人生物語というマインドの創りもの

あなたの思考すべてが、あなたとあなたの生を創りだしていることがわかる。それらがあなたの地獄を創りだし、あなたの天国を創りだす。それらがあなたの惨めさを創りだし、あなたの喜びを創りだす。いずれも幻想だ–苦痛と快楽、甘美な夢と悪夢、いずれも幻想だ。

by osho

このブログの主題とも言えることが、この↑短い文章の中で明確に述べられていて、何度読み返して見ても気持ちがいいのです。

私たちは、それぞれのマインドが創り出した世界で生きているのです。マインドは自らの内部事情を外側へ投影することで、人生という物語を創っているのです。

そうしておいて、一方ではそのことには気づきもせずに、自分とは無関係に世界が動いていると感じるのです。

だから不自由極まりないのですね。都合のいいことが起きれば、自分は幸福だと感じるし、都合が悪い事柄の中に巻き込まれれば不幸だと思うのです。

それが自作自演であることには気づきたくもないのでしょう。なぜなら、だれに対しても文句を言えなくなってしまうからです。

もしもマインドを見ることができたなら、見る立場にいられるとしたら、そのマインドが創り上げている物語も同時に見る側に回ることができるのです。

人生物語が悪いということではなくて、それは現実という名前の幻想だと気づくことでしか、惨めさから抜け出す方法はないということです。

より正確に言えば、「惨めな自分」という思い込みが消えてしまうということです。天国も地獄も、惨めさも喜びも、苦痛も快楽も、甘い夢も悪夢も、全部消えて、後には真実だけが在るのですね。

私を見るということ

5W1H ってありますよね。what, when, where, who, why, how というものですが、これらがあればどんな疑問文でも作れるわけです。

私自身を探究しようとするときには、What(Who) am I? となりますが、When am I? と Where am I? は意味をなしません。

なぜなら、時空は本質的な何かではないと直感的に理解できるからです。無理やり答えるなら、When am I? に対しては、「now」 になるし、Where am I? に対しては、「here」が答えです。

そして真実に目を向けようとするときに気をつけなければいけないのは why ではないかと思うのです。

なぜか?という疑問はどのように回答しようと、真理から離れた思考の中へと入っていかざるを得ないからです。

エゴは「なぜ?」が好きですし、科学の進歩にしても、この「なぜ?」が原動力となって進化してきたわけですが、真理については「なぜ?」は通用しないのです。

真理はただそうであるようにそうだからです。マインドがどれほど疑問を感じようが、矛盾を発見しようが真理はおかまいなしです。

最後に残ったHow am I? は使えそうな気がしますね。私とはどのようなものなの?私とはどうなっているの?といった探究は必要だからです。

それで結局、真理の探究としてできることは、それを見るということ、私を見ること、私を調べること以外にはないのですね。

ということで、今日もせっせと私を見ることにします。

「私とは何か?」という問いかけ

私に関する限り、人生においてもっとも重要なこととは、「私とはだれか?」「私とは何か?」ということです。

この問いかけに明確に言語で答えられる人は一人もいないはずです。なぜなら、答えは言語という思考の外側にある何かだからです。

勿論言語レベルで答えるなら、一人の人間であって、日本人で、年齢は、性別は、職業は…。そうした社会の中での姿を説明することはできます。

けれども、自分の中でそれはほんの表面的な部分であって、真実はそんなものではないということがはっきりと分かります。

分かるけれども、マインドが邪魔をしていてそれをもっと深めていくことが難しいというところにいるような気がするのです。

若い頃であれば、どんな学校に入れるのか、どんな職業につくのか、だれと結婚して年収はどれくらい?などということがとても大切なことでした。

これは当たり前のことですね。そういうところを通り過ぎて来た今となっては、幸運なことかもしれませんが、そうしたことの延長線上には何の望みもないと分かってしまったのです。

後はただ一人の人間として生きて、死ぬ日がやってくるのを待つのみなのです。だからこそ、前述の問いかけが非常に大切なこととして残ったのです。

「私とは何か?」という問いかけにおける私とは、エゴのことではありません。エゴの正体であれば、これまでのセッションの積み重ねで概ね分かってきています。

「私」を通り越して、もっともっと無限に自分の中心へと目を向けていった先の本質とは何か?ということですね。

どんなイマジネーションもいらない

子供は想像力が豊かで、大人では全く予想もできないようなことを考え出したりして、存在しない何かと会話したり一緒に遊んだりするようですね。

勿論それは、子供には大人が持ってしまったような常識だとか、制限といったものがないからなのです。

既成概念に捉われないという意味では素晴らしいことかもしれません。ただし、何かに夢中になっている子供は、想像力など使わないものです。

ただ遊んでいることに熱中するのです。これは私の意見に過ぎませんが、想像力を逞しく使う子供というのは、どこか悲しかったり物足りなさを持っているのです。

そうやって孤独を紛らわして見たり、辛さを忘れようとする、いわゆる現実逃避の面があるのではないかと思うのです。

大人になっても、心が満たされていない分、イマジネーションを駆使して現実から解放されようとする傾向があるのですから。

イマジネーションとは単なる思考に過ぎません。思考によって過去や未来へと意識を向けてしまうのですから、それはエゴの範疇なのですね。

それは真実から離れていく方向でしかないということを忘れないことです。そのことに気づいているのでしたら、好きなだけイマジネーションの中で遊ぶのも悪くはありません。

どんなイマジネーションもやってこなくなったときに、ただ今この瞬間だけが真実だとはっきり理解することができるのですね。

ふつうは難しい

ふつうになりなさい。それは私の教えでもある。もしそれを教えと呼べるならだが–。というのも、今日に至るまで、教えは、あなたがたをどこかふつうでない目的に駆り立ててきたからだ。だが、覚醒した人に尋ねたら、彼らはつねにこう言ってきた。ただふつうでありなさい、と。

by osho

エゴにとって最も価値のない人間とは、ふつうと言われるような人物なのです。なぜなら、エゴにとって独自性が最も魅力があるからです。

私たちの誰もが、特別でありなさいと教えられたのです。人と違う意見を持ちなさいとか、人と違う物の見方、人と違う発想をしなさいと言われて育ったのです。

あなたでなければできない何かを発見しなさいとか、人よりも人格を高めなさい、人よりも徳を積みなさい等々。

とにかく、誰もがやれているようなことをどれほど、ふつうにできたところで、何の意味もないと洗脳されてきたのです。

ふつうでいいと思うなら、それは密かに諦めているところがあるのです。これ以上努力しても自分の実力では限界があるので、もういいやということです。

ふつうというのは、求めてもそうはならないのです。求めることをやめたときにこそ、本当のふつうさがやってくるのですから。

だからふつうはとても難しいのですね。

本当は誰のため?

銀座にあるとある小学校で、アルマーニの標準服を採用する云々が物議を醸しているというのを、お昼のワイドショーでやっていました。

正確な情報を把握しているわけでもなく、そのニュース自体にはあまり興味もなかったのですが、そのことを決めた校長先生のコメントを聞いてびっくりしたのです。

というのも、彼は「○○小学校の発展のために…」ということを言っていたのです。それ以外のことはともかく、これだけが耳に残りました。

どんな組織であれ、それを守ろうとすると変なことが起きるのです。教会は信者のためにあるし、相撲協会はファンのためにあるし、学校は生徒のためにあるのです。

それが逆転して、教会を守るために活動すれば信者は犠牲となるのです。相撲協会を守ろうとすれば、ファンを裏切ることになる。

学校を守ろうとするなら、そこに通う大切な生徒たちを必ず傷つける結果が生まれるということを知らないのです。

組織というのはエゴを育む傾向が強いので、それには注意深く関わっていく必要があるということですね。

組織を守ろうとすることは、個人的な自己防衛よりもタチが悪いのです。なぜなら、それがいいことだという思いが強いからです。

私自身、自分が関わって来たどんな組織であれ、何の思い入れもありません。卒業した母校であれ、お世話になった企業であれ、発展しても潰れてもそれはそれでいいのです。

どうしても組織が必要であるなら、できるだけシンプルでエゴが介入しづらいものに留めておけるといいのでしょうね。

共存も独存もない

人は関係を超越しなければならない。そして人は孤独を超越しなければならない。共存と独存、その両方が消えたら、何が残るのか?残るものは何もない。その<無>が存在の味だ。あなたは独りでもなければ、共にあるのでもない。実のところ、あなたはいない。

by osho

人間は、人との関わりの中で生きるものです。それが少し大きくなると、社会と言われるようになるのです。社会とはエゴが作ったもの。

エゴは自分の存在を継続するためには、関係性が必要だからです。一度関係性の中で意味を持つエゴが作られると、独りでは生きられなくなります。

だから、関係性がうまく行っていないと感じると、エゴは今度は孤独を感じてしまうのです。孤独とは関係性がベースであることを表した言葉です。

関係性がないところにエゴはなく、そこには当然孤独もあり得ないということです。つまりエゴがある限りは、共存があってその裏側では独存があるのです。

したがって、エゴが作り物だということを見抜くことができたなら、そのときには共存(関係)も独存(孤独)もどちらも作り物だということに気づくのです。

もしもあなたが独りでいることを怖がるのなら、それはあなたがエゴである証拠ですが、その一方であなたが孤独を愛するのなら、それもあなたがエゴである証拠なのです。

誰かと一緒にいたいというエゴもいれば、一人で過ごしたいというエゴもいるということです。

あなたの中の「私」がいないことを見抜いたとき、関係性も孤独も消えてしまうということですね。それこそが至福なのです。

存在を見る目を養う

自分に自信のない人がとても多いのですが、それは自分の能力とか外見、あるいは性格などに自信がないのだと思い込んでいます。

けれども、本当のところ自分の存在に対しての自信がないだけなのです。つまり存在価値に気づいていないということですね。

無価値感などとも表現しますが、こうした言葉はすべて方便に過ぎません。なぜなら、本来存在に対して価値があるとかないといったことは言えないからです。

存在とはただ存在していることであり、そのことに対していいとか悪いとか、存在同士を比べるなどということ自体が不可能なことだからです。

私たちは普段物語の中に没入しています。なぜなら無意識的に生きているからなのですが、そのような状態では存在を見ることはほとんどないのです。

誰が誰を愛したとか、誰が誰を裏切ったとか、誰がこれだけの成果をあげたとか、誰が誰より劣っているといった物語ばかりを追っているからです。

意識的でいられるなら、物語の中身よりも存在に対して目を向けられるようになるのです。

それは例えば劇場にいって、演劇だけでなくその舞台、あるいは劇場という空間全体に意識を向けるような感じです。

そして自分を物語の登場人物の一人として見るのではなく、存在として見ることができるようになれば、無価値感などどこかへ消えていくことでしょう。

そうなれば、自分に自信がないなどとは言わなくなるはずです。勿論自信があるということからも離れていくのですね。

逃げずにいて我慢もしない

誰だって不快なことは嫌いだし、苦しみや痛み、否定的な感情や気持ちからは逃げ出したいと思うものです。

私たちが一番逃げているもの、それは自分の惨めさです。惨めな自分だけは見たくないのです。目をそらすだけではもの足りずに、惨めではないことを証明しようと躍起になるのです。

勿論それは失敗するのですが。なぜなら、その努力そのものが惨めだということを明確化してしまうのですから。

癒しではそうした見たくないもの、逃げ出したくなってしまう自分の隠された姿をしっかり正面から見る必要があるのです。

光を当ててしまえば、それは小さくなっていくからです。ところで、逃げずにしっかりと見ることは、我慢を強いられると思ってしまうかもしれませんね。

嫌なことから逃げずにいるのですから、我慢せざるを得ないと感じるかもしれませんが、実はそうではありません。

真正面から見るとは、我慢することではなく、ただそれと一緒にいるということなのです。目を背けずに、さりとてそれと戦わずに見るなら、そこに我慢は必要なくなるのです。

それをただ感じていればいいのです。痛いものはただ痛みとして、嫌なものは嫌だと感じながらいること。そこに闘いや防衛がなければ我慢も消えていくのです。

そのときに初めて、そこに光が当たり、闇のエネルギーが静かに溶けていくことになるのです。それが癒しですね。

意識的であれば内側へと向かう

生に完全に挫折することは知恵の始まりだ。生の無意味さを見ることは、まったく新しい旅–内面に向かう旅の始まりだ。さもなければ、あなたはひとつのものから別のものへと心を奪われつづけてゆく。見るがいい。あなたは生きてきた–。その収穫は何かね?自分の両手をのぞいてごらん。空っぽだ。

by osho

人が大切な何かに気づく時というのは、挫折したり落ち込んだり、絶望したりといった苦悩が来た時が多いものです。

それも結構大きな苦しみに見舞われたときほど、大きな気づきがやってきてくれるのです。きっとそれは、意識が内側へと向いてくれるからだと思うのです。

人生がうまく行っていたり、楽しいことがあったりしてノリノリでいれば、自然と無意識的な状態へと行ってしまうのです。

そのときには、意識は外側へ向く傾向が強くなります。ということであれば、とりたてて苦悩がこなくても、意識して注意を内向きにすればいいと分かります。

つまり、普段からすべての感覚を動員して、内側へと意識を向けるように心がければいいのです。

私の経験から言えることは、外側を意識的に見るよりも、内側を意識的に見る方が容易なのです。

内側を見るときには、意識的になることができるということですね。なぜなら内側には、外側のような魅力的な夢の中へと誘うようなものがないからです。

夢の中はいつも無意識で過ごしているのです。意識が戻れば、夢から醒めることを誰もが知っています。

ということで、今日も意識的な1日を過ごせるようにちょっとだけ努力してみることにするとしましょうか。