもしれない。なんにしても、これが私には予想以上に高いハードルだった。 そんなことをしている間にもどんどん降りて行ってしまうので、「ああああぁぁぁ」とひたすら焦る。置いてきぼりになる気分。(涙)

その後

 とにかく降りたことにしてしまう。(こんなんじゃいけないのか?)  懸命に気を取り直す。とりあえず暗い所で瞑想していれば何か感じるかもしれないし。何か、なにか、ナニカ... ナニカを求めて暗闇を眺め回す。どんなきっかけでもいいから、と神経を研ぎ澄ます。 (この辺が無理やり自分で作り出したのでは?と思う所以)ふっと思いついたことやよぎったことを口に出してみる。

 きみどり色の草。 針のように細い葉で10cmくらいに伸びている。 青紫とか橙色のきんぽうげみたいな花がついている。 かろうじて小川と呼べるくらいの水溜りのような川。多分広い草原。 うすいピンク色の岸壁のようなものがあるような気がする(だけで見えてはいない)。空の色、草の色がとても鮮やかで美しい(と感じる)。 どさっと草の上に腰をおろす足。編み編みになった紐のような靴。寝転がって空を眺める。最高にいい気分だ。その風景が多分一番好きなのだろう。満足感。

 家はどんな? 家族は? って言われても、見えないぞ... えーと、えーと、えええーーと(汗)。一人じゃない気がするから家族はいるんだろう。でも結婚してるような年じゃないみたい。兄弟がいるかもわからない。両親の顔もよくわからない。亡くなる頃の年...って言われてもぉ~。 えーーーーと。 どうなの? やっぱり自分のカオしかわからない。白髪混じりで思慮深いような顔をした老人。 何で死んだんでしょ。きっと老衰か何か。 ってゆうのはすごいトピックスがあると思わなかったからっていう理由。悲しいとか残念とかいう感じもない。 きっと大して何も考えてなかったのだろう。抜けていく魂(白く発光)を横から眺めた。

次のモーソー
 
 また暗闇の中を眺める。 ふっと道路にしゃがんだ幼稚園の制服の女の子が浮かぶ。下を向いている。 どこの制服? よくある幼稚園帽をかぶっている。制服も帽子も紺色。過去世にしちゃ現代過ぎるな。 タダの思いつき? あとで考えたが私の幼稚園の時の制服は紺色だったが、帽子はベレー帽だった。 姉のとも違う。 私なわけでもないんだ。いったいダレ?

 どんなカオ?と言われて、顔を見ようと試みる。 み、見えた...。コワイ、コワすぎる顔だった。白い顔で髪を両側で二つにむすんでいた。 目が私を恨んでた。呪ってるみたいな目だった。恐怖で凍りついた。 ひぃええええーー。助けて~。 この怖い感じを思い出す。昔見た怖い夢とかな縛り。それとそれは、不一致なのかもしれないが私の中では一致したことになった。ぜったい仕返ししてやる...というようなことを言った子だよ! イヤそう決めた。と理不尽に一致。

 繰り返し言うが、正しいかどうかを証明する手立てもないので、人間の脳というのはとにかく何かに関連づけたがるものなのだ。いやーん。コワイ。 退散退散。 その子の家を見てと言われるが、団地に住む赤ちゃんの姿が見えるような気がするが、家族構成や何の関係があるのかはわからない。ただ、その団地は私が2歳くらいまで住んでいた団地であろうと思われる。

その次の人生

 最後に一番関係があるところに行きましょうと言われる。エエーーっ これ以上何か思いつけるのか?(涙)またまた暗闇を必死で眺め回す。おおっ なんとなく軍人の帽子みたいなヤツが... カーキ色の深いみたいな色。よく軍のエライ人がかぶっているみたいな形。その人は50才台くらいで、帽子から出る髪は白かった。銀髪?というのだろうか。思慮深そうな顔をしていた。 そうだ。モンゴル平原みたいなところに住んでた時のじいさんもこんな目をしていたかもしれない(顔の色や髪の色はちがうけど)。とにかく思慮深そうな顔つきをするのが、私は好きなんだと思う。 装う、というかね。

 何をしているかはよく見えない。が、なんとなく部下の配置とかを考えたりしているような気がする。みんなのバランスは良いか、みんなのやる気はあるか、全員がやりがいのある仕事をしているか誰か悩んでないか、とかそんなこと。そして最大の効果を上げるという大命題のために。この価値観は今の私と全く同じ(自分で考えているのでアタリマエ)だ。家族は、いるんだろうが気配が希薄。 ああ、同じような銀髪のカールした髪の女の人が奥さんのようだ。 仕事にめちゃくちゃ神経をくだいているので、家庭のことはあまり考えていない。多分大事には思っているだろうが、構っていない。でもその時代のその国の人は、ダレでも似たようなものなのだ。 地位のある夫は仕事に打ち込み、妻は家庭を作っている。

 死ぬ時も奥さんは立派でマジメに働いた夫にそれなりの敬意を払っているのだろう。でも子供が死ぬときのような溢れ出す感情を感じない。 息子が二人くらいいるような気がするが同じ。 亡くなる本人も家族について思い残すことはないらしい。ただ、もっと別の生活の仕方があったのでは。。。という思いが感じられた。誠意を持ってできるだけの仕事をした。ので、立派と思ってくれる人はいたかもしれない。だが、もっと気楽に「やあ、サム」と言ってみたかった。 商売なんかしたりして、町の人と挨拶したり、友達に「いいヤツ」と言われてみたかった。・・・そうか。いいヤツって言われたかったんだね。 そう言われたかった。 たしかにそう。いいヤツって思ってもらえたらきっと嬉しいだろう。そうか。そうなのか。 とひたすら納得した。(何を? それは全体的に感じたということで、言葉にするのは難しい)

そして

 イロイロなナゾは残るし、自分の連想にいんちきな部分もあるような気がして、明快な回答にはいたらない。ただ、気づいてしまった。イヤ間違いかもしれないけど。モンゴル(と勝手に決定)にいた私は幸せだった。ドイツ(これも勝手に決定)にいた私は思い残していた。今も同じかもしれない。今まで自分を幸せと思うか不幸と思うかは自分次第、 周りの状況はいつも良くも悪くもあり、それがフツウで、それはそこそこ幸せなのだと思っていた。正確に言うと、それは幸せだと思うことにしていた。本当はそうじゃなくて、幸せと思うことにするのは結構大変な事だ。本当に幸せになることはもっとカンタンなことなのかもしれない。幸せだと思うんじゃなく、自然と幸せと感じること。

 -花は生き方を迷わない。
っていうことなのかなあ。 この言葉の意味を、初めて理解したような気がする。自分が決めつけていた自分の周りの檻。。。ガラスのコップは、本当はないのかもしれない。実はいくらでも高く飛んで、逃げることもできるのかもしれない。人間が長い間をかけて築き上げてきた自分たちのルールには、それはそれは大事な意味があるだろうと思う。それは大人数が問題を起こしにくく、みんなで力を合わせてより安全な衣食住を確保するためのルールと言える。物理的な幸せと、精神的な幸せは別ということだろうか。イヤ、きちんと分けるとしたら、物理的な幸せと言うのは「幸せ」ではなくて「充足」とか「安全」とかいう言葉が適当なのだろう。常識という名で、予め与えられた土壌として受け入れ縛られてきた数々のルールは、絶対ではないのだと、感じる...いまは。

おまけ

 なぜだか大澤さんにとても会いたい。 なぜ?? 理解不能。うーん。私は自分を好ましく思ってくれる人以外とわざわざ会うのは苦手だ。(当り前だよね)そのような状況でも会いたいから会いに来ましたと言えるほど自信家ではない。なので、ほとぼりが冷めた頃にでもまた行ってみようかなとは思っているが、まだ何日もそのように思いつづけるのだろうか?  まあ明日にならないと判らないことだ。

その2

 体験の翌日の翌日。 昨日、自分の頭を整理するために書いたのだが、読み直しつつ、さらに書き足した。頭の中で理解できないうちに記憶が減っていくと思ったので書いたのだが、増えてるじゃん!って感じ。 つくづく自分の理屈っぽさを知る...

 また、大澤さんに会いたい!については...。多くの体験者が、同じようにセラピストに依存するのではなかろうか?と思い直す。何かを共有したような、共感したような錯覚を感じるのだと思う。自分にとってかけがえが無いような。 (単純だなぁ)セラピストっていうのは面白い。 まるでむつごろうさんのように相手に警戒心を起こさせない。