すべては出来事で成り立っている!

私たちは通常、何かの出来事が自分や周りの誰かの身に起きると思っています。あなたの人生は、まさにあなたの身に起きた出来事の歴史から成っているわけです。

けれども、仏陀はかつてこう言ったのです。「生は物で成り立っているわけではない、出来事から成り立っている。」この真意は一体何なのでしょう?

つまり、この世界はただ出来事が起きることだけが続いているということ。何かが起きつつあるだけであって、それを体験するナニモノもないということです。

私たちの感性では、例えば何事も起きなくても、自分という個人はただここにこうしていると思い込んでいるのですが、それは間違いだということです。

私たちという主体が存在するという感覚は間違いで、それすらただ出来事の一部として起きていると言いたいのだと思うのです。

だとすると、私もあなたも特別な存在ではなく、川が流れたり風が吹いたりするのと同じように、ただ出来事として起きていることに過ぎないということなのです。

言わんとしていることが分かるでしょうか?あなたが歩くことも、何かを決意することも、単なる出来事の一つだということです。

このことを深く理解するならば、どんなことがあろうと深刻に受け止めることがなくなるはずです。間違いも不正も罪深さも、全部まとめてただの出来事なのですね。

生を気楽に楽しむために

一般的に言えば、私たちの誰もが恐れているのは、死ぬということです。死に対する恐怖が根っこにあって、それから逃れるために自己防衛をしてきたのです。

けれども、実は死について知っている人もいないわけで、本当に全く知らないことに対して恐怖を覚えることはできないはずなのです。

未知のものへの不安というのは理解できますが、激しい恐怖というものはそこには感じることはできないのです。それなら、一体全体死への恐怖の正体とは何なのか?

いくつか考えられるのですが、死から連想することの一つとして、病気になって苦しみ抜くというものがあるはずです。つまり、病気や怪我による苦しみに対する恐怖ですね。

これはかなり根深いものがあるはずです。なぜなら、自分以外の誰かが死に行く時に、そうした姿というものを繰り返し見せられてきた歴史があるからです。

つまり、社会的な経験です。そうした人類レベルの無数の経験が、私たちの記憶の奥深くに刻まれて残っているということなのでしょうね。

そしてもう一つは、死によってこれまであったものをすべて失うという、いわゆる喪失に対する恐怖というものがあるのでしょう。

まがりなりにも生きてきた自分の生を奪われてしまうという恐れ。辛くても馴染のあるものを 取り上げられてしまうことへの恐怖があるのだと思われます。

ただし、よくよく考えてみればその喪失感を味わう自分自身が消えていなくなるのですから、本来何の問題もないわけですね。

そうなると、未知のものだから怖いということもない、喪失を怖がる自己がいないのだから、それも問題なし。となると、やはり苦しみへの恐怖が一番大きいのかもしれません。

そんな苦しみも、一過性のものであって、寄せては返す波のようなものに過ぎないのですから、それほど恐れる必要もないのだろうと。

結果として、死にまつわるどんな恐怖も、実は大したことはないということに気づけば、もっともっと気楽に生を楽しむことができるようになるはずですね。

真に知るとは?

内面に沢山不安を抱えている人ほど、何とかして安心しようと頑張る傾向があります。そして、安心を求める人は、探究するよりも答えを探す傾向も強くなるのです。

なぜなら、探究することは骨の折れる仕事だからですね。一方、誰かからそれなりの答えをもらうなら、非常に安易に安心を手に入れられると感じるのです。

本を読んで知識を増やすことや、誰か権威のある人の言葉を真に受けて、それをただ取り込むことは、すべて信じる作業に他なりません。

手っ取り早く答えを求める人は、大抵が信じるか信じないかのどちらかになるのです。信じてしまえば、これ幸いとばかりに答えが手に入って、表層レベルの安心感を得るのです。

その反対に、疑い深くもなるために、信じないということも多くなるはずです。○○教の信者というのは、そのような人たちの集団だと言えます。

ただ言われたことをむやみに信じ込んで、それ以外のものはすべて信じようとせず排除するのです。どれほどそれを続けたとしても、安心を手にする事はできません。

信じることと信じないことは、同じ一つの防衛の表と裏の関係にあるのです。人から聞いたことや、得た知識に頼ろうとせず、常に問いかける状態にあること。

その問いかけこそが、信じることでも信じないことでも、そのどちらでもない純粋な探究に繋がるのです。子供が無心に問いかけるのは、そこに否定的な疑いというものがないからです。

答えを求めることを慎み、代わりに労を惜しまず自ら体験すること。そのような態度でいることでしか、真に知ることはできないということです。

神の采配

セッションでは、できるだけ丁寧にクライアントさんのお話に耳を傾けるのですが、初回であればなおのこと、よりじっっくりとクライアントさんの人生の土台の部分をリアルな感覚を持ってお聴きするわけです。

その時に、どうやっても自分の許容範囲を超えてしまうような内容のこともごくたまにはあるのです。どうやって、クライアントさんがその過酷な環境で生き抜いてこられたのかを想うと、ただ驚嘆してしまうのです。

クライアントさんの幼い頃のエピソードを聴きながら、その瞬間瞬間をどんな気持ちでやり過ごして来たのかを想うと、私自身が耐え難くなってしまうこともあるのです。

そういう時に限って、意外にクライアントさん自身はしっかりされているというのか、淡々と過酷な過去のお話をされるのです。内容の割には、ご本人の心のダメージは小さいのかもしれないということです。

それで分かったことですが、とてつもなく理不尽過ぎる親に育てられると、比較的早い時期に相手の方がおかしいということを子供の側が見抜くことができることで、その分だけ傷が軽くなるということ。

逆に世間的にはごく普通に見える親であっても、コントロールされて、ペットのように飼育されてしまえば、気づかぬうちに多大な洗脳の中に入り込んでしまうことになり、そのような場合の方が圧倒的に深く病んでしまうということなのです。

よく親がだらしないと、子供がしっかりするというようなことを言われることがありますが、それと似たようなことなのかもしれませんね。

とは言うものの、やはり過酷過ぎる環境でよくぞ生き抜いて来られたと想うと、感動すらすることもあるのです。きっと、クライアントさんが勇気を持って癒しを進めていった暁には、神の采配に気づくことができるのだろうと思うのです。

意識だけが自分を変える

人は絶えず自分を変えたいと思っているものです。より優れた人物になろうとしたり、もっと素晴らしい生き方ができるようにと願っているのです。

ところが、それを願っている張本人はエゴなのです。エゴがエゴを改善しようと努力するわけですから、相当におかしな話しだということに気づく必要があるのです。

自分を変えようと思って、真に変わった人はいないと思って間違いありません。せいぜい表面的なちょっとしたことの変化程度しか成し得ないのです。

自分を変えられるのは、エゴではなく、意識なのです。意識だけが、自分を本当に変えて行くことが可能なのです。意識は、自分を変えようとは思いません。

なぜなら、意識は思考ではないからです。ではなぜ、意識だけが自分を真に変化させ得るのかというと、意識は自分に働きかけることをしないのです。

そうなると、自分というエゴはエネルギーを失っていくしかないのです。意識が自分に対して何もせずに、ただ見守り続けることで、エゴは餌をもらえずにいることになるのです。

その時に限って、本当の変化が起き出すのです。つまり、真の変化とはエゴの衰退によってのみ起きうるということです。

その真逆が、自分が頑張って自分を変えようとしている状態なのです。この違いをよく見分けておくことです。それだけで、日々の力みが小さくなるはずです。

癒しのいらない自己

心理セラピストを生業としている私が言うのもおかしな話しですが、いわゆる心理療法というのは、あくまでも人生という物語の中においての癒しの作業なのです。

こうした一般的な癒しというのは、そのすべてがエゴによるエゴのための癒しのことを言うのです。エゴがエゴを癒そうというのですから、本当は眉唾ものなのです。

エゴとは、自分という個人がいるという間違った信念を土台として作られた幻想の自己のことなのですから、それをどう癒そうと本質的にはどうにもならないのです。

苦しい夢が、少しは楽な夢に変化するくらいはあるのですが、エゴそのものが影のような実体のないものなので、それを癒すということも幻想でしかないのです。

エゴは狡猾なので、癒し始めると本人にとって急に楽になったような気分にさせることもできるし、実際暗いばかりの人生だったものに光が射してくる感じはあるでしょう。

けれども、それもある程度までに限られてしまうのです。エゴの頑張りを癒しに向き直しただけで、その生き方というのは変わらないのですから。

究極の癒しとは、人生という物語から抜け出すことなのです。物語の中には、喜び、悲しみ、希望、絶望など、あらゆるものがごったがえしていて、通常はそれらに飲み込まれてしまっているのです。

それらをただ見守ること、思考を落として静寂の中でただ在ること。そうしてエゴは実在しないと見抜くことができるなら、その時こそ癒しがいらない真の自己と出会うのですね。

マインドも二元性の世界の一部

この二元性の世界で生きるためには、その特徴というものをしっかり押さえておく必要があるのです。そのことに気づかずにいれば、苦悩は増大してしまうのです。

世界が二元性で出来ているのに対して、私たちのマインドは一度にそのどちらか一方のみを見ることしかできないという特性があるのです。

たとえば、ある人のことを信用するというとき、マインドは信用できる様々な理由を持っているのですが、その同じマインドの奥にはその人を信じていない部分があることに気づけないのです。

つまり、マインドとは信じていて信じていないという非論理を受け付けられないということです。ある人をすごく好きというそのマインドの別の部分には、嫌いが隠されているのですが、それにも気づけないでいます。

好きであってかつ嫌いというのが理解不能なわけです。だから、あれほど好きだったはずの人のことを、急に嫌いになってしまったときに、一番驚いているのは本人自身なのです。

信用していたその人のことを、何故かあるときから不信の目で見るようになってしまえば、それも最も驚いているのは当の本人なのです。

こうしたことは、本当はマインドの性質と二元性の世界を理解していれば、当然のこととして受け止めることができるのです。

マインドが自分を守ろうとして、いやなことを頑張り続けてしまえば、いずれは破たんしてその真逆のマインドが表出することになるのです。

けれども、ここでもやはりマインド自身が自らの一部しか感知することができないために、突然やってくる悲劇に耐えられないのです。

マインドを観照する訓練をすることで、マインド自身も二元性の世界の産物だということにしっかり気づけるようになるのです。そうなったら、何が起きてもダメージは小さくなってしまうでしょうね。

求めれば逃してしまう

私たちは、現状に100%満足するということはないのかもしれませんね。良くても、そこそこいいんじゃないかとか、結構いけてるかもしれない、という感覚なのでしょう。

金メダルを取得して、今日が生涯で最高の日です!と言ったとしても、その次の日はもうその感動は下り坂になっていくものです。

あるいはその逆に、今日はとんでもなくついてない一日だったとか、最近低迷していて気分がすぐれないと感じることもあるでしょう。

病気がちであれば、尚更落ち込んでしまうかもしれません。そのようにして、私たちは日々上がったり下がったりを繰り返しているわけです。

それでもいつかきっと今よりも、もっともっといいことが待っているという、淡い期待というのか、希望のようなものを持っていない人もいないのでしょうね。

完全にあきらめきって、未来にどんな希望も持つことができなくなってしまったとしたら、人はどうなってしまうでしょう?生きる意欲がなくなってしまうかもしれません。

だから私たちにとって、未来は非常に大事なものなのです。現状に満たされない不満感を、未来に期待をかけることで何とかやり過ごすことができるのですから。

けれども、長く生きて来ればそれだけ、何があってもどんなものが手に入ったところで、自分が期待するような完璧な、そして永続的な満足を手にすることは不可能だと気づくことになります。

それを深く深く理解することによって、未来へと向かっていた思考が静かになり、意識が優位になっていくのです。人は本当に諦めがついたとき、ようやく今この瞬間の中へ入っていくことができるのです。

それこそが、求めても求めても手に入れることのできなかった平穏な内面なのです。

宙ぶらりんにしておくアート その2

昨日のブログの続きです。

宙ぶらりんにしておくということで大切なことは、主に内面的なことに関してのことだということです。そのことについて、少し補足したいと思います。

マインドの中には、「何とかして~」という部分が必ずあるのです。常に問題を探し出しては、それを何とかしてもっとよくしたい、それをできる限り解決したい、そう思っているのです。

仕事の手順を改善するなどの具体的なことについて言っているのではないということ。目には見えない内側の部分についてのことです。

多くの人たちが日夜続けている、不安を安心に変えるなどはその典型例だと言えます。何としても自分を安心させたいと願うなら、決して安心を得ることはできません。

その逆に、気がつけばいつも不安の中にい続けることになるのです。そうした罠にはまらずに、その不安をそのままに、宙ぶらりんの状態にしておくのです。

それに対して、どんな手出しもせずに、その不安を徹底的に見てあげるのです。手出しすればするほど、相手の力を強化することになってしまうからです。

宙ぶらりんにされたものは、いずれはそのエネルギーを骨抜きにされるのです。そうなれば、不安は自然と小さくなっていくのです。

だからアートと呼びたくなるくらい、それは生きる極意と言っても過言ではないのです。

宙ぶらりんにしておくアート

私たちのマインドというのは、何かの問題を解決したい、あるいは回答を見い出したいという傾向を色濃く持っているということができます。

たとえば、身近なところでいうと、クロスワードパズルというのがありますが、あの空欄を全部埋めることができると、とてもいい気持ちになれるのです。

仕事をテキパキとこなしていく社会人は生き生きとしていて、とても好感を持つことができますね。何かがうまく処理されたら、マインドは快感を味わえるのです。

だからこそ、これで終わりというわけにはいかないのです。何かが解決されたら、すかさず次なる問題が起きるように仕向けるわけです。

つまり、こうしたマインドの特質が在り続けるなら、どうしても問題が必要不可欠だということです。場合によっては、その問題が人を苦しめることになったとしても…。

もしも本当に問題から解放されたいと願うなら、こうした問題-解決のループをどこかで破らなければなりません。そのためには、問題をそのままにしておくということ。

何とかして対処しようとする内面の努力から手を引いて、その問題を宙ぶらりんの状態のままにしておくのです。それには、勇気が必要かもしれません。

解決したときの、慣れ親しんだ気持ちよさや安心を得ようとすることをただ見守ることで、その問題に対して内面的なエネルギーを与えずにいるということです。

そうすると、解決しようとするマインドに餌を与えずにいることができるため、次第にマインドは力を失っていくことになるのです。それが結局は、新たな問題を生み出す力を小さくすることに繋がるのです。

このアートを身につけることは、常に瞑想状態にあることと同じなのですね。