ノーマインドは非社会的

マインドというのはメカニズムだ。それは独創的でなどあり得ない。それは生きてさえいないのだ。

どうしてそれが独創的であり得る?それは社会的なものだ。それがゆえに、覚者たちが口をすっぱくしてマインドを落とさない限り真実を知ることはできないだろう、と強調する。

真実はつねに独創的なものだからだ。

by osho

マインド(自我)というのは、人との関係性に基盤を置いているのです。どれほど孤独を感じようと、関係性が大元にあるのです。

だからマインドは社会的だと↑上で言っているのです。このことはどれほど強調してもし足りないかもしれません。

一人ひとりのマインドが社会からの寄せ集めで出来上がっているということに本当に気づくまで、繰り返し見つめてみることです。

それが、独自のあなたなど決していないということに繋がるのです。だから独創的ではないとも言っているのですね。

社会的であるということは、反社会的であるということも含まれています。だから社会から逸脱する人がいるのも当然なのです。

社会に順応しようとするのもマインドだし、社会から逸脱しようとするのも同じマインドだということです。

ノーマインドのときだけ、社会の中にいて社会に染まらずに生きることができるのです。あえて言えばそれが非社会的ということですね。

思考はいつまでも不知のまま

思考とは本当は何なのかということについては、私には実際分からないのですが、思考がどういうことをするのかは知っています。

思考は、今ここに在るもの以外について想像するのです。今この瞬間に在るものを知ることは、思考にはできません。

思考ができるのは信じたり信じなかったりすること。知ることは思考の範疇ではないのです。

ということは、知識は思考の範疇であり、真に知ることとはまったく次元の異なる事柄なのです。

思考は常に過去か未来という今ここにないものについて想像したり、知識をこねくりまわして解釈したり判断するのです。

思考が解釈したり判断するのは、今この瞬間に起きていることですが、そのベースとなるものはいつだって過去にあるのです。

きっといつまでたっても、私が思考を知ることはないのでしょうね。それはずっと不可思議な謎のままです。

けれども、思考を知ることはできなくても真理を知ることはできるかもしれません。それは決して不可能なことではないのです。

真理を知ることになったとき、思考のことはどうでもよくなっているのでしょう。

振り子から支点へ

癒しを進めていくと、嫌なことがやってくることが少なくなるような気がします。これはある意味では本当です。

それは一体どういうことなのでしょうか?実は、嫌なこと、つまり自分にとって都合の悪いこと、それと逆に都合のいいことというのは大体同じ割合でやってくるのです。

振り子が左右に均等に振れるのと同じです。右半分に触れる時は都合のいいこと、逆に左半分に振れる時は都合の悪いことと考えることができます。

ただしマインドというのは、都合のいい時にはそれが続いて欲しいと願い、都合の悪いときには、それが早く終わって欲しいと願うもの。

そうした執着があたかも半分以上も都合の悪い状態が続いてしまっているように錯覚させるのです。

心が癒されてくるにつれて、あらゆることへの執着が小さくなっていくのですが、そうなると都合が悪いことが起きてもそこに留まらずにいられるのです。

嬉しいこと、都合のいいことが起きても、そこにしがみつこうとしなくなるのです。だから結果として、感覚的には嫌なことが減ったと感じるのです。

そして最終的には、自分はあっちへいったりこっちへいったりする振り子ではなく、その振り子を支えている不動の支点だということに気づくのです。

支点にとっては、都合がいいとか悪いということもなくなってしまいます。ただ起きていることをそのままに見ることができるのですね。

特別な「私」などいない

あなたの中の「私」という自我は、自分の内側とこの世界という外側とが分離しているという考えが前提となっているのです。

肉体の内側が自分であり、外側がこの世界です。内側に自分の本拠地があり、外側には無限の宇宙が広がっているわけです。

もちろん自分はその宇宙の中にいるのですが、この内側だけは独自の領域であって、誰からも見つからない特別な場所だと感じているのです。

けれども、瞑想などによって内側深く入り込むにつれて、そこは内側ではないと気づくようになるのです。

自分の内側とも外側ともまったく次元の異なる世界を感じられるようになるからです。それこそが全体性なのです。

その視点からすると、自分の内側と外側には違いがないと分かるのです。結局自我は外側の世界に属していたということ。

決して内側などというものはなく、ということはつまり自我が感じている分離感というのは間違っていたということです。

在るのは、宇宙という現象界とその背景としての全体性だけだったのですね。全体性とは「無」の別の呼び名でもあります。

無からあらゆる現象が立ち上がり、また無へと戻っていくだけで、特別な「私」などどこにもいないのですね。

思考にはどんな力もない

幼い頃というのは、自分は無力だと感じて惨めになるものです。だからこそ、成長して大人になって無力なんかじゃないということを証明しようとするのです。

それが人生というものです。ところで、「力」というのは一体何を意味するのでしょうか?筋力とか能力、あるいは魅力や意志力などというものがあります。

動物と比較して人間に固有の力は何だろうと考えてみると、意志力が筆頭にあげられます。

意志が強い人がいれば弱い人もいます。我慢強い人は、それだけ意志の力が強いと言えるでしょうね。それに関連して、決断力、行動力なんてのもあります。

ということは、それらはすべて思考からやってくるものですので、結局は思考の力が強いか弱いかということになります。

けれども待ってください。思考にどんな力があるというのでしょう?本当は思考には力などというものはまったくないのです。

今あなたがこのブログの文字を見ているとしたら、そこにはどんな力も作用してはいません。思考は、自分がこのブログを読んでいると解釈するだけ。

思考ができることといえば、起きていることを解釈して説明を付け加えることだけなのです。

思考など使わずとも、このブログの文字を見ることはできるのです。それは自然に起きているのですから。

結果として、思考ででっち上げられた自我(マインド)には、どんな力もないということになるのです。

あなたの中の「私」という自我は、元々「力」とは無縁のものだということです。このことを深く理解するなら、これまであなたがやってきたことに対して、どんな罪も、どんな手柄もなくなってしまうのです。

自我を観察してあげる

私たちの内面であるマインドというものを深く理解するようになると、いろいろなことに気づくことができるようになるのです。

たとえば、誰もが「私」という自分が個人としてここにいるという自覚を持って生きているのですが、それを自我(エゴ)と呼んだりするのです。

その自我というのは、まるで自己完結した自律的に生きている存在のように感じられるかもしれませんが、実は他者との関係性の上に生きているということ。

他者がいなければ、自我は成立しないということの理解はなかなか難しいのです。実際、私自身も本当に理解したのはそれほど昔のことではありません。

「私」というのは、そのすべてが外側からやってきたものででっち上げられているということ。他者があなたの中の「私」を作ったのです。

「私」を構築している材料のすべてが外側からやってきたものなのです。そんなものがどうしてひとまとまりの人物として生きていられるのか?

その理由の1つは、自我はあらゆる体験を「私」が体験したというように解釈した上で、記憶として残してきたからなのです。

その膨大な記憶が「私」をあたかもしっかりした一人の存在として見立てることができるようにしているということです。

その証拠に、これまでのすべての体験を思い出さずにいるようにしたら、どこにも「私」などいないということが明白になってしまうのです。

「私」がいると思うから、防衛せざるを得ないのです。「私」という個人は一度もいた試しはないと気づけば、作り物でしかない自我をただ見ていてあげることができるようになるのですね。

「人に迷惑をかけるな」は危険

子供の頃、「人に迷惑をかけてはいけない」ということを教えられますね。これは社会の一員として生きていく上では大切なことだと言えるからです。

私自身も例外ではなく、そう信じていました。ただし、自分は自由でいたいという思いも強かったので、「人に迷惑をかけない限りは自由でいよう!」と思っていたのです。

けれどもそれは間違っていたと気づいたのです。人に迷惑をかけないことを最優先してしまえば、不自由な人生になることになるからです。

それは結果として誰かを恨むことになりかねないし、満たされた人生になるはずもないのです。

逆に結果として誰かに迷惑をかけてしまうことになるとしても、勇気を持って自分の自由を優先することができたなら、不満に苛まれることはありません。

ただし罪悪感はやってくるでしょうね。でもできるだけ罪悪感を恐れないこと。それは思考が作ったものでしかないことを思い出すことです。

そして迷惑を被ったという人がいたとしても、それはその人の判断でしかありません。もちろん人に迷惑をかけろと言っているのでは当然ありません。

誰もが罪悪感を恐れずに、自分の自由を尊重することができれば、それはいつか巡り巡って人類全体が平和になっていくはずなのです。

なぜなら、誰もが自由でいられたなら、誰かを恨んだり妬んだりすることがなくなってしまうからです。被害者がいなくなるということですね。

HSC/HSP と罪悪感

この仕事を始めてまだ間もない頃、中学生の男の子が週一のペースでセッションを受けにやってきてくれていたことがありました。

といっても、セッションをすると言うよりも、ただ一緒に過ごしている中でいろいろな話題に触れたりする程度でした。

彼はいつも少し青ざめたような顔で来るので、気分でも悪いのか聴くと、渋谷での乗り換えの時に決まって気持ちが悪くなるということでした。

典型的なHSC(Highly Sensitive Child)だったわけで、場のエネルギーにやられてしまっていたのを見るにつけ、痛々しく感じたものです。

そういう超過敏タイプの人というのは、相手の気持ちを痛いほど感じてしまうために、どうしても他人の期待に応えようとしてしまうのです。

そうしなければ罪悪感に苛まれてしまうからです。その結果、「いやだ!」というエネルギーが溜まってしまい、それが問題行動を生むことになるのです。

彼がパソコンにちょうど興味を持ち始めていたころだったので、教えてあげようとすると、瞬間的に生あくびをしたりして拒絶モードに入るのです。

人から何かを教わることを嫌っているのがはっきり分かりました。だから、学校の授業にも出ることができなかったわけです。

そういう形で問題行動が表面化していたということです。HSC/HSP の人たちにとって、問題行動はつきものだと考えても差し支えないのです。

マインドの仕組みを理解すれば、こうしたことは当然のこととして受容することができ、ご本人にとっても自己否定から解放される手助けになるはずなのです。


決めつけられたらモノに成り下がる

この世界は一つなのですが、あなたはあなたのワールドで生きているし、私は私のワールドで生きているのです。

個々人に固有のワールドがあり、それらは共通する部分もあれば食い違う部分も多々あるのです。

このことを深く理解している人は少ないのかもしれませんが、そのために様々な誤解や軋轢が発生してしまうのです。

人は自分のワールドにおける常識、正しさ、決まりごと、当たり前のこと、こうしたことを使いまわして生きているのです。

そしてそれは誰にとっても同じだろうと勝手に思い込んでしまうのです。そうなると、人とのコミュニケーションを取る以前に、物事を決めつけてしまうことになるのです。

自分の常識や正しさを子供に押し付けて満足している親がいるのですが、そうした親は子供が独自のワールドで生きていることに気づけないのです。

子供はまだ未熟だから親が正しい方向に導いていかなければならないからと言うかもしれませんが、それはいいわけです。

決めつけられ続けた子供は、人生をかけて反発しなければならなくなってしまうことを知らないのです。決めつけられたらモノに成り下がってしまうのです。

自分のワールドは自分以外の人とは根本的に違うのだということに、しっかり気づくこと。それができれば、受け止めることができる受容的な人物になれるのですね。

依存心を小さくする方法

依存というのは、それなしではどうにもこうにも生きていることが辛い状態のことを指すのです。

たとえば、アルコールや薬物に中毒してしまうのは、それなしでは平静ではいられない状態になってしまうので、依存状態であると言えるわけです。

あるいは、幼い子供は面倒を見てくれる親なしでは生きていけないので、親に依存しているということになりますね。

大人になっても依存心が残っているとしたら、その理由は幼い頃の自然とも言える依存心を存分に使わずに成長してしまったからなのです。

マインドの成長と共に、自然にやってくるあらゆる欲求は、それをできる限りその時点で使い切ってあげることが大切なのです。

使わずに温存してしまうと、人生の後の方になってそれが勝手に表面化してきてしまい、大人の理性を食ってしまうのです。

そうなると、それまで理性的であった人でも突然のように、子供のようになってしまったように見えることが起きるのです。

それは本人も驚いてしまうと同時に、自分をコントロールできずに途方に暮れてしまうような辛い事態になってしまうでしょうね。

依存心が大きすぎてどうしようもないなら、幼い頃の依存心を探り出してそれをイメージの中でもいいのでできるだけ使ってあげることです。

一人でやるのが難しければ、セラピストなど専門家の手助けを利用するのもいいかもしれませんね。