穏やかな母親が見れて何より嬉しい

今日も心不全で入院中の母親のところに、見舞いがてら行ってきたのですが、昨日くらいから少しずつ流動食を食べるようになって、ややエネルギーが戻ってきたような。

とはいえ、老人ホームにいた時と比べたら、誰がみても相当に怪しい状態であることには変わりないのです。

ところが、今日の母親はいつもと少し違っていました。急に、「ここは静かでいいねえ!」と言うのです。

どこにいてもそんな言葉はこれまで聞いたことがなかったのに。今の病室だって、老人ホームよりも静かということはないのです。

向こうの病室から心電図のピッピッという音が聞こえてくるし、それなりにザワザワしているのです。

それから、母親はこうも言ったのです。「寂しいというのも全然ない」と。昔から、独りは絶対嫌だと言っていたはずなのに。

それで何となく理解したのです。母親の心の中がいつになく穏やかな状態になったのだろうなと。心の中が静かになったので、周りが静かだと感じるのでしょうね。

身体のどこも痛くないし、心も静かで平和な状態になれて何よりだねと伝えたのですが、静かに頷いてくれた感じもしました。

帰る時に、じゃあまた来るからねというと、「来てくれてありがとう!」と言って手を振ってくれたのです。

これは回復するかもなと。回復してもしなくても、とにかく母親の自我が後退してくれたみたいで、それが何より嬉しいことですね。

瞑想により、苦手を克服

人にはそれぞれに苦手なものってありますよね。私の場合は、「待つ」という行為が本当に苦手だなという自覚があるのです。

待つことを拡大すると、渋滞にハマることも入るし、当然のこととしてスーパーなどのレジの待ち行列とかも大嫌いなのです。

理由は定かではありませんが、もしかするとなんとなく自分の自由を奪われているような感覚になるのかも。まるで奴隷にでもなってしまったような感覚。

だから並んだりしても、諦める自由がある時にはすぐに諦めて自分を解放してあげるのですが、まあ大人っぽくはないですよね。

ところが最近は、腰掛けていられさえすれば、待つことが苦ではなくなってきたのです。それは瞑想という逃げ道を発見したからです。

例えば、今日は午前中から、30分の充電時間中ずっと車中で瞑想することで、苦しみが喜びに変化しました。

次に、背中などの身体の痒みを抑える薬をもらうために皮膚科へ行ったのですが、診察までの待ち時間ずっと瞑想してました。

さらには、近くの薬局でも同様にして処方されるまでの間、何はともあれ瞑想していることで何の不自由も感じずに目的を遂げることができました。

午後からは、入院している母親の病室で、主治医の先生を待っている間にも、静かに瞑想をしていたことで待つことが怖くなくなったのです。

「待つ」という大の苦手を「瞑想」によってむしろ楽しみの時間にすげ替えることができたのは、ありがたいことですね。

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気づき=距離

私たちが何かを行動する時には、それを無意識的に行っている場合もあれば、そのことに気づいている場合もありますね。

そして、無意識的である時にはその中に埋没してしまっているので、決して気づくことはできないのです。

一方で、気づきを持って行動している時には、そのこととの間に明確な距離があるのです。つまり、気づきというのは距離であると言ってもいいのです。

何かに気づいている場合、そのターゲットからは距離があるため、決して一体とはならないでいられるということです。

その距離というものの正体は何かというと、見守るための距離のことなのです。何かを見るためには、必ずそのターゲットとの間に距離が必要だからです。

だから、見守ること、あるいは気づいているためには、確実に距離が必要になるわけです。だから埋没しないでいられるというわけです。

そしてただ見守るというのは、思考にまみれた自我ではなく、意識の範疇になるのですね。結局、気づいていることさえできれば、あなたは意識として在ることになるのです。

自我から距離を置くためには、兎にも角にも気づいていること、これしかありません。それを意識的であるという言い方で、このブログでも繰り返しお伝えしてきました。

言葉を変えれば、ただ気づいていること。どんな労力もエネルギーも使う必要がないはずなのに、自我として生きている私たちには難しく感じてしまいますね。

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自動思考はしぶとい

この数ヶ月というもの、穏やかで気持ちのいい音楽を集めて、それを聴きながら瞑想することが習慣になっていました。

朝出かける前に、そうやって瞑想をしているとなんとも恵まれた境遇だなと感じたりして、これはもうやめられないなと。

ところが今朝は、引越し後初の週末ということもあったりして、あまり瞑想の時間が取れないので久しぶりに音楽なしで行ってみたのです。

すると、音楽がなくても十分に集中できるし、もしかしたら昔に戻って、音楽なしの方が深い瞑想に入れるのかなと思ったりもしたのです。

けれども、ちょっと衝撃的なことに気づいてしまいました。それは、音楽アリの時には気づけなかった小さくて微細な自動思考がずっと蠢いているのです。

要するに、音楽の気持ちよさに紛れてしまって、気づくことができなかっただけで、その自動思考はずっと私のマインドの中で暗躍していたのです。

瞑想中に自動思考って、これもうダメダメじゃないですか。言葉にならない程度のものなのですが、それがなんとも気持ち悪いのです。

わあ参ったなあと思ったのですが、もしかするとこの自動思考はずっと以前からあったものだろうし、かえって瞑想を続けてきたからこそその存在に気づけるようになったのかもと。

そうやって、いいように解釈してみたものの、大切な瞑想を邪魔されていたことにも気づかずに、ああいい気持ちとかやっていたと思うと、悔しい感じがします。

ピカピカのお気に入りのクルマを購入して悦に入っていたのに、詳細に見てみたらボディに細かい傷が沢山あるのを見つけてしまった、みたいな。

瞑想の時でさえ自動思考が止まらないのであれば、もうそれを止めようとする努力をやめて、ただ見守るという姿勢のまま瞑想をするようにしようかなと考えています。

欲望が消えてしまったら

私たちの不運は、自分自身のことを一人の個人だと信じ込んでしまったことからやってくるのです。それが全てなのです。

この世界から分離して存在する独立した個人という思いから抜け出さない限りは、何を手に入れたとしても満たされることはありません。

私たち自我の生きる原動力とは、この満たされない気持ちをなんとかして解決しようとする精神活動なのですね。

それを欲望とか、欲求とか、希望などという呼び名で表現しているのですが、要するにこのままではいられないという切実な思いなわけです。

もしもあなたが個人という幻想を見破って、自分の本質に気づくことができたら、あらゆる欲望は消えてしまうはずです。

なぜなら、本質は完璧だからです。何も望むことが無くなってしまうからです。そうなると、自我としての精神活動が影を潜めてしまうことになるのです。

そして、自我との同化は消え去り、代わりに本来の自己としてのあなたが姿を現すことになります。それが純粋な意識ですね。

自我として生活している私たちには、自我が消滅した後のあらゆる欲が消え去った状態には、どんな魅力も感じないかもしれません。

でもちょっとそれを覗いてみたいとは思いませんか?苦しみとか悩みといったものがない世界。残念ながら自我の私たちにはそれを見ることも想像することもできないですけどね。

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自分自身でいる

真面目に正しく生きていれば、いずれは幸せになれると信じている人がたくさんいます。今はまだ無理だけど、いずれはと未来に託しているのです。

けれども、どれほど正しく生きようと、今が辛いのであればそれが幸せに転じることなど決してないのです。

正しいことと幸せとは、縁もゆかりもありません。むしろ、正しい生き方を頑張ることで、幸せから遠ざかる可能性の方が高いのです。

もう一度ここではっきりさせましょう。正しさとは、幸せになるための要素ではないということです。

落ち着いて冷静に考えてみればすぐに分かることです。幸せであるためには、たった一つをクリアしておくことだけが必要十分条件なのです。

それは何かというと、私が唯一の責任と称していることでもあるのですが、「自分自身でいる」ということ。

これしかないのです。他にはどんな義務も責任もないので、唯一と呼んでいるのですが、それこそが幸せになるための条件だったのです。

じゃあそれをチェックして、それが果たされていないのであれば、それを実践していくことに尽きるわけです。

間違っても、正しさを背負い込むような馬鹿馬鹿しい生き方を選ばないように。未来に期待せずに、今この瞬間の自分がどういう状態で生きているのかを正面から見つめることです。

自分自身でいること、自分に正直であること、あるがままでいること、他の誰かにならず無邪気でいること、内側は野生のままでいること等々、これですね。

自分とは誰? その2

昨日のブログで、究極の探求とは「自分とは誰か?」というものだということを書きましたが、ここには大きなトリックが潜んでいます。

それはなぜかというと、自我である私たちが自らの本質を探求しようとすれば、結局のところ自分自身が邪魔になってしまうからです。

真理に近づこうとすると、いつも自己矛盾というのか逆説的といえばいいのか、そう言ったものが顔を表すことになります。

不思議だなとつくづく思うのですが、理路整然としていて理屈で全てを解明できるものって、真理からはまだ遠いと思っていいくらいなのです。

話を元に戻して、自我が自分の本質をとことんまで探求していく時に、最後の最後でどうしてもその探求が自我によって邪魔されてしまうのです。

探求という行為そのものが、自我を活性化させ続けることによって、自我の背後に隠されている本質を見えなくしているからです。

つまり、ちょっと哀しい話になるのですが、自我である我々が自らの本質と出会うことは決してあり得ないということですね。

自我が最後の最後で探求を諦め切った時に、ようやく自我が消えていくのと入れ替わるようにして、初めて本当の自己が顔を出すのです。

そして、こっちこそが本当の自分だったと気づくことになるのでしょうね。自我という夢を見ていただけだと。

自分とは誰?

人類が誕生した時からずっと続いてきているもの、それは「探求」です。あらゆる方面に向かって探求が起こってきました。

果てしない宇宙の探求もあれば、科学全般を探求することで目覚ましい発展を遂げてきたという事実もあります。

探求心というのは、我々の欲望の中でも際立って大きな、しかも肯定的なものであることは間違いありませんね。

ではその探求心の原動力とは一体何でしょうか?これは私の個人的な意見にすぎないのですが、それは「自分とは誰か?」からきていると思っています。

全ての探求心の根っこにあるもの、それは自分という存在の不思議を解明したい、自分の本性を暴きたいという欲求からきているのです。

けれども、それがあまりにも荒唐無稽で一体どこから探求を始めればいいのかも分からないために、その代わりとして周囲にあるあらゆるものを使ったのです。

ということは、逆にいえば自分とは誰か?を探求して行って、行き着くところまで行ったとしたら、もうそれで全ての探求が終わりを迎えるということになるのかなと。

自分の正体に気づいた途端に、もう解明すべきものは消滅してしまうからです。だとしたら、この世界に放り出された瞬間から、自分とは誰か?という問いが与えられていたのです。

そう、私たちがここへやってきた本当の理由は、自分で自分の正体に気づくことなのでしょうね。一瞬で気づくことができるのか、あと数十万年かかるのか分かりませんが。

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忘却という自我のゲーム

私たち自我の内面のことを心、あるいはマインドと呼んでいるため、いかにもそういう何かが存在するように感じてしまいがちですね。

けれども、何かがあるわけではなくて、分離感からやってくる不安やおそれ、そして欠乏感などを何とかしようとする精神活動のプロセスこそが、心(マインド)なのです。

だから一時的であれ、その精神活動が休止するなら、そこにマインドはないということなのですね。でも休止することなんて、ほとんどないのです。

なぜなら、精神活動のプロセスのメインとなるのは、欲望だからです。欲望のない自我なんて自我では無くなってしまうから。

欲望によって日々駆り立てられて生活しているのですから、それがさらなる欲望の原動力となって、そのループは終わることがないのです。

ただし、瞑想を繰り返し生活の中に溶け込ませていくことで、幾分は欲望から離れていられる時間ができたりするのです。

その瞬間は、マインドの常である混乱もなく、過去や未来への堂々巡りのエネルギーロスも無くなって、ただ在ることだけが残っているのです。

その時に、ようやく何の理由もない満たされた感覚になれるのです。不思議ですね、満たそうとすれば決して満たされることはないのに。

その理由のない満たされた感を感じていることが、とても嬉しくて歓びにもなるのですから、自我の生活がいかに的外れなのか分かります。

とはいえ、自我の立場からすれば、一寸先の未来も見えず、過去へも戻ることもできず、世界と分離した個としての自分を守れるのは、自分しかいないと信じてしまっているのですから。

自我はいじらしいなと最近思うのですね。自我から解放されたいと願う一方で、自我の真実を忘れてしまうゲームを楽しむということもありなのかなと。

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真実はひっくり返らない

1ヶ月ほど前にあげた動画で、「二元・非二元について」というテーマのものがあるのですが、言葉が地味だからかあまり再生されてないようなのです。

普段あまり使わない耳慣れない言葉だからかもしれませんが、実はとても大切なことなのです。私たちの日常がいかに真実ではないかに気づくために。

というのも、真実は非二元である一方でこの現実を二元の世界だとして捉えて私たちは生きているからです。

二元性とはあらゆるものを分離していると見る見方から起きるのですが、そのことに気づかずにいることでとても苦しむことにもなるのです。

例によって、次のoshoの言葉を味わってみてください。

私たちは、二つの言葉としての愛と憎しみを落とすべきだ。私たちは「愛憎」というひとつの言葉を創るべきだ。私たちは、二つの言葉としての昼と夜を落とすべきだ。私たちは「昼夜」、「生死」というひとつの言葉を創るべきだ。そのほうがより真実で、より現実に近い。私たちの分割は偽りだ。

例えば、あの人を本当に愛していたはずなのに、裏切られたために今度はひっくりかえって憎しみを感じるようになってしまった等々。

こういうことはしばしばあることですが、不思議でも何でもなく、自我の愛というのはその裏側に憎しみを隠し持っているということなのです。

そのことを知らずに、ただ愛していると信じ込んでいるために、自分の気持ちが突然憎しみに変化してしまったことに戸惑うことになるのです。

二元性というのは、常に真反対の相棒とペアで考えてあげる必要があるのです。「明けない夜はない」という言葉があるくらいです。

それは、どれほど辛い状態が続こうとも、必ず好転する時がやってくるということ。なぜなら、二元性の世界はいずれはひっくり返るからです。

あるいは、その反対もありですね。いいことと悪いことは、互いにひっくり返ることになるということを知っておくと、気持ちが楽になるのです。

ひっくり返らないのは、思考から離れた意識だけの世界であり、それこそが非二元ということになるのですね。