33の意味

究極的な愛の心、真実の愛の状態とはまさに無私、つまりエゴから開放された心であると言えますね。私たちは生まれながらに、自分を捨てて献身的に生きる人、自分個人の利益のためではなく、他人のために自分を捧げられる人が愛の人なんだろうなと知っています。

そういう愛のかたまりのような人たちをすごいなあと思いながらも、自分はそうなれるのかと思うと急に気持ちが萎えてしまうものです。

しかし、そういう人が身近にいてくれると、とても安心することができるし、自分も救われるように感じるはずですね。そうした人たちの愛の心を究極的に表現すると、人類の幸せのために奉仕しようという内的欲求であると言えると思います。

クライアントさんへのヒーリングの時に、手を33回転させるという方法をとっているのですが、この33という数字の意味にも同様の意味が込められているらしいです。

以下はあるウエブサイトに載っていたものの抜粋です。

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<<33>>

キーワードは人類の奉仕者。
 このマスター数の特徴を最も良く代表する例が、仏教の菩薩である。
人びとの苦しみや悩みと同化し、それらから救いだしてあげたいという切実な思いを
内に秘めている。
この感受性は最初個人的な悩みや苦しみとして感じられ、成 長するにしたがってしだいに普遍的な広がりを持つようになる。さらに、多く の人々と自己の悩みを同化させる方向へと進み、自己の幸せ=人類の幸せと感 じるようになっていく。
したがって、人類の幸せのために奉仕しようという内 的欲求がこのマスター数の特徴となる。
この数を持つ人は、大なり小なりその時代の人々の手本にされがちである。

このマスター数は非常に高い波動を持つので、その可能性を完全に表現し同調できる人はごくまれである。
もしこの数の可能性を実践出来る人がいるとすれば、その人は人類のマスター(大師)である。

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数の不思議については詳しい人に譲るとして、私たち一人ひとりが愛を選択してみんなの幸せのためだけに生きれるようになったら、すばらしいですね。

愛の目

人は何かを見るときに、大抵はエゴの見方を使っています。でも心が愛に満たされているようなときには、それが愛の見方に変化します。

そうすると、今まで淀んで見えていた景色がばら色に染まって見えてきたり、薄暗い感じがしていた部屋の中が明るく見え出したりするのです。

愛の目で周りの人達を見たらどんなふうになるんだろうかと想像してみました。異性を見る目、同性を見る目がどう変化するでしょうか?

我々が使える愛の目とは、まだ肉体の目を使うレベルですので、個々の違いを識別してしまいますから、個性を見ることには変わりありません。

ただ、綺麗な人とそうでない人の違いがなくなるように思います。すべての人がそれなりに綺麗だし、美しいし、かわいらしいし、愛しい風貌に見えてくるのだろうと思います。

ですから、綺麗じゃない人、素敵じゃない人、感じの悪い目つきの人、そういったネガティブな反応をしてしまうような人が周りからいなくなるのでしょうね。

背の高い低い、横幅のあるなし、色の白い黒いなどはそのまま見ることはできますが、自分がいやな気持ちになるような人は一人もいなくなるということです。

これは想像しただけで何とも楽しくなります。自分は若いときに、異性を見るたびになぜ世界中の女性がみんな美人ではないのかなあと本気で思っていました。

誰かにそのことを話したら、みんなが美人だったら区別がつかなくなるからだよと言われましたが、そんなことはないですね。世界中の人の指紋が全部違うように、みんなが美人であっても個性は保たれるはずです。

この夢のような状態が、きっと愛の目で周りを見るようになったら実現するのではないかと密かに楽しみにしています。 そして実はほんの少しだけその兆しがあります。

人を見るときに、心のどこかで何か暖かな気持ちを感じている自分がいて、それが増えてきている気がします。それが、すべての人は美しいというところに繋がっていくのだろうなと思うのです。

コミュニケーション

人と人とのコミュニケーションが大切ではないと思っている人などいないはずなのに、なぜ思ったようなコミュニケーションができずに苦しんでいる人が沢山いるのでしょうか?

自分の気持ちを正直に伝えることができなかったり、相手の言葉をしっかり受け止めることができなければ、円滑な人間関係を作ることは不可能となってしまいます。

コミュニケーションの不足は、自分が傷つけられるかもしれないという恐れが多くの場合原因となっているようです。人に与えられたコミュニケーションの手段とは、一般に言葉や身振り手振りなどの動作ですね。

しかしそうした表現をする時に、自分が発信したことに対する周りの反応によって、自分が傷つけられるかもしれないという恐れが強過ぎると、思い通りの表現ができなくなってしまいます。

さらに、自分が傷つけられるかもしれないという恐れは、100%自分の思い込みに過ぎないのですが、それを持っていると、同様に自分の表現したことで周りが傷つくかもしれないという恐れをも作り出してしまいます。

どちらにしても、人間関係でもっとも大切である円滑なコミュニケーションを妨害することになってしまいます。それでは、人は気持ちを分かち合ったり情報を共有することが難しくなってしまいますね。

また、本人の自覚のあるなしに関わらず、自分からわざとコミュニケーションを絶つことによって、相手を攻撃したりある種の復讐をするという場合もあります。

怒りを感じると口をつぐんで話しをしなくなってしまう人とか、相手からの問いかけに応じないで無視するといった手口を使うのです。好きの反対は嫌いではなく無視なのです。

つまり、コミュニケーションをしないというのは、最大の敵意の表れであると言うことも言えるかもしれません。そうなってしまうと、人間関係を作るどころではなくなってしまいますね。

奇跡のコースでは、癒しとは恐れを手放していくことだと言っています。恐れとは愛の欠落した状態のことをいいます。従って、恐れを感じなくする最も効果的な方法は、自分が相手に愛を与えるということを続けていくことなのです。

愛を与える自分は愛の中にいることができるので、恐れを感じなくて済むのです。そうしたら、人間関係のかなめである良好なコミュニケーションができるようになっていくはずです。

リセット

子供の頃よくボーリングをしてたのですが、ゲームの途中でしばらくミスが続いてしまった時などに、次からはノーミスで行こうと気分を新たにする意味で、心の中をリセットしようとしていた記憶があります。

リセットとは、一度白紙に戻して一から出直すというような意味合いがありますね。私はちょうど10年前に人生をリセットした経験があります。病気をきっかけとして、仕事を辞めたときです。

それから10年経った今、またそのリセットの時期がやってきてるような気がしています。10年前とはいろいろな面で違いがありますが、昨年の今くらいからそのうねりのようなものを感じていました。

それがちゃんとやって来てくれそうな感じがしています。リセットと言っても物理的な環境も含めて起きる場合と、内面だけの場合と両方あるように思いますが、今回はどちらなのかまだ分かりません。

リセットには二面性があります。一つは新たな気持ちで再出発という肯定的な気持ちであり、もう一つは今まで築いてきたものを手放す不安ですね。

人は変化することと、分からないことを不安に感じるという性質を持っているので、そちらの方に気持ちを取られてしまうと、リセットは不安なものになってしまいます。

しかし、これから何か大きな変化をするときというのは、大抵大切なものを奪われていくように感じるものなのです。それを潔く手放して新たな出発を目指すのが結果として苦しまずに済むことになるのです。

10年前のリセットの時は、ものすごくすがすがしい気持ちで過ごすことができたのですが、今回そうなるかどうかは、やはり自分の気持ち次第なのでしょうね。

今回は、自分が培ってきたことを手放すというよりも、自分が所有するということに対する無意味さを学ぶことになりそうです。

人生で本当に大切なものは真の幸福だけだということを身をもって体験させられるような予感があります。今から楽しみでもあり、ちょっぴり不安でもありますが、できるだけ与えられたチャンスを喜びを持って迎えて行きたいです。

澄みきった心

あなたはどんな時、どんな場所で澄み切った気持ちのいい心になるでしょうか?さわやかな草原をのんびりと散歩するときでしょうか?朝日を感じながら早朝の海辺にたたずむときでしょうか?

大切な人と穏やかなひとときを過ごす夕暮れの景色の中ででしょうか?それとも自宅のソファで静かに瞑想している時でしょうか?

どれも何とも気持ちの落ち着く平安の中にいられるような感じがしますね。 それとは逆に耳障りな騒音の中であるとか、歩きつかれて足が棒のように痛い時や、蒸し暑い満員電車の中など、そんな状況では心は気持ちのいい状態ではいられなくなる可能性が大きいですね。

このように私たちはいいにつけ悪いに付け、まわりの状況などに自分の心が多大な影響を与えられてしまうということを経験から知っています。だからこそ、心が疲れたときやエネルギーが切れてしまったと感じるときには、旅に出たくなったり、自然の中に戻りたくなったりするのですね。

肉体的に感じること、快不快や痛みなどによって、心の状態が変化させられてしまうということです。このことはよく考えてみるといわゆる主従逆転していると言えると思います。

本来心が身体を支配しているはずなのに、身体が心をもてあそんでいるように感じませんか?
もてあそばれているという表現を敢えてしたのには理由があります。

実は身体がもてあそんでいるのではなく、心の中の自分は分離していると思っている部分、つまりエゴが身体を利用して自分をもてあそんでいるということです。

もてあそんでいるのはエゴであり、もてあそばれているのは、エゴを選択し、エゴに力を与えてしまった自分だということです。

このことにしっかり気付いたら、もうそんな主従逆転の状態をいつまでも続けさせておくわけにはいきません。肉体の影響を受けるにしても、ただそれを受け流すくらいの心の余裕ができるといいと思います。

自分の本当の主人は身体でもそれをコントロールしているエゴでもありません。心の中の神聖な愛の部分が本来の自分であり、真の自己であるのです。

そのことをいつも忘れずにいることで、自分が望むのであればいつでも澄みきった気持ちのいい心でいることができるようになるはずです。

外への依存と内への依存 その2

昨日のつづきです。

昨日の結果により、自分が依存型の人間なのだと分かったとしたら、どうしたらいいのでしょうか?そのままだと自分の外側に自分を幸せにしてくれるものが必ずあるはずだとの思い込みで生きていくことになりますので、決してその夢は実現しません。

だから、依存を脱却して自立の道に進む事が自分を幸せにする方法なのだとするのが世の中の常です。ところがそれこそがエゴの作戦なわけです。

依存心たっぷりな自分をもてあましている人にとっては、何でも自分でできる精神的に自立した人を羨ましく思うのは当然です。そして、自立できたらきっと幸せになれるはずと思い込むのです。

しかし、自立の状態はエゴが一番活性化している状態であるとも言えるわけで、そのことだけ見ると愛のない心で生きるということに繋がってしまうのです。

はっきり分かって欲しいことは、自立は幸せではないということです。本当に幸せになるためには、通常言われている依存、それは自分の外側への依存ですが、それをやめて、心の内側への依存を選択することなのです。

心の内側への依存とは、まず少なくとも自分の外側、人や物などに依存しない、外側に何かを求めないということです。そこが通常の依存とも自立とも違うところです。

自立といっても、その実体は実は何かに依存しているのです。依存する対象が人でないだけで、モノや事象には依存しています。

例えば、忙しく働いている人は自立していると言えるかもしれませんが、その仕事を奪われてしまうと腑抜けになってしまうとしたら、それは依存にちがいありません。

従って、一般的な自立というのは、人ではなくモノや立場や状態などに依存している心の状態を指すことが多いものです。

何かを欲するという意味では、外への依存も自立も同じだということです。

それに対して、内側への依存というのは欲するということから離れている心の状態を指します。欲するかわりに委ねるのです。手に入れたいと思う代わりに与えたいという思いになることです。

自分の心の内側にエゴとは正反対の愛の心の部分を見い出して、その部分への純粋な信頼を持って自分の人生を委ねるということです。内への依存とはそういうことです。

それこそが、本来の幸せへの道に繋がる生き方となるのです。

外への依存と内への依存

私たちが一般的に依存と呼んでいるのは、自分の外側の人や物や事象に対する依存のことを指します。幼い子供であれば、親がいなければ生きてはいけない、年頃になったら大好きな彼と別れたら辛すぎる、大人になったらやりがいのある仕事がなければ毎日がつまらない等々。

自分の外側に要求を満たして解決してくれる人やモノなどがあるとするので、自分自身は直接的にはその解決には関わらないわけです。

運良く自分の思う通りに希望を叶えてくれる人やモノが出現してくれたら、それはとてもラッキーですし、自分は楽ができるわけですね。しかし、相手の気持ちがいつ変わるか分からないですし、自分ではコントロールできないのですから、いつでも不安がつきまとうことになってしまいます。

そのため、依存が強い人は決して幸せにはなれないと言われてしまうのです。もしも自分は依存型の人間なのかどうか、判定してみたいという方は次のようにしてみて下さい。

まず、自分が幸せになるためには何が必要なのかということについて、何の制限もなしに列挙していくのです。可能か不可能かということについては考慮せずにどんどん箇条書きにして行って下さい。

例えば、体重を○kg減らして理想体型になる、あるいは一生困らないお金が手に入る、あるいは自分にとって理想的なパートナーと巡り会える、などです。

次に沢山列挙した一つひとつについて、以下の二つのどちらに該当するかグループ分けしていきます。

① 自分が変われば実現できること

② 自分が変わっただけでは実現しないこと

例えば、①は体重を○kg減らすなど、②は大金が手に入る、などです。グループ分けする時に注意する点は、①を選ぶ時には、直接的なものだけにします。例えば、体重が○kg減ったら理想のパートナーと巡り会えるチャンスが増えると思っても、理想のパートナーと巡り会えるは、②に分類するということです。

すべての項目に対してこの二つのグループ分けが終わったら、①と②の比率を調べます。もしも、①に比べて②が圧倒的に多ければ、かなりの依存体質だと思って間違いありません。

つづく

機嫌の良し悪し その2

昨日のつづきです。

誰かの機嫌の悪さが、周りの人達に心理的な悪影響を与えるというお話しをしました。そして、実はそれこそが機嫌を悪くする大きな目的でもあるのです。

機嫌が悪い状態というのは、無自覚ではあったとしても、誰かに自分の不満な気持ちを訴えようとしているのが目的だということです。そしてその目的はいい悪いは別にしてある程度達成されるということです。

しかし、機嫌の悪さが何かを訴える行動だということが周りに伝わったとしても、本人の希望を周りに叶えてもらえるという保証はありません。

幼い子供が欲しいものを買ってもらえなくて、機嫌を悪くして、仕方なく親がそれを買ってあげて目的を達成するということはあるかもしれませんが。

また実際にその欲しいものを買ってもらえなくても、その欲しいという気持ちを親に充分に受け止めてもらえたと感じるだけでも、かなり子供は楽になるのです。

それと同じで、大人が機嫌を悪くする場合も自分の周りに何かを求めている行為であり、その行為はとても幼稚なものだということを知るべきですね。

ですから、どんな場合においても機嫌を悪くすることを正当化することはできません。今自分はこういう理由で機嫌を害しているだけで、それは当然のことだと主張する人がいるかもしれません。

しかし機嫌が悪いのは幼い自分の意識の現われであるということを認めれば、そんな依存心たっぷりな自分を周りに露呈することを自粛したいと思うようになるはずです。

このように、機嫌の悪さは自分を救ってくれるものが自分の外側にあると信じて、それを訴えている惨めな自分の姿を曝け出しているのだけなのだと認める必要があります。

これがしっかりと認められたら、機嫌の悪さよりも機嫌のいい自分を選択しようと思うようになるはずですね。

機嫌の良し悪し

機嫌とは人の気分の状態あるいは気持ちのことを言いますね。機嫌がいい状態とは、何となく気分がよくて明るい気持ちの時のことをいいます。そういう時には大抵何か自分にとって嬉しいことや楽しいことが起きたときです。

それに対して機嫌が悪い状態とは、何か気に入らないことが起きたり、何がしかに不満を感じている時などのことをいいます。どちらの方がいいかは、議論の余地はないはずです。機嫌の悪い状態は自分にとっても周りの人にとっても喜ばしいものではありませんね。

それなのに、何だかあの人はいつも眉間にしわを寄せてる感じで機嫌が悪そうだよね、などと言われてしまう人もいると思います。

本当は機嫌など悪くないのに、わざとそのように見せているといった場合は例外として、一人機嫌が悪い人がいるだけで、周りの雰囲気がとても悪くなるといったことは皆さんきっと経験があるはずです。

特に何かと影響力の強い人が機嫌が悪いと、その傾向も大きくなります。その一番いい例が、親の機嫌が悪い時の子供の精神状態です。子供は親への依存が大きい分、親の気持ちがどうなのかということが非常に大きな心理的な要因となります。

子供の時に、親の機嫌が悪い状態を長く経験してしまうと、その人は大人になっても周りにいる誰かの機嫌が少しでも悪いとそれに敏感に反応してしまうようになってしまいがちです。

親の顔色を伺って自分の態度を決めるといったことが子供の頃に定着することで、大人になっても必要以上に人の反応を気にするようになってしまうといったことが起きてきます。

そうすると、人と一緒にいることが何となく気詰まりに感じたり、必要以上に気を使うことで気疲れしてしまったりして一人でいるのが楽でいいということにもなるのです。

人の表情や態度をいつも敏感にキャッチしてしまうという自覚のある人は、大概幼い頃に親の機嫌が悪かったという体験を繰り返しているはずです。

このように機嫌が悪いということは、自分が気分が悪いだけでなく、周囲の人達にも意外に大きな悪影響を与える結果となってしまうことを自覚すべきかもしれません。

つづく

リスク回避

私たちは分からないこと、知りえないことに対して不安や恐れを感じます。そういう意味では、未来というのは誰にとっても分からないことなので、必ず大なり小なりの不安を感じているものですね。

そしてその不安が強過ぎると、それが心の負担となってしまうために、それを何とか少しでも緩和しようとして様々な対処法を身につけるようになります。

たとえば、初めてのところに旅行に行くというような場合に、前もってルートや移動にかかる時間を綿密に調べたり、足りないものがないように何を持っていけば困らないのかよく考えたりということをします。

このような場合に、不安感が大きいとそれに比例して準備も入念になりすぎてしまい、必要以上に多くのものを持っていかねば安心できなくなってしまったりしてしまうのです。

身体の調子が悪くなることを想定して、あらゆる薬を用意してみたり、いわゆるまさかの時に困らないようにという準備に必要以上のエネルギーを費やさねばならなくなるのです。

自分が安心しようとするために、かえって楽しいはずの旅行に行く前から疲れてしまうということも起きてしまうかもしれません。

それに対して、困ったら困った時に考えればいいよとばかりに、簡単に準備を終えてしまえる人もいますね。両者の違いはひとえに不安感の大きさにあるのです。

何か起きてからでは遅すぎるという観点から、事前に適度な準備をすることは決して悪いことではありません。しかし、大切なことは何が起こるにしてもそれは自分が投影として起こしているということを思い出すことです。

もしも、未来に起こることも自分の心の愛の部分である聖霊に委ねてしまうことができたら、きっと不安はなくなってしまうはずです。逆に自分が未来の舵取りをせねばならないと思うと、不安が大きくなってしまうのです。

何にしても、未来のことについていつも不安を抱いて、そのことに余分なエネルギーを使ってしまってるなという自覚がある人は、できるだけ聖霊を信頼して全部委ねればいいんだという思いになることです。

これが一度でもうまくいくと、未来のことを心配しすぎる自分に振り回されなくなるはずです。是非、試してみて下さい。そして、もし不安が来てしまったら、不安は自分にはいらないものだと明確に宣言して、聖霊に差し出してしまうことです。