知覚

私たちの肉体には、触覚、視覚、聴覚、味覚、嗅覚という五つの感覚器官がありますね。これにプラスして、エネルギーを感じる感覚器官を六つ目の器官であることから第六感などと呼ぶこともあります。

私たちは、これらの感覚器官から入ってくる感覚という情報を用いることで、生きることができるわけですが、これをまとめて知覚と呼びます。

人は目が覚めている間中、つまり意識があると自覚している間は絶え間なく知覚を使い続けています。よほど深い瞑想状態にでも入らない限り、知覚がなくなることはありません。

つまり、知覚を生きる拠り所にしているわけです。物を見分けたり、大小を比較したり、様々な違いを知覚することで普段の生活が成り立っているのです。

これをもう少し詳細に説明すると、知覚はただ外部から入ってくる信号そのものと、それを判断し解釈する部分とに分けられます。

この二つを組み合わせることによって、その感覚に意味を持たせることができるのです。入ってきた信号そのものというのは、そのままでは全く意味の分からない外国語を聞いているような状態と同じです。

その外国語の言葉の意味を解釈することができて初めて、自分にとって意味のある情報として受け取ることができるようになるのです。

ということは、つまり同じ信号を取り込んだとしても、それをどう解釈するかによって知覚そのものが全く変わってしまうということになります。言ってみれば、これが個人個人の個性に繋がるものですね。

同じ映画を観ても、それぞれに受け取る印象が異なるのはそうした知覚の中の判断や解釈の相違によるものです。

知覚を取り仕切っているのは、実はエゴなのです。エゴはエゴ自身に都合のいいように知覚するのです。それは受け取った外部からの信号を勝手な解釈や判断を付加した状態で、自分に渡すのです。

そしてエゴは、それを正しい知覚だと思わすのです。私たちは、そのエゴの知覚にすっかり騙されていることに気付いていないのです。

つづく