意識を内側に向ける

セッションなどでよく「意識を内側に向ける」という言葉を使うのですが、いつもあまり親切な表現ではないなと思っていました。

分かりやすくないというか、もう少し丁寧に説明できたらいいのにと思うのです。その言葉足らずの部分を今日は補足してみようと思います。

私たちは大抵が無意識であれば、外側の方にばかり意識を向けています。肉眼は外側を見るためにできているし、耳も外の音を聞くようにできているからです。

だから内側に意識を向けるためには、まず初めに無意識的であってはならないということです。例えば、すごくシンプルに表現するなら、外側の◯◯を見ている自分を見るのです。

街を歩いていて、道端に咲いているタンポポを見つけたとして、そのまま通り過ぎるのではなく、タンポポを見つけた自分を見てあげるということです。

その時の見るというのが、意識を向けるということになります。普通なら無造作に通り過ぎてしまうところを、意識してその自分を見るということ。

もしくは、外側にある何にも目を向けずにいるように練習すると、意識の向けどころがなくなることで、自然に意識は内側へと向くようになるのです。

初めのうちは外側に意識を向けないように目を閉じるのが普通ですが、慣れてきたら目を開いたままでも意識を内向きにすることができるようになります。

内側に意識を向けることのメリットは計り知れませんが、すぐに効果を感じられるのは内面が静かになってくれるということです。

是非練習して自分のものにして、その成果を楽しめるようになるといいですね。

自我の立場とそれを見守る立場

知り合いの人で70歳を優に過ぎているのに、これから新規にビジネスを立ち上げようと計画している人がいます。

幾つになっても挑戦し続ける人生って素晴らしいですね、というのがそれを聞いた時の私の口から思わず出た言葉です。

その言葉には嘘偽りはありません。私たち人間には、常に目標のようなものが必要であって、それがなくなってしまうと精神的に病んでしまったり、急に老け込んだりする可能性だってあるからです。

ところが一方では、以下のようなoshoの言葉にもあるように、自我を見つめる側に立てば全く言うことが変わってしまうのです。

『もし自然に逆らったら、あなたの自我は強まるだろう。それがチャレンジというものだ。人々が挑戦を好むのはそのせいだ。

挑戦のない人生は退屈なものになってしまう。自我が空腹を感じるからだ。自我は食べ物を必要とする。挑戦がその食べ物を供給する。そこで人々は挑戦を求める。』

つまり人が挑戦することの是非は別として、その理由は明確に自我にとって必要なことだと言っているのです。

こんな感じでいつも自分の中に自我の立場からの物事の見方と、自我を見守る側からの見方とがあって、それらは共存しているのです。

社会がそうだからというのではなく、100%自分の内側の状態がそうなっているということです。この二重生活は今後もずっと続きそうです。 

インナーチャイルドを癒す

一度も聞いたことがないという人はいないのではないかと思うくらい、インナーチャイルドという言葉は一般的に認知されていると思います。

直訳すると「内なる子供」となるのですが、要するに大人になったあなたの内側に隠れて存在している幼い頃の自分ということです。

隠れてと表現した理由は、その存在が見えないからです。過ぎ去った過去に生きていた、あの頃の自分ですから見えるはずはありません。

勿論実在するものではなく、いわゆる比喩として使われる言葉だろうと誰もが思っているはずです。けれども、実は比喩ではありません。

あなたが存在するのと同じ程度に確実にインナーチャイルドは存在しています。姿形が可視化できないだけです。

肉体を持っているのは現在のあなただけだからです。肉体はなくても、マインドの中に過去はエネルギーとして存続しているのです。

リアルに存在するものだからこそ、現在のあなたがそれに飲み込まれてしまったりして問題が起きてくるわけです。

癒しとはあなたを癒すのではなく、あなたのインナーチャイルドを癒していくことなのです。そこを明確にする必要があります。

そのためには、インナーチャイルドは自分の一部ではあるものの、現在の自分ではないということに気づくことです。

多くの人にとって自分を大切にするということは意外に難しいことなので、大人の自分からは切り離すこと。

他人だと思って接することができると、それとの距離をとることができるようになって、自分の中でその存在がはっきり見えてくるのです。

そうすることでイメージの中で抱きしめることもできるし、声かけをしたり、受け止めることもできるようになっていくのです。

その結果、不安や寂しさの中で震えていたインナーチャイルドが、少しずつ穏やかに落ち着いてくるようになるのです。それが癒しですね。

愛もどきを見抜く

人を好きになるという体験はとても嬉しいし素晴らしいものですが、自我ゆえに辛く苦しい思いをすることも多々あるはずですね。

なぜなら自我の愛はあくまでも愛のようなものであって、ただ与える側である真の愛とは異なるからです。

そのために、愛する人を独占しておきたいという独占欲が発生するし、もしもそれが叶えられないとなると、今度は激しい嫉妬心が目を覚ますのです。

どちらも純粋な愛からはかけ離れたものですが、それゆえに相手の自由を尊重することもできなくなってしまうのです。

こうしたことがあるからこそ、ドラマチックなラブストーリーが起きるわけですね。側で見ている分には面白いですが、当事者は大変です。

愛のようなものと純粋な愛の見分け方はいたって簡単です。「◯◯してちょうだい」は全てがなんちゃって愛です。

一緒にいてちょうだい、私だけを見ていてちょうだい、愛してちょうだい、優しくしてちょうだい等々。こうして相手に求めている限りは愛ではないです。

大切なのはそれが悪いということではなく、それは愛ではないと気づいていること。そして、相手の自由を尊重できない惨めさから逃げないこと。

そこから一歩も逃げずにいられるなら、自然と自分も相手もともに自由でいられるようになっていくでしょうね。

極端をやめる

自我の成長と共に私たちは社会性を身につけていくのですが、それは社会の一員として問題なく生きていくために絶対必要なことですね。

ところで、その社会性があまりにも極端になって、自分らしさを失ってしまうようになると、必ずやそのしっぺ返しがやってきます。

つまりは極端な社会性は、その真逆である極端な反社会性へと持っていかれてしまうのです。そうなると、社会的な言動を嫌ったりできなくなったりするのです。

朝起きられない、何もやる気になれない、約束や時間を守れない、活力がなくなって寝てばかりになってしまう等々。

自覚としては1日も早く社会性のある自分に戻りたいのですが、どうにもこうにも自分が言うことを聞かなくなってしまうのです。

この状態を鬱と呼ぶわけです。しばらく休養してもう大丈夫となって、社会に復帰したとしても以前と同じ極端な社会性で生きるなら、当然のように再び反社会性へと引き戻されてしまいます。

そうやって反省ができない人は、何度も鬱を繰り返すことになるのです。そうしたループから抜け出すためには、極端な生き方や考え方を改めることです。

両極端のちょうど真ん中が理想ですが、それは非社会性あるいは無社会性と呼んでもいいかも知れません。

幼児のような無邪気さを取り戻すことができれば、真ん中付近で生きることができるようになるでしょうね。そうなったらもう二度と鬱になることはないはずです。

必ず残っている正気の部分

老人ホームに入居している母親のところに、娘が一緒に面会に行ってくれたのですが、普段は娘の名前を聞いてもなかなか思い出せなかったのに、娘の顔を見て母親の表情がパーっと明るくなったのです。

娘の名前を呼びながら、いっとき認知症が全快したかのような感じで正気に戻った感じがしたのでびっくりしました。

いつものように私が母親の脚のマッサージをしつつ、一方では同時に整体師の経験がある娘が肩のあたりをマッサージしたのです。

息子と孫に同時に身体をほぐしてもらって、贅沢だねえと声をかけると、本当に気持ちがいいといって喜んでくれたのです。

さすがに母親なりに娘には気を遣って、疲れるからもういいよと何度か言っていたのですが、私はその言葉をかけてもらったことがないなあと。

私が面会に行っても普段はそれほど喜ぶ表情を見せない母親なのに、やはり孫の存在は格別なんだろうなと。こればかりはかなわない。

それでも、母親の中にまだしっかりと残っている正気の部分を見ることができて、ありがたかったです。

誰の心の中にも、必ずその部分が残っているに違いないと思うのですが、それを引き出してあげることが難しいのでしょうね。

謝罪が苦手な人たち

人は生きていれば必ず、謝罪しなければならない事態に遭遇するものですね。謝るというのはとても自然な人間的な行為のはずです。

謝罪には申し訳ない、ごめんなさい、すみませんでした等々、色々な便利な言い回しがあるにも関わらず、どうもうまく謝ることができない人も沢山いるのです。

文言は同じでも、その言い回しや態度などに嫌々謝ってる感が露呈してしまう場合もあります。その中でも、どうせ私が悪いんでしょ!という厄介なものもあります。

これって本当に謝っているのかと、疑わしく感じてしまいます。実は、うまく謝罪ができない理由はたった一つ。

それは、自分は正しい、自分は間違っていないという、つまり正しさという鎧を着て生きている場合です。

正しいことに自分の価値を見出そうとする防衛が続けば、素直に謝罪することができなくなっても当然なのです。

謝るということは自分が悪かったと認めることなので、本人にとってはとてつもなく身を切られるような思いがするのでしょうね。

自分は悪くないという思いが強ければ、相手から何かを指摘されても素直には受け入れられなくなってしまうのは当たり前です。

そのため、人からのアドバイスや大切な言葉に耳を傾け難くなってしまい、学びの少ない人生になってしまうかも知れません。

正しさによる防衛は、このように百害あって一利なしだということを、深く理解しておく必要がありますね。

愛は「慣れる→飽きる」とはならない

自我の大事な能力の一つに「慣れる」というのがあります。私たちは慣れることで、手際が良くなったり、スムーズに物事を扱えるようになるのです。

クルマの運転しかり、楽器の演奏やあらゆるスポーツ、何であれ初めは不慣れなものですが、次第に熟達していけるのは、「慣れる」という能力のおかげです。

ただ、この慣れるということの功罪の罪の方にも目を向ける必要があるのです。慣れると緊張感が欠けるようになって、運転であれば事故を起こしやすくなるのです。

あるいは慣れることから派生して、飽きるという状態がやってくることも多々ありますね。もしもあなたが大切な誰かと一緒にいるとします。

それが毎日毎日繰り返されるとしたら、何だか毎日が単調過ぎて飽きてしまったなとなるかも知れません。

いわゆる出会った頃のあの新鮮な感覚がなくなってしまったと感じるのです。それは互いにハッピーなことではないですね。

なぜ慣れるから飽きるがやってくるのかを見てみたのですが、きっとそこには愛がないからではないかと思うのです。

慣れたとしてもそこに愛の要素があるなら飽きるということには繋がっていかないのだろうと思うのです。

自我は思考つまり過去に生きているのですが、愛は常に今この瞬間であるため、そこに飽きるということがないのです。

もしもあなたが慣れ親しんだものが人であれ仕事であれ、ずっと変わらずに飽きが来ないとしたら、その人その仕事との関係には愛があるということになるのでしょうね。

惨めさからの解放

多くの人の人生でやっていることの中心にあるものは、自分は惨めではないということを証明しようとして頑張ることです。

それはなぜかというと、自分は惨めだということを認めたくないからです。惨めさの反対側に行こうとしているのです。

ところがその原動力自体は、自分は惨めだという思い込みなので、惨めではないことを証明しようとすればするほど、惨めだということが真実のように感じるのです。

もちろん本人が明示的にそれを感じることはありませんが、マインドの奥深いところには惨めさを隠し持っているのです。

人が死にゆく時にも、惨めじゃないと思いたいが残っているので、その思考エネルギーは身体の死をすり抜けて次なる人生へと入っていくのです。

そして次こそは絶対に惨めじゃない自分になるという欲望が動き出すのです。欲望の根源はそういうものでできているのです。

結局そうした思考エネルギーだけが輪廻するのであって、あなたが輪廻するわけではないのです。あなたという個人がいるわけではないのですから。

もしもあなたがもう生まれ変わるのはゴメンだと思うなら、真っ先にやるべきことは自分の惨めさから決して逃げずにいること。

そして惨めさは事実ではなく単なる思考であることに気づくこと。それが理解できれば、思考から離れさえすれば惨めさは消えてしまうと分かるのです。

惨めじゃないことの証明などする必要がないと分かって、これまでの奮闘努力がバカバカしくなったらしめたもの。

あるがままの自分を受容するようになれば、欲望は薄れていくはず。その結果、輪廻からも解放されてあなたの意識は全体性へと吸収されていくはずですね。

黙るという防衛からは何も生まれない

私たちは幼い頃より家庭の中はもちろんのこと、集団生活のあらゆる場面で人とのコミュニケーションが大切であることを知っています。

社会の中で一人で生きていくことはできないし、共に協力しあってさまざまな環境を生き抜いていく必要もあるからですね。

ただコミュニケーションといっても、自己表現の得意な人もいれば、言いたいことをはっきり言えないタイプの人もいます。

口から生まれたように雄弁な人もいれば、口数が少なく物静かな人もいます。コミュニケーションが苦手という人であれ、最終的には相手に思いを伝えられればいいわけです。

けれども、大切な会話の時に黙り込んでしまったり、怒るともう口を閉ざして会話しなくなるという人もいます。

コミュニケーションの得意不得意と、会話をしなくなってしまうこととは全く異なるのです。そんな危機的な状況が親子の間にも沢山起きているのです。

子供の方からは、所詮親に何かを言ったとしても絶対に分かってくれないし、場合によっては否定されることにもなるので、口をつぐむことになるのです。

逆に親が子供に怒る場合の一つの手段として、子供に対して叱るどころか何時間も時には何日も口を開いてくれないというケースもあります。

黙ってしまうことからは何も生まれては来ないどころか、人間関係が破綻してしまうことだってあり得ます。

そうしたことが心の病みからやってくることを理解して、とにかく口を開くというところまではできるように癒していくことが大切ですね。