ノリの悪いあなたに朗報

何かに夢中になることを、我を忘れて没頭するというように表現することがあります。それは、自分がここにいるということを忘れてしまうほど、何かに熱中している状態なのです。

たとえば、人からの評価を気にせずに、思い切り大好きなカラオケで熱唱する時、そこにはあなたはいなくなり、歌だけがそこにあるという状態になっているのです。

失敗することを忘れて、狂ったように踊るなら、その時に踊っているあなたは不在になるのです。こうした我を忘れる体験をしたことがある人も多いのではないでしょうか?

その瞬間、自我は消え失せているのですから、その心地よさは格別のものがあるでしょう。けれども、その一方でそうした我を忘れる体験をしたことがないという人もいるはずです。

周りのみんながノリノリになっていても、どうしても心のどこかで冷めている自分がいて、一緒になってワイワイ騒いだりはしゃいだりすることが苦手な人。

なんで自分は、みんなのように思い切り人目を気にせずに、その瞬間を楽しむことができないのだろうかと悩んだりしてしまうこともあるかもしれません。

私自身もどちらかというと、このタイプではないかと思うのですが、もしもあなたがこのタイプであったとしても、心配したり気に病む必要などありません。

我を忘れることが決してできないというなら、その代わりに徹底的に自分を見るということを実践すればいいのです。元々、このタイプは自分を監視している心の部分が強いのですから、見ることには慣れているはずなのです。

できるだけ自分を見る、自分の意識に注意を向け続けることを実践していくうちに、いずれは観察者としての自分が消えて、観照者としての自分になっていくのです。

そのときには、我を忘れる状態と同じように、自我は消え失せてしまっているのですから。どちらの方法であろうと、無である自分の本質に気づくことになるのです。

空中を飛び交うエネルギー

今では誰もがケータイ電話を持つ時代になりましたね。私たちは、ケータイで遠方の人と会話ができるのが当り前になっていますが、それは目には見えない電波が空気中にあって、それを使って情報をやり取りしていると知っています。

勿論、テレビやラジオについても同じことが言えます。放送局から送信された電波は、私たちの身体を貫通して遠距離の受像機まで届くわけです。

そして実は、空気中を飛び交っている目には見えないものとして、そうした電波のような人工的なもの以外にも、もっと別なものもあるという今日のお話しです。

それは例えば、私たち一人ひとりの生体エネルギーのようなものだってあるのです。植物や動物から発せられる生体エネルギーが、空中を飛び交っているのです。

人間である私たちの感情や思考のエネルギーについても、同じことが言えます。そして、敏感体質の人はそれを受信する感度が高いということです。

あくびが伝搬するというのは、誰でも経験的に知っていますし、笑顔でいるのにその人のことが何となく怖いと感じてしまう時があれば、その人の心の奥から発せられる怒りのエネルギーを受信してしまっているからです。

幼い時には、誰でも抵抗力がないので、一緒に暮らしている両親などの感情や思考のエネルギーを思い切り受け取ってしまうのです。

家の中を飛び交うそうしたエネルギーが否定的なものであれば、子供は家にいても安心して過ごすことは難しくなってしまうはずです。

親から直接教えられていないにも関わらず、どういうわけか親の考え方が心の中に入ってしまっていることに気づいたことはありませんか?それも、空中を飛び交う親の思考を受信して、それを定着させてしまったからなのです。

あなたの心の中に、どのような思考や感情のエネルギーが溜まっているかということは、地球にとって大問題なのです。あなたが、心安らかでいられるかどうかは、あなたが気づかずに発信するエネルギーに大きく影響するからです。

したがって、あなたの癒しはあなたのためだけにあるのではなく、この世界にどんなエネルギーを振りまくかということに直結しているのだと気づくことです。

もしもあなたが満たされたなら、その分だけ愛のエネルギーが確実に全世界へ向けて発信されることになるのですから、これ以上の人助けはありませんね。

マインドはトリックアート

上の図形は、錯視を利用したいわゆるトリックアートです。きっとみなさんも、どこかで見かけたことがあるはずですね。私たちは、自動的にこの図の中に二つの正三角形があるかのように錯覚させられるのです。

なぜこの図をお見せしたかというと、これと似通ったことを心の中でやっていることを説明するためです。私たちの心(マインド)の中には、それこそ無数の思考があります。

一つひとつの思考は、それぞれが上の図の中にある小さな図形と同様、独立したものなのです。思考と思考の間には、思考のない空間が存在します。

けれども、私たちのマインドはそういった一つひとつの思考の切れ端をこれまた思考によって繋ぎあわせて、そこにないものがあたかも実在するように作り込むのです。上の図の三角形のように。

数限りない思考群と、その思考が使う無数の記憶の束を利用して、一つのまとまりのある何者かを作り上げるのですが、その中心をなすものこそが、自我(エゴ)なのです。それが、あなたという自己イメージなのです。

本当はそんな中心などは存在しないのですが、マインドはそこに自我が実在するかのように自ら仕組むのです。あなたは、それを自分自身だと思い込んでいるというわけです。

上の図の中のどれか一つの図形をじっと見るか、あるいは図形のない空間をじっと見ていると、あると思っていた正三角形など存在していないということがはっきりする瞬間がやってきます。

実はそれと同じことをするのが瞑想なのです。思考をじっくりと見つめることで、思考と思考の間にある無思考の存在に気づくことができるはずです。

それを続けているうちに、思考同士の間の関連付けが崩壊して、その中心に座していたはずの自我も次第にそれが幻だったということに気づくのです。

そのことに気づくあなたとは、一体誰でしょうか?それこそが観照者としてのあなたであり、それが究極の一人称、つまり対象を持たない「無」としてのあなたの本質なのです。

どうですか?瞑想をしたくなったでしょ?

自分自身になる

敬愛する osho の次のような言葉があります。

『何をおいても大事なのは、

自分自身になるということだ。

それが可能になるのは、

まずセラピーによって社会から押し付けられたゴミをすべて掃除すること、

そして瞑想によって内側におもむき、

もはや経典に手引きを求めなくなることが必要だ。

経典はあなたの内側にある。』

社会というのは、自我(エゴ)のことです。生まれてすぐに、私たちは例外なくエゴの洗礼を受け、気づかぬうちに「頑張って戦に勝って、自分を守れ!」という生き方が正しいのだと洗脳されてしまうのです。

その生き方は辛く苦しいために、心の中に沢山のゴミを溜め込んでしまうのです。そのゴミが大量にあるうちは、うまく瞑想をすることができないのです。

セラピーによって、ある程度の心のゴミを掃除してから、内へ内へと瞑想の旅に出なさいと教えてくれているのですね。社会から教わったあらゆる事柄を一度脇へ置いて、黙々と内側へ入るということです。

あなたは、何かになる必要などまったくないのです。あなたの最奥にこそ、本当のあなたの姿が待っていてくれるのですから。

醜いアヒルの子

子供の頃から、両親や周りの大人たちに言われることに、何となく違和感を感じていて、すんなりとそれを納得することができないでいると、子供は自分の方がおかしいのではないかと思うかもしれません。

なぜなら、その子供にとっては、それら大人たちの言葉が最初に与えられた言葉だからです。自分には、大人たちに負けないだけのどんな経験も持ってはいないからです。

つまり、自分の感性だけが基準となるために、その基準を疑ってしまうのは当然のことなのです。けれども、私は沢山のクライアントさんの幼いころを一緒に体験させていただいて分かったことがあるのです。

それは、子供はもって生まれた感性によって、体験をせずとも物事の道理というか、そういうものに気づいているのです。ピュアな心は、ある意味大人たちよりも物事を正直に見る眼を持っているのです。

子供は結局、自分の方が間違っている、自分がダメなのだと思い込んでしまうのです。そうなると、自分の感覚、感性に自信がなくなってしまうので、他人と違う自分を発見するたびに、自分を否定するようになるのです。

友達同士が何かを楽しそうに会話していても、そこに入っていけない自分はダメなんだ、その会話の内容を楽しむことができずにいる自分はダメなんだ。

こうして、自己否定は益々強くなり、そのために一層人を恐れるようにもなっていくのです。そうなると、今度は誰もが普通にできていることを、できない自分はダメなんだと…。こうして、悪循環になっていくのです。

鋭い感性を持って生まれた子供は、このような生き辛さを抱えてしまうことがよくあるのです。老子は80歳で生まれたという話しもあるように、まだ幼いにもかかわらず、エゴが作ったこの世界やこの社会に違和感を感じてしまうのです。

鋭敏な感覚を持って生まれることは、私に言わせれば本当に素晴らしいことです。そういうクライアントさんが苦しんできた人生を見ると、またひとり「醜いアヒルの子」を見つけたと思うのです。

人と自分が違うということを否定しないことです。そして、あなたが白鳥だったとしても、白鳥がアヒルよりも優れているということではなく、それはただ違いがあるということなのです。

アヒルにはアヒルの人生があり、白鳥には白鳥に適した人生がやってきます。人生の初めのころは、白鳥は孤独かもしれません。でも、それも白鳥として羽ばたくための準備なのです。

「醜いアヒルの子」を見つけたときの悦びには、何とも言えないものがありますね。

瞑想でいやなエネルギーを炙り出す

昨日のことです。夜いつものように瞑想していたのですが、その時はちょっと違った方法をやってみようと思って、ただ見守るというよりも、より深く追求してみたのです。

つまり、心を見ている自分は何?さらに、それを見ている自分は?という具合に、実際にはそれほど深くまで行ってない感じはしていたのですが、ただそれを続けていたのです。

そうしたら、次第に自分の顔が熱くなって、腫れてくるような感じになったのです。充血して膨れるようなそんな感じですが、実際にそうなったのかどうかは分かりません。

面白いなと思ってそのままでいたところ、何やら怪しげなイメージがやってきました。それは、言葉にすると、いわゆる悪魔みたいな奴らの姿がいくつか出てきたのです。

ああ、自分の心の中にはまだまだこんな怪しげなエネルギーが沢山残っているんだなと思ったのです。実は、これに似た体験はずっと以前に毎晩のようにしていたことがありました。

それは、会社員を辞めて、仕事をせずにただ毎日何もせずに、ヒーリングを受けたりヒプノのスクールに行ったりしていた頃のことです。

夜寝るときに、毎晩のように決まって瞼の裏にそうした得体の知れない如何にも気持ち悪い奴らの姿が見えていたのです。別に怖くもなかったのでそのままにしていたのですが、それは数か月のうちに、自然と消えてしまいました。

きっと、20数年間の会社員時代の重苦しいエネルギーを解放している時だったのでしょうね。今でこそ分かるのですが、その時は不思議で仕方ありませんでした。

昨日の現象も、きっとそれと同じことが起きたのだろうと思うのです。人の心の中には、ガラクタが沢山詰まっているのです。光を当てればたちどころに消えてしまうのに、闇の中でそれは残存しているのですね。

あなたがこれまでに我慢をしてきた分だけ、辛いのに苦しいのにそれをひたすら耐えて、頑張ってしのいできた分だけ、そうしたおどろおどろしいエネルギーが蓄積されていくのです。

それが、自己犠牲というものですね。そのエネルギーは、それに似たエネルギーを持った現実を自分の人生へと引っ張り込む力を持っていますので、誰もが似たような都合の悪い体験をパターンとして繰り返すのです。

瞑想は、そういったものを炙り出して、消滅させてくれる力があるのですね。

自分が嫌い!を認める

自分のことがどうにも嫌いで仕方がないと感じてる人がいます。場合によっては、自分を憎んでいることだってあるかもしれません。どうしても、自分を肯定できずに悩んでいる人も沢山います。

でも実は、自分のことを否定的に捉えていない人の心の中にも、同じように自分を嫌っている部分が隠されているのです。要するに、表面に露出しているか、隠されているかの違いなのです。

で、自分のことを許すことができない人にとって、朗報なことがあるのですが、それは隠されていない分だけ、一生懸命捜さずに済むということです。

自分のことを好きと思っているのに、深いところに自己嫌悪が隠されている場合には、時間も労力もかけて、それを深いところまで見に行かなければならないのです。

自分のことが嫌いという人は、そんな無駄な労力を必要としないのですから、癒しにおいてはとても有利なのです。ただし、方法を間違えると面倒なことに巻き込まれてしまいます。

自分のことを認められずに、悩んだ末にどうにかして、自分のことを好きになる方法はないかと探す人がいます。どうしてなのか、そういう内容の本でも読んだからかもしれません。

けれども、自分のことを努力して好きになろうと思ったって、土台無理な話しです。あなたは、職場にいる大嫌いな上司を好きになろうと努力して、好きになれると本気で思いますか?

やり方を間違えないことです。もしもあなたが、自分のことを嫌っているのなら、その嫌いという気持ちをまず第一に受け止めてあげることです。

嫌いなものは、嫌いなのだからとことん嫌わせてあげることです。好きにならねばならないなどと、変な考えで無駄なエネルギーを費やす必要はありません。

つまり、嫌いだということをしっかり認めてあげるのです。嫌いでいいと自覚することです。変な自分への慈悲など必要ありません。大嫌い!でいいのです。

大嫌い!をとことん言わせてあげると、今度はようやくその下に隠れていた悲しみや惨めさが顔を出してきます。そうしたら、今度はそれをそのまま受け止めてあげるのです。

そして思い切り泣いてあげることです。そんなことをやってる間に、あなたはきっと何かがふと変化していることに気づくことになるはずです。

気分をコントロールする

何かとても嬉しいことがあったら、心はウキウキしてきます。目指していた目的が叶ったときには、晴々とした胸のすく様な気持ちになるものですね。

逆も然りです。ということは、私たちは自分の身にやってくる現実によって、悦びに溢れてみたり虚しく落ち込んだりしてしまうということです。

それなら、私たちは起きることの奴隷ではないでしょうか?つまり、永久に思い通りの気持ちで生きていくことなどできるはずもありません。

いやいや、だからこそできる限りの努力と頑張りで、願望を達成して悦びを勝ち取るようにするのだと言われるかもしれませんが、それは土台無理なことです。

というのも、人生は決して自分の思い通りに結果が出るとは限らないからです。私たちは、もうそろそろ自分の力ではどうにも人生をコントロール下に置くことなどできないと気づく必要があるのです。

それなら、諦めるのか?そうではありません。起きてくる物事をコントロールしようとする代わりに、自分の内側である自分の気持ちをコントロールすればいいのです。

つまり、もしもあなたが、今日一日を気持ちのいい日にしたいと願うのなら、あなたの気持ちを明るく楽しい気分にしてあげればいいのです。

ところが、不思議なことに、こうしたことはできるはずがないと一般に信じられているのです。何も喜ぶネタもないのに、どうやって楽しい気分になれるのか?と思っているのです。

でも、実践する前から理屈をこね回して否定ばかりするのではなくて、一度試してみる価値はありそうです。できれば、最初はなるべく、嬉しくもなく辛くもないフラットな状態で試すのがいいでしょうね。

私自身の体験によると、まず実践しようとする前に、ある抵抗が心の中にあることに気づきました。それは、こんなことを言っています。「そんなことはバカバカしいし、何もないのにいい気分になるなんて、損だ!」

で、何が損なのかと問い合わせたところ、「自分は辛い目に遭ってきたのだから、それを表現しなければならない、訴えなければならないのに、いい気分になってしまったら、誰からも分かってもらえなくなってしまう」と。

結局、いい気持ちで過ごしたいという思いがある反面、奥の方では不満を訴えている自分がいて、彼の立場では気分のいい自分など見せてはダメだということになるのです。

その主張が強いと、本当は嬉しいことがあったとしても、すぐにしかめっ面になってしまったり、深刻さをすぐに引き戻してしまうということも起きるのですね。

そして、そのことをよく理解してあげて、心から無条件で受け止めてあげると、抵抗は小さくなって、容易に自分の気持ちを明るくすることはできると分かりました。

心に余裕のあるときにでも、是非試してみて下さい。

溶けて境界がなくなる

気持ちのいい湯船にただのんびりと浸かって、ゆったりした夢心地を味わっていると、だれでも身体が溶けてしまいそうと感じるものです。

身体がお湯の中でふわっと広がって、身体の境界が曖昧になるというのか…。あるいは、何とも言えない眠気の中で、起きてるのか寝てるのかの境界をさまよっているような時にも、トロトロした感じになりますね。

あれも、身体がトロけるような感覚を味わっているのです。大好きな人に抱きしめられて、悦びや嬉しさの中で喘いでいるときには、身体だけでなく心さえも溶けていく感じがするものです。

つまり、私たちはあまりに気持ちがいい時や、悦びや嬉しさに溢れているときには、身も心も溶けて境界がなくなってしまうような感覚になるものだということです。

それは勿論一過性のものですが、もしもそれが永続的なものになったとしたら逆に困ってしまいますね。なぜなら、個としての自分の存在が曖昧になってしまうからです。

だからこそ、自我(エゴ)は自分の存続のために、私たちが苦しむ方向へと強制するのです。人生が苦しいものであると感じるのは、それが根本原因なのです。

苦悩すればするほど、恐怖から逃げようとすればするほど、自分の存在が疑いようのない明確なものとなることを、自我はわきまえているのです。

この社会はまさに自我が作り出したものだからこそ、あまりに自由気ままな人や本当に幸福そうな人は自我に敵対視され、場合によってはこの社会から抹殺されるかもしれないのです。

逆に、不幸を背負って辛く苦しい不遇の人生を生きてるような人には、世間からは同情が集まって、やさしく受け入れてもらえる可能性が高くなるのです。

こうした社会や世界の異常さに気づくことです。私たちは、根こそぎ自我の罠に毒されて、みんなで不幸合戦をして、ほんの少しの安心を得るために苦しんでいるのです。

自我はあなたのマインドを占領していますが、それは決してあなた自身ではありません。マインド(思考)を静かにさせてあげることです。

そして、あなたのオリジナルである、「自分の好きにさせて!」という声をハートで聞いてあげることです。これまで如何にこの叫び声を無視し続けてきたか、気づいてあげることです。

人生を苦しみで染めないためにも、心の奥の小さくて無邪気な声を聴いてあげることです。その声は、きっと自分への拘りなどに興味がなく、ただ全体へと溶けたがっているはずです。

真実の師

数年前にある本を読んでいて、突然泣き出したことがありました。その時には、自分でもびっくりしたのですが、それはある師と弟子のエピソードについて読んだ時でした。

その師が弟子に向かって、家族のもとへ戻りなさいとたしなめていて、弟子は師の元を決して去りたくないと訴えているシーンでした。

師は、弟子に向かって、「お前が家族のもとへ帰ったとしても、いつも私はお前と共にいる。」と言ったのです。その言葉で、弟子は師のもとを去る決心をするのでした。今でも、ちょっと泣きそうになります。

私はその弟子の方に感情移入したのでしょうね。自分の人生を預けるほどの師がそばにいてくれたら、どんなにすばらしいだろうという思いから、その弟子の方に羨望と嫉妬をしたのです。

その時初めて、自分は師を求めているのだと気づいたのです。自分は、そういうキャラクターではないし、誰のことも尊敬したこともないという自覚があったので、本当に驚きました。

そして、実は今でも心のどこかで命を放り出してもいいと思える師に出会いたいと熱望しているところがあるのですが、残念ながら今回の人生ではそのようなことにはなりそうもありません。

それで最近またふと、思い出したことがあるのですが、頭の理解のレベルでは、師が実在の人物である必要はない、本当の師は自分の奥に潜んでいるのだからとして、割り切っていたのです。

けれども、そのことが単なる理解ではなくて、急に腹の底に落ちた瞬間があったのです。ああそうだ、完璧な師、どこまでも信頼できる本当の師が待っていてくれる。

自分が自分の最奥へと進む冒険の旅を続けていけば、いつか必ずそこで待っていてくれる。勿論師と出会って対面するということは不可能なことです。

その時には、それまで冒険をしてきたこの自分は、師の中へと溶けていくはずだからです。生きながら死ぬということになるからです。

自分が永遠の眠りについたとき、もう決して邪魔されることのない真の寛ぎを手にしたときには、その師こそが真実の自己であったと気づくはずなのですね。