ただ在るもの

もし生命の川と一緒に流れることができたなら

あなたは突然

自分の死体がその川を流れ下ってゆくのを目にするだろう

一切の過去が去り

自分が学んだ一切が去り

これまで所有していた一切が去り

そこには純粋な、シンプルな実存だけがある

そして

それこそがブッダなのだ

by osho

父親が他界したときに、焼き場で最後に顔を見てこれは自分が知っている父親ではないと思いました。

つまり、これはただの父親の身体であって、私の中にイメージが残っている父親ではまったくなかったのです。

さらに言えば、その父親のイメージも私のマインドが消えていく時に、一緒に消えていくものなのだと。

この現象界で生きていたものは、例外なくことごとく消えていくということであり、後には何も残らない。

ところがその何もなさこそが本当の私たちの実存なのですね。今この瞬間でも、それをなんとなく感じることができます。

言葉では全く表現することができませんが、厳然とただ在るのです。そして本当はそれしかないのですね。

コントローラーはコントローラーと奴隷を作る

相手を巻き込むときには

(男女)関係を持つときには

関係というのは自由の中でのみ育つものだということを覚えておくがいい

けっして奴隷にならないこと

そして、けっして誰をも奴隷にしたりしないこと

これが信条であるべきだ

by osho

もしもあなたが、はっきりと「ノー」を言えないなら、自ら自分を奴隷にしていると理解することです。

そして、もしも相手が「ノー」と言うのを許さないのであれば、あなたは相手を奴隷にしていると理解すること。

こうしたことに全ての人が気づいていられるなら、この世界のどこにもパワーハラスメントなんてものは存在しなくなるのです。

けれども現実はと言えば、あちこちでそれが頻繁に起きているわけですが、本当の原因は一体何なのか?

それは間違いなく、幼い頃に身近な大人からコントロールされた経験を持つマインドがあるということ。

そうしたマインドは、大人になっても「ノー」を言うことができなくなってしまうのです。

そして一方では、大人になった時に「ノー」を言わせないコントローラーになる人もいるということ。

これで気づけると思うのですが、「ノー」を言えないエネルギーと、「ノー」を言わせないエネルギーは同じものなのです。

表面的には加害者と被害者ほどの違いがあるのですが、元を辿れば同じようなコントローラーの親に育てられた経験からやってくるのですね。

行為ではなく無為からくる気づき

もし何かがあなたの行為によって達成できるとすれば

それはこの世に属する

行為によって達成できるものはすべて物質の世界に属する

そして、精神の世界に属するものは

どれも行為によっては達成できない

それは無為によって、リラックスによって

全面的な明け渡しによってしか達せられないのだ

by osho

↑まったくそのとおりであって、私たちは自分がこの世に属していると思い込んでいるからこそ、達成することにこだわりを持っているのです。

物質の世界で自分の努力によって達成することに価値があると信じ込んでいるのですが、これがエゴの生き方の根本なのです。

このブログで何度も書いていることですが、私たちの本質はこの世界全体の外側、あるいは土台です。

だからなにかを達成しても達成しなくても、どちらであろうとその全てが自分の本質の中で起きていることだと理解することです。

こうした気づきというのは、いわゆる達成することとは全く異なる質のことであり、それこそが行為ではない無為によって達することだと。

エゴにとって全面的な明け渡しなど不可能なことであり、それはエゴの外側への気づきによるということですね。

真の成長とは?

内面的な成長というのは実は成長などではない。

この言葉には語弊がある。

内面的な成長とは、一つの顕現のこと。

ずっと隠されていた何かが現わされる

ずっとそこに在ったもの、それにあなたが気づく

あなたはそれを取り逃がしていたわけではない

ただたんに忘れていただけ・・

by osho

一般的に内面的な成長というのは、言葉を変えればエゴの成長と言うことができます。エゴは表面的にはスクスクと成長していきます。

けれども、幼い頃にあまりにも不安や恐怖が強すぎて、自分を強いる生き方をさせられていると、エゴの成長が一部止まってしまうのです。

それをインナーチャイルドと言ったりしますが、そのために、大人になった時に子供っぽさが残ってしまうといったことが起こるのです。

それと並行して、エゴの別の部分は成長して社会性を身につけていくのです。でもそんなことは成長ではないと osho は言っているのですね。

真の成長とは成長ではなく、たんに気づくこと。社会で何を成し遂げたかということでも、どれだけ人のために役立ったかでもありません。

ただ自分の本質に気づくこと。このことが深く理解できると、人生は非常に楽になるはずです。

忘れていたことを思い出す、そのために何万年もかかるななんて本当に謎でしかないですね。

どんな信念もいらない

身体は大地に属し、あなたは空に属している。身体は物質に属し、あなたは存在に属している。身体は粗雑なものだが、あなたはそうではない。身体には限界がある。身体は生まれて、死ぬが、あなたは生まれもせず、死にもしない。これが信念ではなく、あなた自身の体験となる。

by osho

↑身体は粗雑なものだが…というのは、身体は現象界に属するということであり、なにかレベルの低いものというようなニュアンスではないのです。

つまり、ここで言いたいことは「あなた」というのは実はこの現象界に属するものではないということ。

私たちは誰しも自分の本質に気づいていないために、この世界の中で暮らしていると思い込んでいるのです。

けれども、本質はこの現象界に在るのではなく、あらゆる現象がやってきては去っていく「空」あるいは「存在」に属しているということです。

そしてこうしたことは、信念として持ってはいけないということ。どんなにすばらしい信念であろうとも、それは思考の一部でありそれこそが現象界に属するからです。

信念ではなく、あなたが自然に体験を通して「知る」ところのものと一つになること。

その体験とは、覚醒することか、あるいは死を通して気づくことなのですね。

正直は無防備であること

とあるクルマのディーラーに行って、そこの営業の方とお話しをしていて気づいたことがあるのです。

担当して下さったのが、入社してまだ数年くらいの若手の女性営業マンでした。いろいろ細かな質問をすると、分からない事があったり間違った答えを言ってみたり。

それでも比較的正直な感じが伝わってきたのでよかったのですが、途中で割り込んできた所長?のような人物がなんとなく感じが悪い。

いかにも営業として熟練していますよ的な感じと言えばいいのでしょうか?かなり自信たっぷりに持論を展開するのです。

その内容にも疑問を感じるし、なによりも人を丸め込んでうまいこと納得させて、その気にさせて買わせようとするエネルギーのようなものを感じたのです。

実際にはそこまで考えているわけではないかもしれませんが、長年に渡って慣れてしまった無意識レベルの一種のクセのようなものなのか。

担当営業のあの女性もキャリアを積むにつれて、そんないやなエネルギーをまとうことになるのかと思うと、ちょっと悲しくなりますね。

その彼女がよく間違ったことを言うので、正直でいることが1番大切だし好感が持てるので、それを忘れないでと伝えました。

正直でいるというのは、それだけ防衛が小さいということなので、勇気がいることでもあるのですが、長い目でみればそれに越したことはないですね。

カラクリを理解する

親子の関係性の中でよくあることのようですが、例えば母親が子供に対して父親の悪口を言うのです。

単なる悪口の場合もあるし、ダラダラと愚痴になってしまうこともあるでしょう。いずれにしても今目の前にいない父親を否定するのです。

子供は、母親の言葉を信じて父親のことを嫌いに思うかもしれません。もしも本当は父親のことが好きだとしても、その気持ちを隠してしまうのです。

そうやって、本当の自分の気持ちをそのままに認めることをしない生き方を学んでしまうかもしれません。

母親と対立しないために、あるがままの気持ちを隠してしまうわけです。そしてもう1つ大切なものを失ってしまう可能性もあります。

それは人への信頼の気持ちです。父親がいないところで悪口を言う母親を静観すれば、もしかしたら自分がいないところで自分を否定しているかもしれないからです。

他人を信頼できなければ、それだけ自己防衛が強く働くようになってしまうのですから、生きにくい人生になってしまうのです。

そして子供が成長して社会に出て行った先で、母親と同じように目の前にいない人の悪口を言う人が周りにやってくるのです。これがエネルギーの法則。

こういったカラクリを理解して、癒しを進めていくことが大切ですね。

社会性と反社会性、そして非社会性

私たち人間は社会的な生き物です。大人になるにつれて、社会の中でどのように生きていくかを試されるのです。

この社会に嫌気がさして、ヒマラヤの洞窟の中で生涯を過ごす人もいるかもしれませんが、例外中の例外ですね。

私たちのマインドというのは、そもそも人間関係の中で作られていくものなので、社会なくして人生など考えられないわけです。

けれどもここにこそ、苦しみの根っこがあるのです。マインドがどのように成長するのかを順を追って説明します。

赤ちゃんの頃はまだマインドと呼べるものはなく、ただ生き延びるための本能があるだけです。つまり社会性などないので、それを非社会性と呼びます。

私は、以前からこの非社会性のことをオリジナルと呼んだりしています。生まれる前から備わっているものだということで。

生まれてしばらくすると、親との関係性の中でマインドが作られて行き、そこで少しずつですが社会性が育まれていくのです。

このとき、非社会性の部分と新しくできた社会性の部分がバランスよく使われるならいいのですが、不安や恐怖、あるいは孤独を強く感じるような環境であると、社会性ばかりを使って生きるようになるのです。

こうなると、元々の非社会性はあたかもなかったかのように、マインドの下敷きとなってかくされてしまうのです。

社会性はその後もグングン勢力を増して、安心して生きるための術を身につけていくのです。大人になった私たちをリードしているのはこの部分です。

ところが、今度はその負担が自己犠牲のエネルギーとなって蓄積します。その結果としてマインドの中に反社会性の部分が生み出されるのです。

この部分の力によって、私が問題行動と呼ぶ面倒なことが人生に起きるのです。社会性の成長と共に、この反社会性の部分も本人の意思とは無関係に成長します。

人生を清々しいものにするためには、社会性が自らの生き方を見直して、これまで隠してきた非社会性の部分を表舞台で活躍させてあげるのです。

この両者が互いに手を組むことができるなら、おのずと反社会性は小さくなっていくのです。間違っても、反社会性をどうにかしようと思わないことですね。

思考が動くスペースを与えない

ゴールがどこか別のところにあるとなると、精神がさっそく旅をはじめる。頭が考えることをはじめる。プロセスがはじまる。

未来があるとなると、思考は流れることができる。進路をもつことができる。動く空間をもつことができる。

目的とともに未来がやって来る。

未来とともに時間がやって来る。

by osho

↑まったく耳が痛い限りですね。ゴールや目的というのは決してここにはありません。必ず何処か別のところ、つまり未来にあるのです。

未来とは可能性のことなので、思考は絶望せずに済むのです。望みが断たれない限り、思考は動き続けることができるのです。

そして可能性がなくなったとき、一瞬にしてまた別のゴールがやってくるのです。それは早ければ早いほどダメージが少ないのです。

何か問題が起きたときに、心理的な対処をせずにいてみると、対処した結果としてのゴールがなくなってしまうため、思考が動けなくなるのです。

思考がなくなれば、思考の活動によって感じられていた時間も消えてしまいます。これは体験するしかありません。

それが瞑想なのです。だから、何か目的を持って瞑想するということが、どれほど馬鹿げたことか分かりますね。

まったく目的を持たずに生きることはなかなか難しいので、非常に近い未来にのみゴールを作るように工夫するといいかもしれません。

「ここ」と「今」を深く感じる

人は何かに夢中になっていたりせず、あるいは何かをグルグル考えていたりせずに、静かにしていられるなら、今ここに自分がいると自覚できるはずですね。

目を開き、そして周りの音を聞き、身体全体でこの場所の空気感などを感じることができるはずです。

けれども、一たび目を閉じて心静かにしてみれば、ここに自分がいるの「ここ」がどこなのかが分からなくなってしまうのです。

そしてそのことは、自分がどの場所にいようと同じことが起きるのです。目を開けた状態でどこにいようと、目を閉じたなら全く同じ「ここ」が在るのです。

つまりこの場合の「ここ」とは、何処でもない「ここ」なのです。「ここ」とは場所を指す言葉ではないと気づくはずです。

もう一つ、一時間前に「今」と感じていた今と、今この瞬間に「今」と感じる今にも違いを見出すことができないのです。

つまり、「今」とは時間のことではないということ。

「ここ」は場所のことではなく、「今」は時間のことではないという、この2つのことが直感的に理解できるなら、真実が身近な状態だということです。

「ここ」と「今」を深く感じる練習をすると、それ自体が瞑想になるのです。ぜひ試してみて下さい。