退屈は自我の悲痛な叫び

何もせずにいる時間のことを「暇」と言いますね。忙しい現代人にとっては、暇というのはそうそう体験できるものではありません。

一方で、「退屈」という言葉がありますが、こちらは心理的な意味合いを持っています。暇を持て余すとか、暇な時間を持て余す心の状態を指すのです。

ではなぜ私たちは、少しの時間であっても何もせずにいるだけで、退屈を感じてどうしていいか分からなくなるのでしょう?

それは自我の性質に基づいているのです。自我は常に対象物が必要なのです。それと何らかの関係を持ち、それに従事していたいのです。

それを心配して、それについてあれこれ考えたり、それが仕事であれ人であれ、対処すべき何かであればいいのです。

自我はそれがなければ、身が持たないのです。バラバラになって分解して消えていってしまうと感じるし、実際にそうなるはずです。

例えて言うと、まとまりのない学校のクラスの子供達が、クラス対抗で競う◯◯試合が始まると、クラス全員が一致団結してまとまるようなもの。

要するに、自我というのは思考の集団のようなものなので、従事する対象がないと、マインドが分解してしまうのです。

だから退屈が大の苦手なのです。苦手どころか、自我にとっては生死がかかっているのですから、ジタバタするのも当然なのです。

ちなみに、普段から瞑想する習慣を身につけていると、退屈が怖くなくなります。退屈がやって来そうになったら、瞑想すればいいのですから。

ただし退屈を何とかしようとして、いきなり瞑想に逃げようとしても上手くいかないかもしれません。日頃からの練習が大切ですね。