もし醒めるのだとしたら
あなたは両方に醒めなければならない
生は苦痛であり、快楽である
生は幸せであり、不幸せである
生は昼と夜
生は生と死だ
あなたは両方に醒めなければならないのだ
by osho
もし醒めるのだとしたら
あなたは両方に醒めなければならない
生は苦痛であり、快楽である
生は幸せであり、不幸せである
生は昼と夜
生は生と死だ
あなたは両方に醒めなければならないのだ
by osho
戸外にいて気持ちのいい季節になってきましたね。気がつくと自然に深呼吸をしていて、柔らかな空気を胸いっぱい吸って、静かな恍惚感に浸っていられます。
寝っ転がって青空だけが目に入るようにしていると、メガネをかけていても外しても、見え方に違いがないことに気づいて小さな驚きを感じます。
奥深いものを見るときには、視力というものは意味をなさないんだなと思ったりして。次に、張り出してきた清潔そうな真っ白な雲を見ます。
ほんの少しずつ形を変えながら動いている雲を愛おしいと感じていると、ふいにあの雲は外側にあるように見えていて実は距離がないと感じるのです。
その雲との一体感、その雲は自分の内側にあるという感覚を味わっていると、そんなわけないだろ!という皮肉な考えがやってきて、気持ち良さを台無しにするのです。
思考はいつだって、そのようにして理由のない至福感を否定してくるのです。なぜなら、思考にとって理由のない満足感、至福感は脅威だからです。
思考の存在価値が危うくなってしまうからなのです。そんな思考さんを可愛く感じながら、ただただ何もなさの中に在ることの至福こそが唯一の実在だと直感するのです。
osho 曰く、
『あなたが自由のために苦しむとき
その苦しみはいい
あなたが束縛のせいで快適だったら
その快適さはよくない』
たとえば、親兄弟や大切な人が望むようにできないとき、自分の気持ちを優先しようとすれば、そこには苦しみがやってきます。
罪悪感という苦しみです。相手の期待に沿うことができなければ、人は必ず罪悪感を感じることになるのです。
とことん自由に生きようとすれば、このようにして罪悪感という苦しみがセットとしてやってくることが多くなるのです。
でもその苦しみには価値があると言っているのですね。
一方で、自分の本音を押し殺して、相手の気持ちを優先するなら、安心という快適さを手に入れることができるのですが、その快適さには価値がないということです。
自由でいるというのは、人間として最も価値あることですが勇気も必要だということですね。そして、それを超えた真実の自由とは、自分自身からの自由です。
その自由には、罪悪感を含めてどんな苦しみもやってくることはなくなるでしょう。それが完全なる明け渡しということです。
街や公園などで見かける鳥は、つがいでいることが多いですね。鳥の種類には詳しくないのですが、二羽で佇んでいる姿を見ると、何となくですが微笑ましい感じがします。
仲が良いように見えるからかもしれません。人間でも同じことが言えます。仲の良さそうなカップルを見ると、なんだか暖かな気持ちになります。
ただそれだけで充分なのに、なぜか人間だけが結婚という特別な制度の中にいるのです。ただ仲良し同士ではダメで、適齢期などというものとの兼ね合いで、いずれは結婚という形がちらつくのです。
結婚という制度を成し遂げると、どういうわけか一安心するのですが、制度の中に身を置くようになることで、先ほどの鳥のつがいのような自由さは失われていくのです。
結婚制度は一種の契約であるために、一番大切な自由を安心との引き換えに奪われてしまうのですが、そのことを本気で考える人はあまりいないかもしれません。
この社会を円滑に機能させるためには、人間同士の契約というものが絶対的に必要になるのはもっともなことですね。
お金の貸し借りや、さまざまなルールを守るためにも、契約形態というものが必要なのです。けれども人の心や気持ちに対して、契約を充当させるのは非常に不合理なのです。
好きとか嫌いという気持ちは、理性や意志の力でどうなるものでもないのですから。そこでどんな約束事をしたとしても、所詮は守れるものではありません。
だから結婚制度は死を意味するのです。片方がもうこの人とは一緒にいたくないと思っても、一度契約した以上は、責任を全うしなければならないというわけです。
こんな制度のなかにあっては、誰も本当には満たされるはずもありません。自分の自由を尊重できる人は、相手の自由をも尊重するはずなのです。
もしも相手の気持ちが自分から離れてしまったとしたら、潔くそれを受け入れることです。誰もが内側の痛みから逃げずにそれを肥やしにするようになれば、結婚制度は自然と滅びていくのでしょうね。
生と戦わないこと
さもなければ、あなたは負けを見るだろう
明け渡しなさい
そうすれば、あなたの勝利は確実だ
降伏の中に勝利があり
戦いの中に敗北がある
もしあなたが欲求不満だとしたら
それはただただ
あなたが必死に戦ってきたことをあらわしているにすぎない
by osho
自分とは一体何なのだろうか?ということを自分自身に問う時、始めにやることは余分なものをはずしていくということです。
知覚や記憶を使って判断する自分も脇へ置いてしまうと、一体後に何が残るでしょうか?そうしたことを問い詰めていくと、きっと意識だけが残るのです。
実際に試して貰えば分かることですが、意識だけは他のどんな要素も必要とせずに、ただ在るのです。それを超えていくことはできません。
意識というのは、ただ気づいていることを指します。ただ在るということに気づいている、これこそが自分の一番根っこにあるものです。
それ以外のものは、すべて表面的であって顕れたり消えたりするのです。このただ在ることに気づいていることは、万人に共通しています。
そしてこの共通しているというのが実は胡散臭いところで、それは思考が類推していることに違いありません。
けれども思考を排除したときの実体験としては、意識が個別に在るということではありませんでした。意識をどのようにしても、個別化することは不可能なのです。
ということは、ただ在るということの気づきは、誰もが共通に持っている何かではなくて、それこそが全体性だということです。
一つものなのですね。だから私の意識とかあなたの意識などという表現がすでに間違っているということです。
意識こそが全体性であり、それを私たちがシェアしているのではなく、その反対に意識が私たちを通して、この現象界を形作っているということです。
あなたの最奥にあるものは、私のそれと一つものなのです。
生は生きられるべき神秘であって
解かれるべき問題ではない
これを、あなたの中でごく基本的な理解にするがいい
生はまったく問題などではない
それを楽しみなさい!
その中に歓喜するがいい!
それを生きるのだ!
何でもすきなことをするがいい
だが、どうか
それを解こうとだけはしないこと
by osho
私たちの中にでっち上げられたエゴがやっていることというのは、シンプルに表現すれば問題を見つけては、それを解決しようとすること。
どれだけ人生が複雑に思えたとしても、所詮はただその繰り返しに過ぎないのです。このことを深く理解することです。
問題というのは、実在するものではありません。エゴの思考によっていくらでも作り出されてしまうだけなのです。
だから自分の身の上に、何か問題が起きたとしたら、「ただそれだけ」というところにマインドを持っていく練習をすればいいのです。
起きていることの半分は都合のいいことであり、残りの半分は不都合なこと。この不都合が起きた時こそ、ただ不都合だと感じることが起きただけだと気づけばいいのです。
それを何とかして解決しようとか、うまく対処するにはどうしたらいいかなどを、積極的に考えてしまうと、そこから連鎖が始まるのです。
問題→解決→問題→解決、そしてこのループは無限に続くことになり、エゴはそれを人生の糧として生き続けるわけです。
一つヒントを言えば、問題を生み出す原動力は不安です。私たちは問題が起きるから不安になるのだと信じていますが、実は不安感が問題視する見方を作っているのです。
だから、問題→解決のループから抜け出す最善の方法は、不安を感じるときに、それをそのままにしておくということなのです。
ただ不安がやってきていると意識することです。その練習を続けていくことで、不安に突き動かされることが少なくなっていくはずです。
安心しようとしないでいられるなら、内側の平安は自然とやってきてくれるでしょうね。
すべての努力は
あなたがすべての努力を後にして
無努力になるその地点まで
あなたを導いて行くものにほかならず
すべての探求も丸ごと
あなたがただ肩をすくめて木の下に坐り落ち着く
その地点まであなたを導いて行くものにほかならないのだという
このことを覚えておきなさい
by osho
自己否定がやってきては去っていく程度のものであれば問題はありません。誰だって、失敗したり他人から嫌味を言われたら、自己否定感を持つでしょうから。
そうした一時的な否定はあって当たり前なのです。問題は、マインドの底にへばりついて拭い去ることのできないような永続的な自己否定なのです。
そのような自己否定というのは、人生の初期の頃に作り上げてしまったものなのです。そして本人は、その否定、ダメ出しは当然のものだと感じているのです。
たいていの場合、〇〇のような自分、〇〇ができない自分、〇〇をしてしまう自分、だからダメなのだとしてダメ出しのれっきとした理由があると思っているのです。
けれどもその理由は後付けしたものなのです。本当の自己否定というのは、自分自身には理由のないものなのです。
理由なき否定、つまり存在否定です。存在を否定するのにどんな理由が当事者にあるでしょうか?自分独りだけで存在否定することは不可能ですね。
それは主に親兄弟との関わりの中で、本人が勝手に思い込んでしまうのです。その思い込みが強すぎて、動かしがたい事実だとしてしまうのです。
そうしてその自己否定は間違ってなかったことを証明しようとするマインドと、頑張ってその自己否定を何とかして払拭しようとするマインドとに分裂してしまうのです。
このようなマインドのカラクリに気づかなければ、一生が悪あがきで終わってしまうかもしれません。大切なのは、とにかく自己否定をやめられないマインドを理解することです。
深い理解がやってきたときに、自然と自己否定は消えてしまうでしょう。なぜならニセモノというのは、光を当てられたらもたないからですね。
部屋の窓を開け放っていると、とても気持ちのいい風が入ってくる季節になりました。その外の空気とともに、もう一つ入ってくるものがあるのです。
それは近所にある小学校で遊んでいる子供たちの声。途切れることのないその声たちをただ聞いていると、自分の内側の状態に気づくことができます。
何となく気分の悪い時には、その声がうるさく聞こえてきたり、鬱陶しいもののように感じてくるのです。いつまでやってるんだ、くらいの感覚。
一方で、シャワーを浴びてゆったり寛いでいるときなどは、子供達の声が転がるような感じがして、耳心地がいいのです。
自分が子供の頃には、毎日のように聞こえていた甲高い声を懐かしく思い出すことになったりもするくらいなのです。
すごく嬉しいことがあったときには、日頃相当に眉をしかめるようなことでも、笑って受け流すことができたりするし、その反対もしかり。
要するに、周りで何が起きているかということが重要なのではなく、それをどんな気持ちで反応するかがすべてなのだということ。
それなら、なるべく内側を柔らかな状態に保っていられるなら、何があったとしても大丈夫だということですね。
そのためには、できるだけ意識的でい続けるということが最も重要なことではないかと思います。充分に意識的でいると、激怒したりひどく落ち込むことができないからです。