思考の作戦に乗らない

私たちは、通常何か困ったことだとか、問題が起きるとそれを解決しようと努める習性があります。

あるいは、何か疑問があればそれに対する回答を求める習性もあります。どちらもきっと自我の特徴なのでしょう。

その習性に疑問を抱いたことはありませんか?なぜ問題は解決しなければと感じ、なぜ疑問には回答しようと思ってしまうのか?

これが思考のあり方なのかなと思うのです。思考というのは、いつも解決志向であり、回答を導き出したくてウズウズしているのです。

けれども、一歩引いてこのことをじっくり見つめていると、それだけが私たちの在り方ではないと気づくのです。

そもそも問題があるという認識自体が思考によるものなのです。思考が問題を生み出しておいて、それを解決しようという自作自演をしているのです。

思考が疑問を作り出しておいて、それに対する回答を導き出すのもやはり思考のやることでしかありません。

このようにして、思考は自己完結するように自前で生き延びる作戦を生み出しているということです。

私たちは、そもそも思考ではないのでその思考の作戦に乗る必要はないわけです。そこに気づくだけでも、生きる感覚に変化を感じることができますね。

精神的自傷行為

自分の身体をわざと傷つけてしまう、いわゆる自傷行為というものがあります。傷つける身体の部位はその人によって異なるものの、それをさせる原動力は同じなのです。

自傷ですから自分で自分を痛めつける、つまり自分を攻撃しているわけです。精神的には自分を責める、自責の念と言う言い方をしますが、身体であれ心であれ同じこと。

自分のことを嫌ってみたり、否定してみたり、ダメ出ししてみたりと色々ですが、要するに自分に嫌悪感を抱いているということです。

その根っこには、自分の存在否定があるのです。幼いときに、親から軽んじられているように扱われたり、気持ちを受け止めてもらえなければ、自分はいらない奴だと解釈してしまうのです。

そんな惨めな自分を隠そうとして怒りが出てくるのですが、それを親に向けることが出来ない子供は、その怒りを自分に向けてしまうことがあるのです。

それこそが自分を攻撃し、自分を責める原動力なのです。こんな理不尽なことはありませんが、これが自己否定をする人の内面で起きていることなのです。

さらに言えば、そういった物理的、精神的な自傷行為を続ける裏には、親に怒りをぶつけられないでいる子供の復讐心も加担するのです。

こうした心のカラクリを深く理解し、幼い自分がその存在を肯定できるように受け止めてあげることで、随分と生きやすくなるはずですね。

比べるマインド

もしもあなたが末期癌の宣告をされたなら、なんで自分ばかりが…と感じて、その理不尽さを呪うような気持ちになるかもしれません。

親の身になったら、我が子が事故に遭ったり難病になったりしたら、なんでうちの子だけが…と思って、健康な他人の子を恨む気持ちになってもおかしくありません。

私たちのマインドというのは、いつでも自分と他人を比較して一喜一憂しているのです。それが何の足しにもならないと知ってはいても、やめられないのです。

この比較するマインドというのは、元々は自己防衛から来ています。自分を安心させたくて、不安を解消したくて比較してしまうのです。

けれども、その比較癖が高じてしまうと、辛くなるのを知っていながらも他人と比べてしまうということが起きてきます。

究極的には、自分よりもあの人の方が幸せに違いない、あるいはそう見えるときに、辛くなるのですね。

嫉妬心がやってきたり、自己嫌悪になったりして恨むようにもなったりするのです。とても穏やかないい心持ちではいられないのです。

ではどうしたらその比較をやめられるのでしょうか?よ〜く見つめてみると、比較すること自体が問題なのではないと気づきます。

要するに自分よりもあの人の方が幸せだという思いが、嫌な気持ちにさせるわけですから、その思い込みが正しいものかどうかを判断できればいいのです。

私の場合、幸せというのは不幸との比較でしかないと分かっているので、幸不幸には興味を持たないでいられるのです。

その上、本当に満たされたなら、どんな人でもマインドは死刑を宣告されて自我が落ちて覚醒してしまうと分かっています。

だから、地球上の誰がどれほど幸せそうに見えたとしても、その人が個人として生きている限りは、満たされてはいないと分かるのです。

だから嫉妬せずに済むのです。私が本当に羨望するのは覚醒した人だけなのですが、覚醒しているその人はもう個人ではないので、やはり嫉妬することはできないのです。

マインド(自我)の存続のカラクリを理解すれば、自分と誰かを比較したとしても、それほど辛い気持ちにはならずに済むことを知ってくださいね。

耳を傾ける

人の話に耳を傾けるという言い方がありますが、これは傾聴する、つまり熱心にあるいはじっくりと相手の話を聴くということです。

耳を傾ける相手は、何も他人だけではなく自分自身の声を聴くということも含まれます。それが比較的得意な人もいれば、苦手という人もいるはずです。

自分の声という場合は、実際の肉声というよりも心の声のことです。それは言葉というよりも思いと言ったほうが近いですね。

ではなぜ、自分の心の声を聞くのが苦手な人がいるのでしょうか?それは端的に言って、都合の悪い声を聞きたくないからです。

たとえばとても生真面目な人がいて、その人が人の悪口を言ってはいけないと強く思っていたとします。

そんなルールは、心の奥底までは届かないので、深いところでは悪口を言っているかもしれないのです。

その声が聞こえてきてしまうと、自己否定を感じなければならなくなるために、その声をなかったものとしてやり過ごすわけです。

簡単に言えば、そういった防衛だと理解すればいいのです。それが防衛規制としての抑圧です。

都合の悪い声や思いを抑圧すると、その時々は都合が良いのですが、隠された本音が蓄積していずれは大きなエネルギーとなって噴出することになるのです。

そう言ったマインドの仕組みを深く理解して、マインドを丸ごと受け止めることができれば、防衛は緩んできて心の声も聞いてあげられるようになるはずです。

隠してきた自分の本音が色々分かってくると、ショックなこともあるかもしれませんが、それもマインドだと笑い飛ばせるようになるのです。

自由を手に入れる

もしもあなたが自由でありたいと願うのなら、内側にいる自我をよく見つめる必要があるのです。

というのも、元々あなたは自由そのものの性質を持って生まれてきているのです。自我が生まれるまではその自由を謳歌していました。

ところが、自我があなたを乗っ取るようになってからというもの、次第にあれほど自由であったものが、不自由を感じるようになってしまうのです。

それは誰のせいでもなく、自らの内側にある自我によって、その自由を奪われてしまうからなのです。

自我こそが、あなたの自由を奪ってきた張本人だと言っていいのです。その自我の正体をしっかり見ない限りは、自分の不自由さを外側のせいにするのがオチです。

実際、自我は自分を不自由に閉じ込めておいて、自分の不自由さは自分以外の誰かのせいだと思うのです。

自我をしっかり見てあげると、自我がどのようにして自分を不自由にさせてきたのかが理解できます。

たとえば、自我は自己防衛を優先することで、あなたの考え方や行動を規制してしまうのです。

枠を作ってその中でしか生きてはいけないと強く言ってくるのです。それが安全安心を生むと信じているからです。

けれども、その結果はあなたが一番大好きな自由が奪われてしまい、ほんの一瞬の安心のために、不自由で心地よくない人生を強いられることになるのです。

こうした自我のやり口を詳細に理解し、それを傍に置くことができれば、再び無邪気な幼かった自分のような自由を手に入れることができるのですね。

正解はない

学校の勉強というのは、テストで正しい答えを見つけた者が成績優秀者となるのです。それは何にでも正解があると言う前提に立っているのです。

神を発見しようとして修行や努力をする人が、神はいると言う前提に立っているのと同じです。もしもその前提がなければ、不毛な努力をすることになるからです。

学校で成績優秀者が社会に出て活躍出来るとは限りませんが、それは世の中の実態としては正解がないか、あってもコロコロ変わる場合があるからです。

正解を追い求めて、その正しさにしがみつこうとすると、変化を嫌うようになるのです。正解は固定しているものだと考えるからですね。

そうなると、変化の激しい世の中についていけなくなってしまうのです。正解というのは固定した正しさをイメージしますが、本来はあやふやなものです。

もしもあなたが正しさを握りしめて、それを頼りに生きて来たのでしたら、勇気を持ってそれをゴミ箱に捨ててしまうことです。

正しさにしがみつくのは、防衛でしかない事を理解して、生きる基準を正しいかどうかではなく、心地いいかどうかで判断するようにしていくことです。

それができたら、よりシンプルで自然な人生へと変わって行くことになるはずです。

「安心」から「楽しむ」の人生へ

私たちの本質である全体性に戻った時には、どんな不安もなくなってしまうのですが、「私」という個人になった途端に不安がやってきます。

これは当たり前のことなので、よく理解しておいて欲しいのですが、個(人)と言うのは、世界から切り離された存在ということです。

自分の痛みや気持ちを本当にわかってくれる存在というのは、自分以外にはありません。なぜなら、他と分離してしまっているからです。

その上、この世界は次の瞬間何が起きてくるのかわからないのです。一寸先は闇というのが的を射た表現であることは間違いありません。

だから「私」には不安がついて回るということです。そしてこの不安の大きさには、個体による違いがありません。

ところが、育ててもらう環境と本人の気質によって、その不安を安心で隠して分からなくする度合いが違うのです。

もしも十分に愛されて、受け止められて、穏やかな気持ちで育っていく環境であれば、そこから安心が育っていくので、オリジナルの不安は隠されるのです。

その逆に、親の精神状態が悪くて、安心させてもらうことができずに育つなら、元々の不安はそのままに感じ続けることになるのです。

この違いは絶大で、成長過程で不安を隠してもらえた人は、自分を楽しませる人生を生きることができる一方で、不安を隠してもらえなかった人は、安心を求める人生を生きるようになるのです。

残念ながら、後者が圧倒的に多いのは周知の事実ですね。個としての不安というのは、どこまで行っても潜在しているのですが、実際に生きている感覚は異なるのですね。

もしもあなたが不安が大きいなという自覚があるなら、後者の分類だと思って間違いありません。

その場合には、まずオリジナルの不安は誰でも同じだけあるということを思い出してください。

そして、その不安を誤魔化さずにいて、逆に寄り添うように練習するのです。不安があって当然だということを深く理解するのです。

それによって安心しようとする防衛中心の生き方から離れて、自分を楽しむ人生へと変わっていくことができるのですね。

幼い子供を見る目

小さなワンちゃんや子ネコちゃんが可愛いなと感じる人は多いと思いますが、それにはいくつか明確な理由があるのです。

その一つは、彼らには期待がないからなのです。エサが欲しいといった本能的なものは別として、心理的な期待がありません。

それを感じ取ることができるので、愛しいと思うわけです。彼らには自我がないので、心理的防衛がなくて、その防衛の一つである期待もないわけです。

その状態を愛と呼ぶのです。私たちにとって、その愛のエネルギーが心地良くて、自分たちも防衛が緩んで愛の状態にさせて貰えるのです。

それが可愛いとか愛しいという感覚となって、感じることができるというわけですね。それならまだ自我が発達していない幼い子供のことも、同じように愛しいと感じられるはずです。

実際に列を作って街を散歩させられている園児などを見かけることがあると、ああ天使みたいに可愛らしいなと思ったりする経験を何度もしています。

けれども、人によっては動物は可愛いと感じるのに、人間の子供はあまり可愛いとは思えないという場合もあるのです。

これにも明確な理由があって、自分自身の幼い頃の辛い記憶を引きずっていると、それを投影してしまうために、自分の愛が発動しなくなるのです。

そればかりか、幼い子供を見て理由の分からない怒りや拒絶感を感じてしまうかも知れません。それも全てが癒されていない自らの内面の状態が原因なのです。

心当たりがあるようでしたら、しっかりと癒しと向き合ってみる事をお勧めします。

内側が外側に表出する

私たちは、都合の悪い自分の本音や自己への否定的な思いや言葉を、抑圧して知らないフリをして生活している事があるものです。

そういった類の思いは、他人を通して思い知らされることがあるのです。例えばあがり症の人が人前で話しをするとします。

そういう場面ではきっと強い緊張をしてしまい、思うように喋れなかったり、声が震えてしまうといった事が起きるのです。

その時、周りの人達からどう思われているかをイメージしてもらうと、大抵は上手く話せないんじゃないかとか、どうせ失敗するだろうと思われていると感じるのです。

それこそが実は自分自身の声なのです。自分が内心思っていることを、周りの人たちも思っているに違いないと感じるからこそ、強く緊張してしまうのです。

場合によっては、単なるイメージではなくて実際に他人の口から発せられる言葉として聞くことになることもあります。

そういったときにはショックを感じたり、グサリと傷を負ってしまうこともあるでしょうね。けれどもそれも自分の内側に隠し持っていた言葉なのです。

全ての場合100%該当するとは言えませんが、嫌な事を言われたときに一度は自分の内面を疑ってみる事です。

自分の内側にあるものは、いずれにしても何らかの形で外側に現れてくるという事ですね。是非参考にしてみて下さい。

「イエス」が自我を強化する

自我というのは「ノー」によって養われているのです。「ノー」と言う事によって、一つのまとまった個としての存在でいることができるのです。

赤ちゃんの成長過程で、とにかく何であれ「ノー」を連発するようになるプチ反抗期のような時期がありますが、あれは自我を生み出す準備をしているのです。

もしもあなたがどんな状況であろうとも、心の底から「イエス」と言えるなら、自我はそのうち持たなくなって、崩壊してしまうはずです。

「イエス」と言うのは、自分と外側の間に境界を作らないからです。分離がなくなって、全ては一つの状態に戻ることになるのです。

けれども勘違いしないでくださいね。子供の頃からずっと「ノー」が言えなくて、「イエス」ばかりで生きてきた人がいるなら、その人は最強の自我を作ったことになるのです。

なぜなら、その「イエス」は本当は「ノー」なのに、自分を守るために「イエス」と自分に言わせてきただけだから。

その防衛こそが「ノー」を言うよりも、もっと強烈に自我を育ててしまうのです。そこを間違わないことです。

もしも「ノー」を言わずに育ってきたなら、まずは「イエス」を自分に強いてきたことに気づき、勇気を持って「ノー」を表現できるようにすることです。

そして十分に「ノー」が言えて、それでも罪悪感を感じないでいられるようになったなら、ようやくその次のステージである本当の「イエス」へと道が開けてくるのです。