幼い頃の自分に意識を向ける

癒しを進めて行くということは、その過程でさまざまな経験をしていくことになるのですが、その中でもとても重要なことが一つあります。

それは、過去を見直すということです。言葉で言ってしまうと大したことがないように感じるかも知れませんが、これがとても大切なのです。

要するに、大人の自分の中立な見方で、過去の自分の生活を見直してみるということです。そうすると、実にさまざまな気づきがやってくるのです。

それまで自分では、大したことはないと思っていたこと、あるいは当たり前のことだと思い込んでいたことなどが、そうでもないことに気づくのです。

子供の頃というのは、自分の狭い世界で物事を捉えることになるので、疑問に感じなかったり、当然のこととして済ましてしまうことが多いのです。

それを催眠などのセッションで、つぶさに見直してみることで、これは大変だと新たな認識をすることになるのです。

幼い頃に知らず知らずのうちに、無理をしたり我慢をしたりしてきたことに気づき、その時代の自分への労りの気持ちが湧いてきたら癒しのチャンス到来です。

癒しというのは大人の自分を癒すことではありません。過去の自分を深く知ることで、その子を癒していくということなのです。

だから癒しというのは、過去の自分を癒すということですね。こうしたことに自ら気づいていくことで、癒しは加速していくことになるのでしょうね。

自我とは表層の自分

次のosho の言葉を味わってみて下さい。

あなたは源からやって来た。奥底では、あなたは今だにその源の中にいる。ただ表層部にいるだけだ。あたかも枝が根のことを忘れてしまったかのように……根から切り離されてしまったわけでない。そうでなければ枝は生きていられない。ただ忘れてしまっただけだ。

忘れてしまうことを無意識と呼ぶのです。本当はその源でしかないのですが、それ自体について無意識になってしまっているということです。

無意識状態のままに夢を見ているようなもの。枝にとっては、土の中に隠されている根のことは見ることも触れることもできません。

それはちょうど、夢の中の自分がベッドの中で眠りながらその夢を見ている本当の自分のことを忘れているのと同じなのです。

私なりの表現を使えば、表層部の自分とは海面で必死になって溺れないように手足をバタバタさせている姿のイメージなのです。

そして本当の自分は、その姿を海底深くの静寂の中から穏やかに見守っているイメージです。海面も海底も同じ海として繋がっているのです。

万が一、あなたが海面で疲れ果てて溺れてしまい、静かに海底まで沈んでいくなら、その時には海底にいる本当の自己と出会うことになるでしょうね。

そうだと分かっても、誰も海面で溺れようとは思わないものです。だから自我はこれからも続いていくことになるのですね。

無邪気な男の子たち

事務所からのクルマでの帰り道、いつもの狭い道路、いつもの踏切。この踏切を通らずに帰る方法があればいいのですが…。

運悪く左右方向から同時に電車が来るようで、こうなるとしばらく待たなければなりません。すると、そこに後ろから自転車に乗った二人の小学3〜4年くらいの男の子が来たのです。

彼らは、私のクルマと遮断機の狭い間に入り込んできました。まあよくあるパターンだなと思っていたのです。

すると、一人の男の子が後ろを振り返って誰かに手を振っているのです。その子のことを見ていると、なんだかすごく目線が合うなと。

その誰かが私の真後ろにいるのだろうと思ったのですが、誰もいそうにありません。そのうち、またその子が振り返って手を振るのです。

もしやと思ってこちらからも振って見たところ、その子が前を向いてガッツポーズをしたのです。もう一人の子は、手を振る私を見ていたらしく、可笑しそうに恥ずかしそうに下を向いたのです。

遮断機が上がって、先に彼らを通らせた後ゆっくりと自分も線路を渡ったのですが、その後彼らは私のクルマに負けじと猛スピードで自転車を漕ぐのです。

どこまで競争が続くのかなと思っていたのですが、さすがに気がついたら彼らの姿は消えてしまいました。

小学生の男の子が、普通見ず知らずの大人に興味を示すことなどないだろうし、ましてクルマを運転しているいい歳のおじさんに関心などないはず。

知らない大人に手を振ってみて、反応してくれるかというゲームをやっていたのかも知れませんが、そうだとしたらまだ無邪気さが多く残っている子なのでしょうね。

人は幼い頃、無邪気でいられた期間が長ければ長いほど、内面が健康に育つものなのです。彼らの将来が楽しみだなと思わずにいられません。

傷つきやすくあれ

生きていれば誰だって、身体が傷ついてしまうこともあるし、心が傷つくことだってあるのです。これはある意味避けては通れないことですね。

その上誰もができるなら傷つきたくはないと願っています。なぜなら、傷つくことは辛いことだし惨めだし、痛くもあるからです。

そのため傷つかない人、傷つきにくい人になれたらいいのにと思うのです。傷つく要因が同じであっても、人によって傷つくレベルには違いがあるからです。

心身ともに鋼のように頑強であればいいのにと思うのです。傷つくことでよりダメージをくらったように感じるのは、心の方ですね。

だから強い心の持ち主になりたいと願うわけです。けれども、それでは生まれてきた意味が半減してしまいます。

この場合の強い心というのは、より鈍感で感じにくいということを意味するだけで、それだけ気づきの少ない人生になってしまいます。

傷つくことは悪いことだ、惨めなことだと信じ込んでいる人がたくさんいるのですが、それは間違いなのです。

傷つくことは決して否定的なことでも悪いことでも、惨めなことでもありません。傷つくことでしか気づくことのできないことがたくさんあるからです。

人生の目的があるとして、それはより多くの大切な気づきを得ることだとするなら、傷つきやすい方が有利なのです。

私たちは外的要因によって傷つけられると信じていますが、それが言えるのは身体だけであって、心の方は違います。

きっかけをもらうだけで、自分自身で心を傷つけるのです。このカラクリが本当に理解することができると、傷つきやすいことを歓迎できるようになるでしょうね。

全く影響されない自己

普段はすっかり忘れてしまっていることが多いのですが、時に意識してある練習をしているのですが、今日はそれについてお伝えしたいと思います。

日頃の生活の中で、自我(マインド)や身体というのは、常に周囲からの刺激に対して反応し続けていますね。

例えば、外を歩いていてジリジリと太陽に照らされて、汗が脇やこめかみのあたりから吹き出してきたり。

逆に木枯らしに吹かれて、身体が縮こまり小刻みに震えてきたりするわけです。こうした身体の反応は誰にとっても似たようなものです。

また、自分が惨めな思いをした時には怒りが込み上げてきたり、あるいは悲しみに襲われてしまうこともあるかも知れません。

こういった反応をじっくりと感じてみて、その次に、やって見て欲しいことがあるのです。それは、外界からのどんな刺激に対しても全く影響されない部分があることに気づくこと。

初めのうちは、全く見つけられないかも知れませんが、諦めないことです。刺激が強すぎると、ほとんどの人は見つけらなくなるはずです。

だから緩やかな刺激、練習するのにちょうどいいくらいの刺激がやってきて、それに反応している時には、もしかしたら発見できるかも知れません。

私が時々やっているのは、サウナの中で100℃の空気の暑さに影響されずにあるもの、それを探すようにしています。

この全く影響を受けない部分こそが、本当の自己なのだろうなと思っているのですが、もしも興味があったら是非実践してみて下さい。

思わぬ収穫があるかも知れませんよ。

理不尽さを思い出す

人生の中で理不尽な目に遭ったことのない人などいないはずです。理不尽なんて言葉を知らないような幼い頃にも、何度となく理不尽さを喰らっているのです。

理不尽というのは、ごく普通の一般常識に照らし合わせてみても、どうにも正しくないし、理屈に合わない言動をされたという意味です。

ということは、物事を論理的に考える傾向が強い人ほど、理不尽さを見つけてしまう、感じやすいということも言えます。

一般的に、女性よりも男性の方が左脳が発達していると言われており、左脳は論理を司る脳なので、結果として女性よりも男性の方が理不尽に敏感に反応してしまうのです。

女性はどちらかといえば、右脳優位の傾向が強いので、理屈に合わないことでもまあいいやで済ますことも可能なのです。

それは男性にはなかなか難しいことなのです。こうした男女の違いがあるにしても、理不尽さに対する反応が異常だという自覚があるなら、それはまた違うところにその原因があるのです。

それを探すには、どんな種類の理不尽さに出会ってしまう傾向にあるかをしっかり分析することです。そこには必ず共通点があるはずなのです。

そしてそれはきっと幼い頃の家庭での経験とマッチしている可能性大なのです。それをヒントに、幼い頃のエピソードを思い出して、そこに紐付けされた怒りの感情に気づくこと。

その怒りのエネルギーが後々の理不尽との出会いを作り出していることを知り、そこに焦点を絞って感情を味わうことです。

そして怒りは惨めさを隠そうとして作り出す感情なので、怒りの下に隠された惨めさにも気づくことができると、癒しは一気に進むことになるでしょうね。

宗教の本当の意味

人類のこれまでの長い営みを俯瞰して見てみれば、本当にざっくり言ってしまえば、「戦争と宗教」の歴史だということができるのではないかと。

戦争が絶えることはなかったし、宗教が地球を覆っていない時代などないのですから。そのどちらもが、人間のマインドに深く起因しているのも間違いないことです。

今思い返すと、私は小中学生の頃から宗教と呼ばれるものに何となく興味を持っていました。経典と言われるものには、一体どんなことが書かれているのか?

そんなことに漠然とした関心があったので、一度ラジオの何かの番組でハガキを出すと、もれなく聖書がもらえるというのがあって、実際にもらったことがありました。

ただし、ほとんど読まずにいたのは何かが自分には違うなと感じたからなのだと思うのです。それに、教祖がトップに君臨するような宗教組織には全く興味がありませんでした。

もっと本質的な何かを修得できたらいいのにと思っていたのです。そんな自分の感覚に最もマッチしたものに出会ったのですが、それがoshoでした。

次のoshoの言葉が深く私を包んでくれるのです。そして、宗教という言葉の本当の意味もなるほどと納得することができますね。

宗教とは入信することではない。宗教とはどんな夢も持たずに現実のなかにあることを言う。夢は過去か未来のいずれかからやって来る。宗教的な人は空っぽの人、中空の竹だ。彼はリアリティーが彼を通して生きるのを許し、それと共に流れる。彼は目的地を持たずどこにも向かっていない。ただここに在る。

自己分析は興味深い

いわゆるフットワークの軽い人っていますよね。思い立ったらすぐにどこへでも出かけて行ける速効性とエネルギーを持っているのです。

羨ましいなあと思ってしまうのは、自分がフットワーク重い系の人間だからです。それも相当に重症なレベルだと自覚しています。

じっくり見つめてみると、フットワークが云々というよりも、とにかく出かけていくことに何らかの引っ掛かりを感じているようなのです。

現在の自分には、出かけることを妨害するようなこれと言った理由は見当たらないので、きっと過去の自分の感覚なのだろうなと推測できます。

昨日のブログの通りで、普段はすっかり忘れて自覚がないのですが、幼い頃に何らかの体験を繰り返した結果、出かけることへのブレーキが働きっぱなしになっているのかなと。

普通に覚えていることで言うと、車酔いが酷くてそれでも両親が出かけるので、留守番ができない自分はイヤイヤついて行っていたのです。

クルマに乗る前からもうすでに気持ち悪い感覚になっていたのをはっきりと覚えています。それのトラウマかなと。でももっと重大な影響が他にあるような気もします。

もっと幼い頃のことをイメージすると、はっきりとした記憶ではないのですが、心配性の母親から心配や不安のエネルギーを毎日浴びていた感じがするのです。

そして、遠くへ行くことは何かとても危険なことが起きるという感覚を持ってしまったのかも知れません。きっと3〜4歳の頃のことです。

大人の自分が何か明確な理由を持って出かける時には、その子のブレーキを乗り越えて行けるのですが、ただ漠然と出かけようとすると、その子の力の方が強く作用するのですね。

この分析が的を射ているかどうかは、もうしばらく自分の内側を覗いてみないとわからないですね。自分を分析するって、結構面白いので何かネタがあったらみなさんも是非試してみて下さい。

マインドの中に勢揃いしてる

今日あなたが目覚めると同時に誕生したのだとしたら、マインドの中は空っぽになっているはずですね。

けれども、実際には今日のあなたのマインドの中には、これまでの全てのあなたが勢揃いしていると思ってください。

え、なんか気持ち悪いと思うかも知れませんが、私が検証してきた限りでは、生まれた時から現在まで生きたそれぞれの過程の自分が盛り込まれているのです。

もっと正確に言うと、マインドの潜在意識の部分に過去の全ての自分が残っているということですね。

あの時の自分を忘れてしまいたいと願っても、消すことはできないのです。もちろん、潜在しているので自覚することはないかも知れませんが。

過去生きていた全ての自分の中で、今の自分にいい影響を与えるものはそのままにして、都合の悪い影響を与えるものは無くしたいと思うものです。

ただ、すでにあるものを消すことはできませんが、その影響力を小さくすることはできるし、それで十分なのです。

それをするのが心の癒しなのですね。思い出したくないと思う記憶の中に生きていた自分ほど、悪い影響力を強く持った状態で残ってしまうのです。

癒すことで、その記憶を思い出してもあまりいやな感覚にならなくなれば、それだけ影響力が低下したということなのです。

理想的には、過去のどの場面の自分を思い出しても、引っかかるものが残っていないという状態になることですね。

「兄」の上にチョンチョン

小5から中1の途中まで塾に通っていたのですが、その塾で毎月テストがあったのです。これからお話しするのは、英語のテストの記憶なのできっと中1の時だったのだろうと。

その頃そこそこ成績の良かった私は、英語のテストは大抵が100点だったのですが、ある時99点という不思議な点数を取ったことがあったのです。

答案用紙を返しながら先生曰く、「大澤、99点。大澤は漢字を間違えたので…。」それを聞いた友達に「大澤、もう外人じゃない!」と言って大笑いされたのを覚えています。

何だろうと思って答案用紙を見てみると、英文和訳のところで訳そのものは合っていたのですが、「兄」という字を間違えていたのです。

みなさんは、「兄」といういたってシンプルな漢字をどう間違えたのかと疑問に思われるかも知れませんね。

実のところ、「説」とか、「悦」という字の右側部分のように、兄の字の上の部分にチョンチョンをつけてしまっていたのです。

このエピソードを思い出した時に、テスト中に回答している自分の気持ちを非常にリアルに思い出すことができたのです。

訳を一通り書き終わったところで、何となく「兄」という漢字の上の部分が足りてない気がしたのですね。それで、わざわざ正しい「兄」の字の上にチョンチョンを付け足してしまったのです。

曖昧な記憶を辿ってみると、「兄」という漢字を習ってからしばらく経って、「脱」とか、「税」といった漢字を習った時に、これらの右側部分(つくり)を「兄」と勘違いして覚えていたような。

つまり、オリジナルの「兄」の記憶と、チョンチョン付きの字の記憶の両方を持ってしまったのだと。だから最初は正しい兄を書いて、その後チョンチョンをわざわざ書き加えたのだろうなと。

私のような適当な人物が先生だったとしたら、漢字の間違いを見逃して100点にしていたかも知れないなと思うのです。

そうだったとしたら、もっともっと後になって間違って漢字を覚えてしまっていたことに気づいて、もっと大きな損失を被っていたかも知れません。

マイナス1点とはいえ、しっかりと間違いを指摘されたことで、私はその後「兄」という字を間違えることはなくなりました。

何であれ先延ばしにしがちな私ですが、間違いは早いうちに修正しておいた方がいいという教訓になるなと改めて思いますね。

心の癒しも同じです。本人のタイミングなどもあるのは重々承知しているのですが、なるべく早いタイミングで癒しを進めていく方が有利だなと感じています。