自動思考の罠にハマるな

自分の部屋で独り、心静かにしてソファに腰かけていると、全てがOKだという感覚になれる時があります。

ところがそれが長く続くかと思えばそうでもなく、そういえばあれをやってなかったなとか、明日のスケジュールはどうだったっけ?などが浮かんできます。

それって、今本当に必要なこと?今すぐにでもあれこれ考えて結論を出す必要があることなの?と問い正せば、全然そんなことはないと分かります。

じゃあなぜそれが頭の中に浮かんできたのかと言えば、これこそが自動思考なのです。左脳が勝手に放り投げてくる思考です。

なんとなく如何にもしっかり確認しておいた方がいいよとでも言わんばかりに投入してくるのですが、そんなの本当はどうでもいいことばかりなのです。

自分を静寂の中にいさせることを望まない左脳の策略なのです。瞑想が苦手とか、瞑想がしづらいというのと全く同じこと。

左脳は自分に何であれ考えてもらわないとならないのです。それが死活問題なのです。左脳自体を使ってもらうことで、生き延びられるからです。

実際には、本当はそんなことはなく、左脳が消えてしまうことなどないのです。ただ正常な状態に戻るだけなのですが、それを嫌うのです。

現代の私たちのほとんどは、左脳の支配下に置かれてしまっていると言っても過言ではありません。まずはしっかりとそのことに気づくこと。

そしてそれがどれほど人生をつまらないものにしてしまっているか、左脳と右脳のアンバランスを改善して、人生のフレーバーを変えるためにはどうしたらいいのか。

方法は色々あると思いますが、各々が自分に合ったやり方を模索して、それを実践していくことが絶対的に必要な時代にきていると思いますね。

セラピストはお得

セラピストという仕事は、クライアントさんにとって概ね都合の悪いことを言ってくる嫌な人になってしまいます。

それは癒しの観点からすると当たり前のことなのですが、クライアントさんは自覚のないままに、これまでの自分を守ろうとするのです。

簡単に言ってしまえば、癒しの過程を妨害するのです。これまでの生き方をそのまま踏襲したいというのが、クライアントさんの深い部分の本音だからです。

そのことをクライアントさんと共有することができると、だいぶやりやすくなりますね。自分を癒したいと切望しているのは、自分の数十パーセントしかいないと理解できるからです。

クライアントさんの中で抵抗がやってくると、セラピストの言葉というのはとにかく入りづらくなってしまうのです。

何度も繰り返して言葉を聞こうとしても、まるで内側に入り込まない呪文のように聞こえてしまうのですから、仕方ないですね。

私自身はこうした現象をとても興味深く思っていて、言葉は悪いですけれどそれを楽しんで見ていることができます。

しばらくして、それを乗り越えてしまった後のクライアントさんに、あの頃はこのようなことを言ってましたよと伝えても、ご本人はあまり覚えていないのです。

これはクライアントさんあるあるなのですが、通過してしまったことはあまり記憶に残っていないことが多いのです。

そればかりか、そのことに興味すら持っていないのですから面白いですね。そうした様をずっと見せてもらっているので、セラピストというのは本当にいい仕事だと思いますね。

時間は左脳の作り物

時間という概念は、私たちの左脳の中にのみ存在するのであって、その一方で右脳の中には時間は存在しないのです。

事象が変化するとき、その変化は時間の中で起きるとも言えますね。逆に言えば、変化するものが何もなければ、そこに時間は存在し得ないのです。

もう少し違った表現をするなら、私たち自我にとっては確かに時間は存在します。なぜなら、自分を含めた物語という現象が起きるのに時間が必要だからです。

けれども、右脳の世界のような全体として見る視点からすると、その見る側には個別のどんなものも存在しないので、時間が介入してくる余地がないのです。

oshoはいつも講話の時に、高級そうな腕時計をしていました。写真か動画で見た覚えがありますが、たまに時計を見て経過時間を確認していたようです。

右脳が優位になってしまうと、時間の経過する感覚がなくなってしまうので、時々時計を見なければ今の時刻が皆目分からなくなってしまっていたのでしょうね。

時間がないということを無理にイメージしようとして、時間が止まって事象の変化がなくなってしまった様子を思い描く人もいるようですが、それは違います。

事象は常に起き続けているのですが、それを時間的な推移として捉えるのか、あるいは今この瞬間が永遠に続いていると見るのかの違いなのです。

この感覚を左脳で捉えようとしても無理があると思います。左脳の働きから時間を奪ってしまったら、左脳の重要な機能であるイメージ能力も消えてしまいます。

空想には時間的広がりが必須だからです。一方の時間のないところにいる右脳にとっては、実在する世界だけが全てなのですね。

自我に個性などない

下記のoshoの言葉を味わってみてください。

大部分の人はその人自身ではない
彼らは生きているのではなく
他の人々から与えられた役割を演じているにすぎない
彼らの考えは誰か他の人の意見であり
彼らの顔はただの仮面にすぎない
彼らには顔がないのだ
彼らにはまったく真正な実存というものがない
その生はまねごと
その情感は引用だ

こんなことを言われて、ハイそうですかとはなかなかならないと思います。だって、自分の顔は自分だけのものだし、仮に似ている人がいても同じではないのです。

私たちは、自分の個性を大切にして生きていこうとどこかで決意したはずだし、自分独自の意見を持っていると感じることもあります。

それなのに、osho はそれを真っ向から否定しているわけです。自分が好きな曲、好きな歌、好きな俳優さんや映画は、誰かにそれを強いられたわけではないはずです。

自分が大切にしている信条だったり、人知れず凝っている趣味だってあるのです。自分の生が真似事だと言われても、納得できません。

けれども、自我として生きているのなら、やはりoshoの言うことは正しいと言わざるを得ないのです。

というのも、自我に本当の個性なんてものはないのです。自我の本性は他人との関係性によって作られたものなので、独自性などないに等しいのです。

自我の個性など、うわべだけのものだということを理解しておくことです。逆に言えば、覚醒して自我が消失した後に、本当の個性が発現するのでしょうね。

思考と思考の隙間

買い物に行こうとして出かけた時に、交差点の角で奥様たちが数人で何やら熱心に話し込んでいるのを見かけて、そこに立ってると危ないんだけどなあと。

買い物を済ませて30分くらいして戻ってくると、先ほどの奥様たちがまだ話し込んでいたのです。ずっと話し続けていたなんて、凄いなあと。

よくもそんなに話し続けていて、ネタが尽きないものだなと感心してしまうのです。話しと話しの間に隙間はあるのだろうかと心配してしまうほどです。

言葉は思考なので、言葉が途切れないのであれば、ずっと思考が活動し続けていることになるのですが、それはとても危険です。

たとえ言葉を発しないとしても、思考が動き続けているのであれば頭の中に言葉が生み出され続けているわけです。

思考というのは、我を忘れさせる力を持っているのです。そのせいで全くもって今この瞬間にいることができなくなってしまうのです。

思考がやってきてしまうのは仕方がないとしても、思考と思考の隙間を見つけてそこに意識を向けるようにすることですね。

左脳がでっち上げた時空から逃れて、今ここに戻ってくるように心がける必要があるということです。こんな単純なことですが、忘れずにいるって結構難しいですよね。

ダイレクト感を取り戻す

今日は何となく書くことが浮かんで来ないのです。書こうとする前からそのことをうっすらと感じていました。

今日は手こずるなと。何でかなと思ったのですが、それはこれまでこのブログやセッションでお伝えしてきたことが、あまりにも単純に表現できることに気づいたからです。

それは、「左脳→右脳」これですね。何とまあ、これだけだったんです。大好きなoshoの言葉を思い出しても、やっぱりこれなんです。

左脳から右脳へシフトすることによって、どんな言葉も必要とせずに勝手に理想的な生き方へと変化してしまうのです。生き方だけでなく、感覚もきっと変化するはずなのです。

小学校の低学年の頃だったと思うのですが、生きている感覚に嫌な変化が起きたのです。それは、ダイレクト感がなくなってしまったのです。

もちろん、こうした表現は後々大人になってから使えるようになったのですが、感覚としては自分の周りに膜ができたような感じ。

実在する外側の世界と直接繋がらなくなってしまった感じ。これは視覚だけでなく聴覚、あるいは触覚なども含まれます。

こうした感覚の変化も、当時右脳が優位で生きていたものが、次第に左脳に支配されるようになったことが原因だったのではないかと見ています。

なので右脳が優位に返り咲いた暁には、うまくいけば久しく失っていたダイレクト感が戻ってくるのではないかと。

どこかにうっすらと記憶している、あの晴れやかで清々しいダイレクト感が戻ってくるのであれば、どんな犠牲を払ってでも右脳への回帰を願うばかりです。

左脳の奴隷になるな

セッションの中でクライアントさんと会話をしていて、思わずハッとさせられることがたびたびあるのです。

その時に自分の常識の範疇で物事を捉えていたなということを思い知らされるのです。そうならないようにと注意をしているにも関わらずです。

例えば、色々なことを考えて考えて、一生懸命ああでもない、こうでもないと考えていると、充実した感じがすると言われたときなど。

それは勿論、本当に考えなければならないようなときであればいいのですが、寝るつもりで床について寝れない時などはもってのほかなのです。

考えるつもりがないのに、勝手にやってきた思考に翻弄されてしまっているという事実に気づこうとしないわけです。

私が思うに、今この瞬間に本気で考えなければならない状況って、実際にはほとんどないに等しいのではないかと。

今何かを考えていたと気づいた時に、この思考は大切だと思った試しがないということです。ほとんどどうでもいいことばかり。

あるいは、今それを考えなくてもいいんじゃないの?というのが大半なのです。非常に単純化して表現すると、次のようになります。

何かを考えているときは、時間を浪費していると理解すること。その思考を即刻ストップした方がいいということ。

このことをしっかりと理解できないと、知らぬ間に左脳さんの奴隷と化してしまうことになることを忘れないことですね。

自我が瞑想を邪魔するわけ

昨日のブログの内容の補足です。昨日の記事は、外側に意識を向ければ向けるほど自我が際立ってくるし、内側に向ければ自我は小さくなる、という内容でした。

なぜそうなるのか、別の角度から見ることでもっと分かりやすい説明ができるはずです。それには、自我の素性を深く知ることです。

自我の生い立ちに目を向ければ、自ずと理解が容易になるのですが、幼い子供は周囲にいる親などの存在を鏡のように使うのです。つまり他者ありきで自我が生まれるのです。

自我の正体は、その子供の左脳の中で処理される一種のプロセスに過ぎないのですが、イメージとしては子供と親との関係性の中にこそ自我が存在するのです。

つまり、子供の自我は親と自分との関係の間にあるのです。人間と人間の間を取り持つ機能として自我は成長していくのです。

だからこそ、外側にいる他人の方へと注目を向ければそれだけ、自我はより活動できるわけです。自我の活躍の場が、人間と人間の間にあるということを理解すればいいのです。

そのことを一度しっかりと理解してしまえば、瞑想がどれほど自我にとって不都合なものかが分かりますね。

瞑想なんてとても無理とか、瞑想しようとしてもすぐに気が散ってしまって、とても続かないなどという人がたくさんいるのも分かります。

自我が邪魔をして、深い瞑想に入れないように仕向けるからです。そのことを十分に承知しつつ、少しでも瞑想に取り組んでいければ、必ず自我を鎮めて深い静寂の心地よさを体感できるようになるはずです。

理不尽さは自我を活性化させる

人生には理不尽なことがどうしても起こりますね。どう考えてもおかしい、どうやっても納得することができない等々。そんなことのテンコ盛り。

それが他人の言動である場合もあるし、この世界で起きつつある出来事の場合もあります。いずれにしても、私たちはそれを何とかして正したいのです。

どこかで、そんなことには関わらないのが一番だという声がしても、不思議なことにその理不尽さをなんとかしたいということにほとんど執着してしまうのです。

そして理不尽なことにぶつかると、自我が勢いを増してくるのです。自分のエネルギーが大きくなって、自分の存在が目立ってくるのです。

理不尽なことを成敗したいという闘いへの欲望が、自我にとってはエサの役目をしてくれるからかもしれません。

もっとシンプルに言えば、自分の外側で起きていることに注意を向ければ、それだけ自我は大きくなるということです。

その反対に、意識を内向きにすればするほど、自我の活躍するスペースがなくなり、私は徐々に消えていくのです。

こうしたことを、端的に表現してくれたのが以下のoshoの言葉ですね。

自分自身の内に深く入ってゆけばゆくほど
いっそう自分は見あたらなくなってゆく
ところが、それこそがまさにあなたの実存の核心なのだ

そして、その逆もまたしかり
外へ出てゆけばゆくほど
それだけ自分が目につくようになる
ところが、それこそまさにあなたの非実存の核心に他ならない

究極の真反対

私たちがまるで個体のように見えるとしても、実際には全体性と繋がっているということを、このブログでも何度もお伝えしてきました。

その繋がりが途絶えたことは一度もないのですが、そのことに気づくことが難しい状態にまで人類は来てしまったのです。

どの時代まで遡ればいいのかは定かではありませんが、右脳がメインで活動していた頃は全体との一体感を持って生きていたはずです。

それが、左脳の台頭によってじわじわと個人としての側面が強くなり、とうとう現代の人類は全体とは真反対の究極の個体と化してしまったのです。

右脳側からしたら、何か不思議なことが起きているという感覚があるのかもしれませんが、単に大間違いのイメージをこしらえちゃったなと。

ただし、これも世の常なのですが、究極の真反対までやってきてしまうと、あとはどこかのタイミングで自動的に戻り出すのです。

それが今人類に起きつつあることではないかと感じています。なぜなら、深い特別な修行を積んだわけではないような、ごく普通の私のような人間がそれに気づいているからです。

あちこちで一般人の間で連鎖反応が起きるように、きっと気づいていく人々がたくさん現れるんだろうなと思うのです。

一度究極の個体を経験した人類が次に向かうのは、全体性を知りつつ争いのない理想的な文明を発展させていく時代なのかもしれないですね。