心は傷つかない

傷心旅行とか、心を傷つけられてひどく落ち込んだとか言うように、私たちは通常心は傷つくものだと思い込んでいます。今日はそれを覆したいと思って今書き始めました。

なぜ心が傷つくと思うのでしょうか?確かに、好きな人に裏切られたり、人からひどい暴言を吐かれたりしたら、心が痛む、痛手を負うという経験をします。だから心も身体と同じように傷つくものと解釈しているのです。

勿論、心は身体のような物理的な実体があるわけではないので、その傷は見たり触れたりすることはできないので、ある意味比喩的な言い方であることは分かっています。

身体は確かに傷つきます。そして、その身体の中に心が宿っていると一般的に思われていますね。人によっては、心というのは身体の一部としての脳の働きによって起こる物理現象に違いないと思ってるわけです。

そういう意味では、初めに身体があって、その上で心というものを発生させているという捉え方ですね。だから、身体が傷つくのと同様に心も傷つくと思っているのです。

傷つくというのは、実は身体の死というものから連想されるものなのです。傷つく度合いが小さければ、死をイメージすることはありませんが、それでも傷つけられるということは死の方向へ近づくことを思わせるのです。傷の度合いが大きければ直接的に、死をイメージしやすくなるだけです。

身体は必ずいつか死を迎えるし、今この瞬間に死がやってくる可能性もないわけではありませんね。つまり、身体である私たちは生まれたときからいつも死と隣り合わせに生きているということです。これが傷付くという原因です。

ではもし、身体があるから心があるのではないとしたら、どうなるでしょうか? つまり、身体とは無関係に、あるいはまず心というものがあって、その後で身体が作られたとしたらどうでしょう?

心と身体は全く別物という捉え方をするということです。こうなると、死は身体だけのものとなるため、傷つくのも身体だけだということになります。こういう考え方を唯心論というように呼ぶこともできるかもしれません。

つまり、自分というのは心あるいは魂であって、この世に生まれてきて肉体という乗り物に乗って生活をし、その乗り物が死によって使えなくなったときに、とりあえずあの世に戻るということですね。

しかし、たとえ自分は唯心論者だと言っている人がいるとして、その人が心も傷つくことがあると思っているのでしたら、残念ながら心の奥では心と身体を混同しているということになるのです。

好きな人に裏切られると心が傷つけられたと感じるのは、そのことが見捨てられる恐怖につながっているからです。それは幼い頃に感じた、親から見捨てられたら自分は生きてはいけないという怖れです。これは肉体的な死と直結しています。だから、身体と心を混同していれば、傷つくという状態を感じるのです。

人からひどい暴言を吐かれて、心が傷ついたと感じるのも、幼い頃に親に怒られたり否定されたりして、愛を感じない状態のときに、やはりこれでは生きてはいけないと感じた経験が元になっています。それもやはり物理的な死と直結しているからこそ、身体の死を心の死と同じものとすることによって、心が傷つくと思ってしまうのです。

心は傷つくことはないということをしっかり認識することができたとしたら、私たちの人生はどんなふうになるでしょうか?それは少しは楽になるかも知れないなどというレベルではなく、きっと激変してしまうはずです。

なぜなら、私たちは身体が傷つけられるのを怖れている以上に、心も傷つけられるのを怖れています。そのためにできるだけの防衛をしようと毎日エネルギーを使い続けているのです。

ですからその一方である、心が傷つくことはない、ということになったら、単純に考えても日々の防衛が半分で済むことになってしまいます。原始時代や戦国時代であれば、身体の防衛が中心となる毎日になるかもしれませんが、この現代では身体を防衛しなければならないことはそれほど多くはありません。

ということは、心を防衛せずにいられるようになるということは、ほとんど防衛せずに生きていけるようになるということを意味します。これはエゴを使わずに生きることに近づくことを意味します。

その結果はこのブログを読んでおられるみなさんでしたら、すぐに察しがつきますね。つまり、エゴの防衛を使わないということは無防備になるということ、それは愛で生きるということを意味します。死のない世界は愛の世界となるのです。

私自身もまだまだ心が痛むという経験をしますので、心と身体を混同してしまっている部分が残っているということです。でもいつの日か、自分自身の本質は身体ではないということが本当に分かるときがきて、愛の心だけで生きられるようになりたいなと思っています。

原体験 その2

昨日の続きですが、その最初の体験をした後、自分のことは自分で守らねばならないという意識が発生します。それまでは、自分と親とは精神的には一つものであったのですが、この時を境に分離が起きてきます。そして、このときに発生した、自分を守らねばという意識がエゴというわけです。

エゴは惨めな情けない弱々しい自分というものを隠そうとします。それは、自分からも他人からも隠さねばならないのです。そうしておいて、自分は強いんだ、自分は大丈夫なんだという姿を外部に対して見せようとします。

その発達段階で出来上がるのがエゴの防衛システムです。エゴは惨めな自分を隠しつつも、その惨めな自分をそそのかして、昨日説明したような投影をすることによって、本人の人生で惨め体験を繰り返させてしまうのです。

そのすべてがエゴの防衛システムのなせる業なのです。エゴはそれを正当化するために、本当は両親に愛されていたんだということとか、防衛するのに不都合なことをすべて隠そうとします。

つまり、愛されている自分というものを知っているのに、それを否認することで抗議活動を続けられるようにと仕向けるのです。エゴは愛を否定します。なぜなら、愛されていることを認めてしまうと、防衛することができなくなってエゴは衰退してしまうからです。

セラピーでは、通常、原体験もしくはその後に発生した似たような惨め体験を思い出して、その時に溜め込んでしまった感情を味わって開放することで、惨めな投影を止めていくように仕向けます。

ただ、それだけではエゴの作戦に勝てないので、エゴから切り離された愛の部分にしっかりと目を向けることをやっていく必要があります。エゴが邪魔をするのでなかなか認めたくないのですが、実は親の愛をしっかり受け取っていたということを思い出していただくのです。

そのことを充分に認めたうえで、もう抗議活動はできなくなるけど、その方が幸せになることができるということに目を向けるのです。そうすることで、無意味に繰り返されていた投影も、そしてエゴの防衛も力を失っていき、結局愛に気づいた平安な心を取り戻すことができるようになるのです。

原体験

以前コラムの中で書いたことがあったと思うのですが、人間を人間たらしめている脳である前頭前野という部分は、他の脳の部分と違ってわずか3年で9割がた発達を終えてしまうということです。

つまり、人間は3歳にしてほとんど人間としての脳を獲得してしまうのです。ただ、経験が少ないために大人のようには生きることはできませんが、感性や人の気持ちを汲み取るなどの情緒的な部分はほとんど出来上がってしまうということですね。

そしてその頃にとても惨めな辛い体験をするのです。それまでにも経験してる可能性はあるのですが、脳の発達がまだ未成熟であったため、その体験を本当に惨めなものとして受け止めることができなかっただけです。

3歳くらいのこの惨めな初めての体験は、心の奥にしっかりと残ります。ただ、その時には自覚としてはまだ反応ができずに、ぼんやりとした経験をするに過ぎないのですが、心の奥では辛い体験として刻印されます。

その後、この惨め体験に対して、抗議したいという自分が出てきます。これは意識できるようなレベルではないために、本人としては自覚することはできないでしょう。それでも、その抗議したい意識は非常に強力なので、その抗議活動をその後の人生で何度も何度も繰り返していくことになるのです。

方法は簡単です。例の投影を使うのです。自分が体験してしまった、あの惨めな思い、激しい怒り、そういったものをまた自分が体験できるように仕向けるのです。投影によって、まさにそういう状況を作り出してしまうということですね。

同じように惨めで腹立たしい状況になることによって、またいつでも抗議活動ができるように仕向けるのです。自分が幸せな人生になってしまったら、もう二度と抗議できないわけですから、この抗議活動が可能な自分という状態をずっと持ち続けたいわけです。

本人にはそういった自覚は全くないですから、ただ非常にいやな体験をなぜか繰り返してしまうという人生になってしまうのです。勿論ネタは様々です。原体験の相手は通常親ですが、その後の人生では友人や先輩、職場の上司、恋人など、あらゆる相手を投影として利用します。

なぜだかは分からないが、繰り返されてしまう腹立たしい、惨めな体験を打ち止めにしたければ、その最初の体験(原体験)の時の自分を思い出して、その時の本当の気持ちを受け止めてあげることが大切です。

つづく

勉強会

今日は『奇跡のコース』の3回目の勉強会がありました。勉強会では、この本の内容を全員で順番に読み上げながら、みんなで一緒に内容を理解して行くという方法をとりました。まだ、3回目ということもあり、始まったばかりなので、全部で三十一章まであるうちの第一章だけが、少し残してようやく終わったという段階です。

この本の内容の一部は、このブログで私が書いているようなものなのですが、実際にはもっともっと深い内容になっています。特徴は、私のブログのように、こうかもしれない、などという曖昧な表現は一切なく、真実は揺るがないと言った感じではっきり全てを言い切っています。それがまた、気持ちいいのですが。

何度読み直してみても、何だかよく理解できないという部分も確かにありますが、逆にしばらくして再度読んでみると、結構スラスラ分かってみたりということもあります。そういうときには、自分がそれだけ進んだんだなと思えて、とても嬉しい気がします。

実際、まだ第一章のあたりですと、毎日の生活にその教えをどう活かせばいいのかといった、直接的な教えのところまで行かないのですが、それでも今日は参加者のみなさんから積極的なご質問が多数出て、結局、第一章が最後まで終わりませんでした。

それでも、一人で読んでいてもなかなか進まないコースの勉強を、みんなで進めていくことでより効果的に理解することができたのではないかと思っています。

このペースで行くと、最終章まで終わるのに2年半かかってしまいます。それでも、慌てずに淡々と進めていけたらと思ってます。この、『奇跡のコース』という本は、前代未聞の書物だと言っていいと思います。そして、私たちが、どうやったら毎日の人生が満ち足りたものにしていくことができるのかということについて、詳細に説明されているまれに見る本だということが言えると思います。

もし、ご興味がおありでしたら、どなたでも参加いただけますので、みなさん、ふるってご参加下さいね。

赦しについて その3

赦すとは、無防備になることであり、赦さないとは傷を負ったと思っている心を防衛し続けたいということだという説明を昨日のブログでしました。

今まで生きてきた中で、これは絶対に赦せないとか、もうあれはどうでもいいや、と思えることなど、いろいろあると思います。自分の場合には、幸運にもあの時のあの人の言動は赦せないというものが記憶の限りではないのです。

それじゃあ、完全に赦しが終わってしまっているのかと言えばそうでもありません。例えば、ほんの些細なことでイラっときたり、相手に何か言ってやりたい気持ちになることは時々あります。

こういうのも、実はその瞬間相手を赦してはいないのではないかと思っています。ただ、多くの場合、赦す赦さないと言った場合にそのターゲットとなる事象は過去に起きたことですね。

過去のことを思い出して、ふざけるな!と攻撃的な気持ちがよみがえってきたりするわけです。どうして、あの時にもっとこんなふうに言い返すことができなかったのか、自分を悔やんだりするのですね。

つまり、赦せないよ、として生きている人は、過去に生きているということを理解する必要があるのです。過去に捉われている、過去をひっぱってる、と言ってもいいかもしれません。これが、防衛したがっているエゴの作戦なのです。

現在自分を守らねばならないような事態がさほどないとき、エゴは守るためのネタを過去に探しにいくのです。いつまでも、いやなことが頭から離れないという経験をしたことはないですか?これはまさにこのことが起きているのです。

あなたは赦せない、赦したくないと思っている過去の事象がどのくらいありますか?沢山あればあるほど、エゴの策略に乗せられてしまってるということが言えますね。それは過去の内容がどんなことであっても例外ではありません。

過去から逃げてるうちは、過去に生きているのと全く同じことです。過去を意識してしまってるわけですから。一旦過去を振り返り、逃げずに真正面から見つめることができたら、後はもう切り捨てましょう。過去などないとして。

つまり、赦すということは過去を手放すということです。エゴの自分は過去が大好きですから、それに対抗するために、まず赦したい気持ちを満々にしましょう。これは決意するだけで可能です。そして、赦したい気持ちになったら、あとはそれを自分の心の中の愛の部分に差し出せばいいのです。

赦しについて その2

昨日のブログでは、結局赦すことによって、自分の心が開放されて穏やかな状態になることができるということを説明しました。赦すことは幸せへのパスポートだということでした。

ただし、赦しと一口に言っても注意しないといけないことがあるので、それについて説明してみたいと思います。

一般的に赦しと言った場合、それはエゴの赦しのことを意味しているのです。それはどういうことかというと、相手には確かに罪があるということを認めておいて、従って罰を受けるに値するのだけれど、その上で自分の寛大な心で赦すというものです。

実はこれは防衛の一種なのです。寛大な心で罪を赦すことで自分の価値を高めようとするエゴの作戦なのです。こういう防衛は自覚としては、本当に赦したということになってしまうため、非常に面倒なことになってしまいます。

真の赦しであれば、もう何のわだかまりも残っていないのですが、エゴの赦しの場合には、防衛することが目的であるため、何かの理由でそのことが防衛の意味をなさなくなった場合に、やっぱり赦すわけにはいかないというのが浮上するのです。

もっとひどいエゴの赦しもあります。例えば、取引の代償として赦すということをする場合です。損害賠償を請求して、それを取得したことによって赦すなどですね。こういった赦しは絶対に幸せへのパスポートにはなりません。やはりエゴの防衛であるだけです。

実はエゴというのは、怖れや怒りなどの感情をベースにして自分を守ろうとする意識のかたまりですので、そこには愛がないのです。ですから、実質的にはエゴは真に赦すということができないのです。騙されてはいけません。

このことを充分に理解しておく必要があります。エゴは自分をヒーローのままでいさせるために、つまり防衛をし続けることで自分を存続させようとする、まさにそのためだけに相手に罪深いと思えるようなことを投影としてさせるのです。

ですから、エゴは決して赦すことはしません。本当に赦してしまったら、もう防衛する必要がなくなってしまうからです。赦さないという状態を維持することによって、傷つけられたとする自分を守ることができるのですから。

本当の赦しは、そこに愛が必ず関わっています。相手の言動には元々罪などないとして赦すということです。罪があるように思えるようなことでも、それは結局自分の心の奥にある抑圧されたものを投影したものだということです。

そのことを思い出すことによって、エゴが撤退して愛が残ることになり、自然と赦しが行われることになるのです。

赦しについて

昨日の続きです。イエス様の言葉である、「弟を赦してあげなさい」と言った場合のこの赦すとは、本当はどんな意味があるのでしょうか?そこのところを少し考えていきたいと思います。

怒りが消えて、お父さんのように弟が戻ってきたことをただただ喜ぶ状態になったら、それはもう赦していると言えると思います。しかし、そうはできない心の反応が兄の内面に出現したということです。その理由も昨日説明しました。

もしも兄が弟を赦すとすると、兄の心の中で抑圧されていた、我慢していい息子を演じてきた自分というものを守ることができなくなってしまうのです。つまり、赦さないとは、自分の中にある鬱憤を守るための心の作戦だったわけです。

結局、赦さないというのは一つの防衛の形であるわけです。なぜなら、赦さないという心には必ず相手への怒りがあり、怒りは典型的な自己防衛の一つの形だからです。抑圧による自分の心の傷、痛みを守るために、相手を罪深いとして罰しようととするのです。

これが赦さないという心の状態であると言えると思います。ここで、断じて赦しがたいという状況をちょっとイメージしてみましょう。例えば、暴漢に家族が襲われて命を落としたとしたら、どうでしょうか?少なくともその犯人に死んでお詫びをしてもらわないと赦す気にはならないかも知れません。

その場合、犯人にどんなに反省した態度を示してもらっても、そう簡単に気が収まるはずもありませんね。それは、自分の心の傷が深いうちはそれを守らねばならないと感じるためです。だから赦せないし、赦す気にもならないのです。

結局相手の態度がどうであれ、自分の傷を負った内面を守らねばならないと感じてる限りにおいては、赦すことはできないのです。もし、赦すとしたら、自分の傷が癒えるか、自分のことを被害者ではないと理解することができた時です。

傷が癒えるのを待っていたらいつになるか分かりません。その時までずっと相手を憎んで絶対赦すもんかという人生を送らねばならないのです。これは客観的にみて地獄の生活かもしれません。

しかし、自分を被害者ではないと理解することで、大切な人を失った痛手は残っていたとしても、犯人を赦すことができるのです。自分が被害者でなければ、相手は加害者ではなくなるからですね。

どうやったら自分は被害者ではないと思えるか?それは何度もこのブログで説明してきた投影のメカニズムを思い出すのです。理由はともかくとして、潜在意識の中の何かを投影した結果として、上記したような事件が起こったと認めることです。

こうすることで、傷ついたことを犯人のせいにすることができなくなり、結局犯人には罪がないと認めることになって、相手を赦す心の状態になることができるのです。それが、心の平安を得ることに繋がるのです。

放蕩息子の例で言えば、兄が自分の抑圧した心を投影した結果として、弟の自由奔放さを発生させたのだと兄本人が理解することができれば、弟には罪はないと分かるのです。かえって、自分の本心を見つけさせてくれたとして弟に感謝したくなるかもしれません。

そして、父親と同じように勝手ばかりしてきた弟を赦すことができたら、兄の心はとても晴れやかなものに変わることでしょうね。だから、赦しは幸せへのパスポートだと言ってもいいのです。

放蕩(ほうとう)息子

以前、「自分を映す魔法の鏡」というコラムを書いたことがありました。この内容は簡単に言ってしまえば、ブログでも書いた投影について少し回りくどい表現を使って説明したものでした。そのコラムの中で、聖書に出てくる「放蕩(ほうとう)息子」という物語を引用したのですが、今日はそのことについて更にその先の話をしようと思います。

そのコラムを読んで下さった聖書に詳しいクライアントさんに、その話の中身が若干違うよと言って笑われたことがあるのですが、それはともかくとして、大切なのはそのエピソードから何を学ぶかということですね。

その物語は父と兄と弟の3人家族のお話なのですが、兄は父親の仕事をよく手伝って悪い遊びもせずに、一生懸命親孝行する評判の息子なのですが、一方弟の方はあまり親の手伝いをするでもなく、ある日とうとう勝手に家を飛び出して出て行ってしまいました。

何年かの月日が流れた後、ある日弟が家に帰ってきたときに、父親は自分の息子が無事帰ってきてくれたことを喜んで、弟を迎え入れようとしたのですが、兄は身勝手に家を飛び出していった弟に腹を立てていて、家に入れようとさえしませんでした。

それを知ったイエス様が兄に向かって、「お父さんのように弟さんを赦してあげなさい」と言って聞かせたという教えなのです。

兄にとっての弟の存在というのは、兄の心の中に抑圧されている「本当は父の手伝いばかりやるのではなくて、自由に遊びたいんだ」という気持ちの投影だったわけです。
その本心を抑えていい息子を演じているために、自由奔放な弟を赦すことができなかったわけです。

私のセッションにその兄がクライアントさんとしていらしたとしたら、上で書いたような本心があることに気づいてもらうように仕向けるでしょうね。赦せなかったという反応を否定することはしません。人の反応には全部理由があるからです。

我慢している本音があることが分かったら、その抑圧を解いてあげて、父親にとってのいい息子という立場をなるべく手放して、自分を楽しませてあげることを覚えることですと伝えるでしょうね。

多分、その時のセッションはそういった内容にいくつか肉付けをして終わると思います。そして、セッションによってその兄はかなり気持ちが楽にはなるはずです。自分はそんなにいい息子でばかりいなくたっていいんだということが分かるからです。そして、好きな事を父に気兼ねせずにできるようになることで、毎日が楽しい方向へと向かうでしょう。

しかし、セッションで学んだことを活用して、やりたい事を楽しむことができるようになったとしても、兄の人生がそれで本当に幸せになるかというとそうでもありません。心の中に抑圧していることは他にも沢山あるはずだからです。

勿論時間と労力をかけて丹念に少しずつ、沢山ある抑圧を見つけては解放していく作業を続けていって徐々に幸せに近づいていくことは可能です。ただ、この方法はエンドレスになる可能性があります。心の中にある闇の部分は感情も含めてきりがないからです。

イエス様が「弟を赦してあげなさい」と言ったのは、このことを知ってのことなのかどうか、分かりませんが、心の抑圧に目を向けるだけではなく、この赦していくということに着目することで癒しのスピードアップが期待できるとしたらやらない手はないですよね。

つづく

数の役目 その2

昨日は、数えられないものにこそ、真の価値があるというお話をしました。今日はその数えられないものについて、もう少し深く見てみることにします。

数を使って数えることができないということは、数の概念を超越していると考えることもできますね。例えば、全体とか全て、と言う概念はその一つであるといえます。全ての自然数といった場合、1,2,3…と無限に続く自然数の集合を指すわけです。

無限個の自然数を数えることは不可能ですから、これは確実に数の概念を超越していると言えます。これに対して、間違いやすいものとして、唯一とか唯一無二と言う表現があります。この場合には、二つ目がないよと強調しているだけで、一つと数えることができますので、これは数を超越してるとは言えません。

そういう意味からすると、世の中にたった一つしかないから価値があるという言い方は真実ではないということになりますね。どんなに希少であろうとも、数えられるのですから、真に価値があるということにはなりません。

しかし、現実の私たちは、この希少価値というものに翻弄されていることに気づいています。例えば一番というものにも価値があると感じていますし、あなたはこの世の中にたった一人しかいないのだから、価値があるのですと言ってみたりしています。

こういったことも数のトリックに騙されているということになりますね。逆に数が多いことに価値を置く場合もあります。ある物事を選択する際に、多数決というのをよく使いますね。これなどはその典型的な例ではないでしょうか?これも数えられるわけですから、真の価値はありません。

話を全体とか全てに戻します。この世のすべて、一切合財と言った場合には、ありとあらゆるものが含まれます。含まれないものは一つもないというのが、全体という意味です。この概念を私たちが知っている言葉で置き換えるとすると、それは神ということになるのではないかと思います。

神という言葉の響きは、なかなか微妙なものがあります。私自身、何となく宗教的な色合いを持った言葉のように感じていますので、普段あまり使わない単語かもしれません。それを承知で敢えて使いますが、神は全体なので、数えるというレベルを完全に超越しています。

命とか愛といった想念も数える対象ではありませんので、神と同様に真に価値のあるものだと言えると思います。私たちの意識を向ける対象を、できるだけ数えられるものから、数えられないものに変えていくことができたら、人生が全く変わったものになっていくのではないでしょうか。

そうやって数がその役目を終える時、私たちは本当の幸せというものを手に入れることができるのかもしれません。

数の役目

相当に大昔から、人は数というのを使って生活していたのでしょうね。数があるおかげで、今の文明が発達したわけですから、数というのはとても大切なものと言ってもいいでしょう。

数がなければ、人類は月に行くこともできなかったし、クルマも飛行機もコンピューターも作れませんでした。数という概念を見出したおかげで、人類は他の動物と一線を画す生き物になれたのだと思います。

私たちは数を使って比較する癖が付いてしまっています。大小、高低、早い遅い、重い軽い、寒暖、長短、明暗、濃淡、厚い薄い、深い浅い、太い細い、多い少ない、こういった比較は、数がなければアバウトな表現しかできませんが、数があるおかげで明確に表現できるわけですね。

しかし、数は人類を幸せにすることはできたでしょうか?明確に比較することで私たちはかえって苦悩することを覚えてしまいました。あの人より、私の方がウエストが1cm太いとか、友達は90点だったのに、私は85点だったとか。本質的にはどうでもいいような差異が、数で表現されるとはっきりするために、そこに大きな意味を見出してしまうのです。

以前、こういう質問をされたことがあります。

「線路を電車が暴走していて止めることができない。もう少し先に行くと線路が二股に分かれていて、一方の線路上に一人、もう一方の線路上に五人、人が縛り付けられている。今のポイントの状態では、放っておくと五人の方に電車が行ってしまう。あなただけがポイントを切り替えることができるとしたら、どうしますか?」

つまり、五人が死ぬことになるのか、一人が死ぬことになるのか、自分の判断で決めることができるという状態なわけです。電車が二股を通過する前にポイントを切り替えれば、五人の命を救えるが、一人の命を犠牲にすることになるわけです。

この質問をされて、何の躊躇もなく答えを出せる人は少ないのではないでしょうか?きっとどうしていいか困ってしまうわけです。全くいじわるな質問だと思います。しかし、もし、百人と一人だったらどうでしょうか?千人と一人だったら?

そうすると、きっと一人を犠牲にするほうを選びやすくなると思います。しかし、それはなぜなんでしょうか?ここに数のトリックがあるのです。本来、私たちは人一人の命は地球より重いと知っています。真に価値のあるものは、それを足し算していくことなどできないと分かっているのです。

でも普段私たちは人数を数えることができるので、その論理でもって命の価値も足し算ができると勘違いしてしまうのです。だから、一人の命よりも、5人、百人、千人の命のほうが大切だと錯覚を起こしてしまうのです。

いやな話ですが、実際に一人を殺した殺人者よりも、五人を殺した殺人者の方が罪が重いのですから、国をあげて命の足し算ができると勘違いしてしまっているとも言えるのです。

数では表現できないものがあるのだということを忘れないことです。そして、本当に価値のあるものほど、数では表せないということを覚えておく必要があると思います。だから、そういったものは比較することすら意味を成さないのですね。

真に価値のあるもの、本当に大切なもの、そういったものは数を使って数えたり、足したり引いたりすることは不可能だということです。だとすると、普段我々が数を使って表現できるものは、すべて本質的には価値のない無意味なものだと気づく必要があると思いませんか?