人生は誤魔化しの連続

人生は誤魔化しの連続だと言われても、そんなことはない、生真面目にそして真剣に生きていると主張される方もいらっしゃるでしょうね。

確かにそれはそうなのですが、それでも誤魔化しや気晴らしの連続だということを、できるだけ理路整然と説明してみたいと思います。

誤魔化すとは、都合の悪いことから目を背けて、それがまるでないもののように扱うことです。

一方、気晴らしとはその都合の悪いことには気づいているものの、やはりそこから離れて何か別の楽しみの方に意識を向けることです。

いずれにしても、都合の悪いことから逃げようとしているのですが、その都合の悪いこととは何かというと、「不安と孤独」なのです。

自我が生まれると、必ずやその不安と孤独がやってくるのです。これは必然的なものなので、絶対に避けることができないのです。

なぜなら、自我というのはこの世界から分離した個としての「私」が存在するという思い込みのことなので、構造的に不安だし孤独であるしかないのです。

分離しているという思い込みによって、自分を守らねばという不安と恐怖が常に付きまとうことになるし、決定的に孤独でしかあり得ないのです。

それを家族や友人、恋人などとの絆によって、どうにかこうにか不安と孤独を感じないようにしているのです。それが誤魔化しでなくて何でしょうか?

人生がそれなりにうまくいっている時には、より誤魔化しながら生きていけるのですが、困難な状態になると誤魔化しが効かなくなって、その時に始めて元々あった不安と孤独に直面するのです。

どうせ持ち合わせているものであるなら、早いうちにそれを深く理解し、その原因となっている個(分離)という思い込みに気づくことです。

それが唯一の救いへの道なのですね。

トラウマを解除する方法

以前少し広めのセッションルームで仕事をしていた時、そこに寝泊まりしていたことがあったのです。今思い返すと、随分と優雅な生活だったなと。

その頃、あるクライアントさんから迷惑な電話が掛かるようになったのです。深夜だろうが何時だろうが、お構いなしにあの頃の固定電話に着信するのです。

それで、そのクライアントさんからの電話の時だけ特別な着信音に設定して、あらかじめ心の準備をするようにしていたのです。

電話の内容は、なんとも表現しようのない酷いもので、要するに「お前はいいよな、私がこれだけ苦しんでいるのにノウノウと楽して‥」みたいな。

当時の私としては、自分の大切なプライベートを土足で荒らされた感じというのか、自由な時間と空間を侵害された感じがしたのです。

そうこうしているうちに、何とあの特別な着信音を聞いただけで、物凄く嫌な気持ちになるようになったのです。

これこそがいわゆるトラウマというやつだなと思いました。嫌な出来事とその着信音がリンクされて記憶されたわけですね。

このトラウマを解除するために私がやったことは、その嫌な気持ちの奥にある怒りを盛大に味わったのです。そしてそのエネルギーを解放したのです。

それによって、リンクに意味がなくなり、もうその着信音を聞いても何の反応もしなくなったのです。

どんなトラウマであれ、そこにリンクされている感情を味わって解放することができれば、自然と消えていってくれるということですね。

頑固な自己イメージからの脱却

肯定的なものであれ否定的なものであれ、自己イメージを持っていない人はいないのです。

なぜなら、自己イメージとは私たちの自我にとっての屋台骨だからです。ということは、否定的な自己イメージを持ってしまった人の人生は悲劇です。

百歩譲って、それが正当なものであるなら仕方ないことですが、全くのデタラメな情報ででっち上げられたものであるので、困ったものなのです。

というよりも、これ以上の理不尽なことはありません。それなのに、否定的な自己イメージを持ってしまった人は、それを後生大事にしているのです。

正確には、それをなんとかして払拭しようと奮闘努力の人生を生きているのです。こんなバカバカしいことが他にあるでしょうか?

声を大にして何度でも繰り返し言いたいのですが、それも通用しないのです。なぜなら、幼い頃からのその生き方しか知らないからです。

他にやりようがないので、結果としてその自己イメージを温存してしまうことになるのですが、そのことを敢えて考えないようにしているのです。

自己イメージを払拭しようとすることを全てやめて、その代わりにそれが間違いだったということに気づくように何とか努力すること。

否定的な自己イメージも極端なら、その反対のあるべき姿としての自分、高い期待値をターゲットにすることも極端なのです。

どんな自己イメージも間違いであることを理解する以外には、できる限り意識的に生きるか、ノーマインドを心がけるか、この二つの方法が有効だと思いますね。

中立な思考などない

来年の2月で93歳になる母親と色々会話をしていると、マインド(思考)がどのように機能しているのかを知ることができます。

母親は少し暇な時間ができると、どういうわけか食べ物があるのかを心配し出すのです。どうもその不安を握りしめて離そうとしないのです。

デイサービスなどの施設に行っている間は、そこで出される食事を美味しくいただくことができ、その際には食事の心配など全くしないのです。

それなのに、自宅にいる時に限り食べ物はあったかなとすぐに心配し出すのです。施設のスタッフの方が、家族よりも信頼できるってこと?と思ってみたり。

そうした理不尽な思いが根強くて、どのようにして説明したところで、なかなか理解してはもらえないのです。

そのことで分かったのですが、マインド(思考)というのはそもそも歪んだものだということです。

どっち方向に歪んでいようと同じことで、マインドの都合に合わせて理性をコントロールできるのです。

つまり中立な思考というのはあり得ないということですね。いつだって思考は事実を捻じ曲げて捉えるということです。

私たちが本当に中立でいられるのは、ノーマインド、つまり無思考の瞬間だけだということです。このことは肝に銘じておくことですね。

マインドは欲深いもの

1、2年前に購入したソファベッドをソファ状態にして、そこに腰掛けて瞑想したりしているのですが、これがどうも座り心地がイマイチ。

せっかく瞑想したいと思っているのに、何だかお尻の座りが悪くてやめた〜となるのは、もったいないなと。

もっと座り心地のいいソファベットにしたいと思って、最近考えていたところ、事務所で使っているものがいいかもなと。

灯台下暗しとはよく言ったもので、あれこれ探さなくてもよかったのです。毎日使っているものは確かだし。

ただ、今のソファベッドと形状が違うので、決心して部屋の模様替えをしてみたのです。本当に購入して大丈夫かどうかを確かめるために。

そうしたら、どういうわけか今使っているソファベッドでもそこそこいけるんじゃないかと思えてきました。

模様替えって部屋で過ごす感覚を新たなものにしてくれる効果があるのですね。そうなると、わざわざ新しいものを買わなくても大丈夫なのかも。

私のマインドが欲深くて、少し使うと飽きてしまい、新しいものを欲しがるだけなのかもしれないと気づきました。

この状態でしばらく検証してみようと思っています。マインドが欲深いのは当たり前なので、1ミリも否定はしませんが。

意識的であれば、死を恐れない

充分に意識的に生きることができれば、最終的にはきっと死を恐れることがなくなるのだろうと思っています。

その理由は、死と戦わなくなるからです。死の最中に意識的であるなら、それを見届けることができるはずです。

それはどのようにやってきて、どうやってこの自己をどこへと誘うのか?その様を見ようとするからです。

それは戦う姿勢とは真反対なものとなるのです。死と戦って勝つことができる人など誰もいません。

一見すると、死は私たちからあらゆるものを奪い去っていきます。けれども、意識的であれば所有というのが単なる思考であることに気づくのです。

所有がなければ、奪われるということは起きないのです。だから安心して死の訪れを意識的に見守ることができるのでしょうね。

意識的である人は、知らず知らずのうちにその準備を始めていることになるのです。死は何も奪いません。

その代わり、これが自分だと思っていたものの全てから、あなた自身が離れていくことになるのだと思います。 

生存の危機は怒りを抑圧する

このブログでは毎度お馴染みの情報ですが、怒りという感情を抑圧してしまう3つの要素があるという話です。

それは、恐怖と罪悪感と自己否定です。この3つのうち、1つでも抱えていれば怒りは必ず仕舞い込まれてしまいます。

特に、幼い頃にもっとも影響してしまうのが恐怖ですね。泣く子も黙るという言葉があるように、恐怖は怒りだけでなく自己表現も抑え込む力があるのです。

その恐怖の中でも、特に1番強烈なものは何かというと、それは自分の生存が危ぶまれるような恐怖です。

つまりは、この先を生き延びていくことが難しいと感じるような環境、例えば食事を長期間出してもらえない、あるいは生きている必要がないという圧力を与えられる等々。

そのような環境では、今日を生きることがやっとなので怒りを感じるような余裕が心になくなってしまうのです。

幼い頃にそんな環境で育ってしまうと、癒しを進めて行ってもそう簡単には、怒りを感じることができなくなるのです。

それは当然のこととして、それでも長い目で見ることが必要です。時期が来ればいずれは、自ずと知らずに溜め込んだ怒りが放出されることになります。

とても大変ですし、疲労困憊することになるでしょうけれど、一生に一度の大チャンスだと思って目を逸らさずにそれと向き合っていくことですね。

「一発逆転」の心理

最近の宝くじの当選額はハンパじゃないですよね。一等&前後賞で7億円なんてのもあったりして、凄い額になってたりします。

100万円でも当たれば嬉しいですが、本音は一発逆転で7億円を狙っているのは当然ですね。つまり一発逆転とは、いっきに平均値をはるかに超える事です。

元々お金持ちの人は、一発逆転を狙う必要がないのです。競馬でお金をすってしまって、最後のレースに残りのお金を全部かけて、一発逆転を狙ったりします。

元金を取り戻すよりも、大穴にかけて一発逆転を狙って一か八か勝負するわけです。本来なら元金が戻ってくれば良いはずですが、それでは満足しないのです。

この「一発逆転」を人生かけてやっている人がいます。ご本人が気づいているかどうかは分かりませんが。その理由は上記の事例を見ればすぐに分かります。

要するに、今のままでは自分はダメだと思い込んでいるからですね。この状態を少しずつ地道に平均値まで上げようとは思わないのです。

その代わりに何とか頑張って一発逆転して、平均値を遥かに凌ぐ地点に自分を持って行こうとしてしまうという事です。

具体的には、人がやらないような無謀なことに挑戦してみたり、異常なほど良い人或いは正しい人でいようとしたり、とにかく自分への期待値を高く設定するのです。

もしも一発逆転を狙ってる節があるなと感じるなら、「このままの自分ではダメだ」という間違った自己イメージを持っていることを見抜くことです。

そしてその思い込みがどれほどバカバカしいものなのかに気づくこと。それ以外に自分らしい人生を取り戻す術はないと深く理解することですね。

Let it Be

私が確か高校生の頃に、ビートルズが 「Let it Be」を発表して、ポールがピアノを弾きながら歌う姿を見て、心を奪われたのを覚えています。

天才がまたやっちゃったって。しかも曲が素晴らしいだけでなく、今度は詩もすごく入ってくるものがあったのです。

ビートルズの曲の歌詞は、英語なのですが比較的平易なものが多くて、ちょうど高校生くらいだと何とか理解できるレベルだったようで。

レットイットビーとは、あるがままにしておけ、くらいの意味だと解釈したのですが、今の自分だと「対処するな」といったところかなと。

他の言葉で言えば、これもいつも言っていることですが、ただ起きることが起きているに過ぎないという感覚。

残念ながら、レットイットビーをリリースしたその年に、彼らは解散してしまいました。ああ、やっぱりなと思ったのをよく覚えています。

歌詞の中に、確か彼らはバラバラになってしまうかもしれないけれど、いつかまた再会することができる云々という言葉があったかと。

そんな時期で、きっとポールはそのことで悩んでいたのでしょうね。再結成は実現しませんでしたが、マリア様の言葉である「そのままに、委ねなさい」が刺さりますね。

自分を解放するモットー

子供の頃からいろいろなモットーを持っていたように記憶しています。それは自ら頑張って作るというようなものではなく、気がついたら何となくあったという程度。

その多くは、自分を不自由にしているものから自分を解放するのが概ねの目的だったように思います。

例えば、「正義の味方を引退する」というのは、勝手に正義の味方をやっていたことに気づいて、それをただやめようと思っただけのこと。

でもそれを自分の中で明確にする必要があったのでしょうね。ずっとやってきたことって、はっきりさせないとまたすぐに戻ってしまう傾向にあるからです。

もう少し大人になると、「かわいそうに負けない」というのを作りました。これは自分の中では結構画期的でした。

要するに、かわいそうな人、大変そうな人、申し訳ないと感じてしまうことにやられないようにしたのです。はっきりと、「ノー」を言うということ。

別の言葉で言えば、罪悪感なんかには負けないということ。その後は、「義理を欠いて生きる」というモットーもありました。

義理と人情を握りしめてしまうと、不自由さがつきまとうことに気づいたからでしょうね。

あるいは、「いい人をやめる」とか、「何でもあり」、最近では、「少しぐらい傷ついてもいい」というのもありますね。

決定的なものとして、「正しさをドブに捨てる」というのもあります。正しさを優先して生きると、自己犠牲が大きくなるからです。

皆さんは、どんなモットーを持っていますか?自分を解放して、自由になれるようなモットーを沢山持つといいと思いますね。