セッションの録音を活用する

近頃、セッションの内容を録音されるクライアントさんが増えましたね。ホームページ上にも、録音はOKですと記載したこともあるのかも知れません。

ところが、多くの方が言うには、せっかく録音したものを、あらためて聴くかというと、どうも聴かないことが多いらしいのです。

何となく分かるような気がします。というのも、セッションではさすがにセラピストの言葉を面と向かって無視することはできないですが、本当は聴きたくないという部分もあるからです。

しかも、セッションの流れの中で、思わず出てしまった自分の本音とか、隠してきた感情が表面化した場面などがあれば、聴きたくないというのも頷けます。

そんな中でも、一生懸命に録音を聴くという方もいらっしゃるのです。ご本人によると、セッションの録音を聴くと、自分が如何に逃げようとしているかに気づくことができるのだとか。

その瞬間には、自分の防衛方法は巧みなので、ほとんど気づかずにいることが多いのですが、録音を聴き直してみて、それにはっきりと気づくということです。

私たちは他人のことはよく分析できますが、それは見る側には自己防衛をする必要がないからなのですね。そのように、自分の録音を客観的に聴くことは本当に助けになるのです。

また、催眠療法の誘導部分も録音してしまえば、それを使って独りで催眠療法のようなことをすることもできるはずです。

セッションにいらしたら、是非録音されることをお勧めすると同時に、それを聴いてみることを強くお勧めします。きっと大きな気づきを期待できると思います。

孤独という恐怖

同じ怖い体験をしても、普通の人の何倍も怖いという感覚になってしまう人がいますね。敏感体質というのか、繊細過ぎる感性を持っているということなのでしょう。

そういう人は、なかなかどうして生きることがとても厄介になってしまうはずですね。なぜなら、過剰防衛することになってしまうからです。

ところで、過剰防衛する要因というのは、そういった生まれながらの体質以外にもあるのです。それは、生まれ育った環境によるものです。

もしも、幼い子供の頃に、親に安心させてもらうことができなければ、不安や恐怖が蓄積されることになってしまうために、より過度の恐怖を感じるようになるのです。

ちなみにそれがどんな環境かというと、例えば:

・親に本音を言ってはいけない
・親に助けてはもらえない
・親は100%正しくて自分は間違っている
・親は自分に興味がない

こういった場合には、子供は孤独という恐怖を持ってしまうと同時に、自分の存在がそもそも間違っているといったとんでもない思い込みを作ってしまうかもしれません。

そうなれば、ただ生きていることが恐怖になってしまうのです。そのような場合には、子供の頃の間違った信念を、少しずつでも変えて行くことが大切なのですね。

そのためには、内側に潜む当時の幼い自分の気持ちに耳を傾けて、そのすべてをただ受け止めてあげることです。

「静」と「動」の対極を使う

瞑想が何となく心身にとって良いらしいというのは、全世界的に広まりつつあるようですね。けれども、やっぱりただ静かにしているというのは苦手という人も多いのです。

そんな現代人のために、osho が様々な瞑想法を考案してくれたのです。その中の一つにダイナミック瞑想と名付けられたものがあります。

ただ静かに坐るのではなく、その逆にできる限りの力を振り絞って、早く激しい呼吸をしてみたり、ありうる限りの感情を吐き出してみたり…。

そうやって、「静」にいきなり入る代わりに、極端な「動」から始めるのです。だから、苦手も得意もありません。誰にでもできる方法なのです。

持っている力を出し惜しみすることなく最大限使って、「動」を続けたその後で、突然まったくの「静」へとひっくり返るのです。その対極への移行によって、人はたやすく「静」の中へも入っていけるのです。

うまく考えられた方法だと思います。私たちは、自然とこうした方法を経験したことがあるはずなのです。それは、例えばスポーツなどで思い切り身体を動かした後は、頭がスッキリして静かにしていられたりするのです。

つまり対極を利用するということですね。落ち着きのない子供を静かにさせようとして、いくら叱ったところで効き目はありません。

その場合にも、その子に思い切り走り回ることをさせてあげて、クタクタにしてしまえば自然と静かにするようになるはずなのです。

瞑想をただ「静」というイメージで捉える必要はないということです。「静」のためには、「動」を利用するのです。そして、「動」のためにも「静」を利用できるのですね。

「神性」への梯子

人間とは緊張です。自然界で、ずっと緊張している生物など、人間の他にはありません。人間だけが、緊張の中で延々と人生を続けているのです。

動物も一瞬であれば、勿論緊張することはあるのですが、その瞬間が過ぎ去れば、またあっという間にリラックスの中へと戻っていけるのです。

ではなぜ人間だけが緊張し続けるのかと言うと、人間は「自然」と「神性」のちょうど間に位置しているからです。間というのは、言葉を変えて言えば中途半端だということ。

「自然」とは他の動物や植物があるところ。人間の最も最下層の部分はそれと同じ「自然」に属しているのです。その「自然」の中で生を授かり、そこから人生がスタートしたのです。

ただし、そこは単なる出発点であって、2~3歳くらいになれば完全な無意識から意識的な部分が芽生え始めるのです。意識的であるということは、それだけ「神性」に向かっているということ。

残念ながら、意識的な部分は全体の1割程度だと言われているので、残りの9割は動物と同じ「自然」のレベルにまだいるということです。

それでもいくらかは、「神性」に向かって進んではいるのです。その途中にいるために、宙ぶらりんな状態で生きているとも言えるのです。

それが、緊張を生む原因となっているのです。一気に意識的な部分が増えて行くことができるなら、それだけ「神性」に近づくことができるのですが…。

そして意識が100%となったとき、「自然」で始まった梯子の最上段である「神性」へと昇り詰めることになり、そこで自我は消滅して二度と戻れなくなるのです。

その時には、「私」が消えて、その代わりに神が顕われるということですね。

一滴のしずく

私たち一人ひとりが、自分の本質に気づき、自分の本質と出会うとき、つまり光明を得たときには、それまで探究していた私は消え去っていくのですね、残念ですが…。

それはまるで、一滴のしずくが大海の中へと落ちて、その中へと消えて影も形もなくなってしまうことに似ています。それはそういう運命にあるのです。

それはただ自然であって、そこにはどんな問題もあるはずもないのですが、一滴のしずくのような「私」という自我が出来てしまったために、大海の中へと消え去ることに恐怖を感じるのです。

インドには、その昔ごく普通の機織り職人でありかつ詩人でもあったカビールという人がいたのですが、彼は光明を得た人でした。

その彼が、光明を得ることは一滴のしずくが大海の中へと入っていくようなものと詩の中で言ったことを、後で訂正したのです。

その訂正とは、実は光明を得るということは、大海が一滴のしずくの中へと入って来ることだと言ったのです。わざわざこのような訂正をしたということは、そこには何か大きな意図があるのでしょうね。

つまりは、私たちの準備ができるなら、真実の方から私たちの中へと飛び込んでくるということです。真実はいつだってその瞬間を待っているのです。

いつも使っている言葉で言えば、全体性はそのチャンスを狙っているのです。そして、それが起きるときには、私たちの中へと全体性が流れ込んでくるのです。

思考が落ちて、真っ平な鏡のような内面になるなら、それはいつかやってきてくれるのでしょうね。

「見る」ことで同化をなくせる

このブログでも何度も書いていることなのですが、「見る」ということが如何に大切なことかということについて、今日も少し触れてみたいと思います。

「見る」というのは、単に肉眼を使って外側の世界にある何かを見るということではなく、その対象物に意識を向けるということを意味しています。

肉眼で何かを見るにしても、そこに意識を向けずにいるなら、実際には見ていることにはならないはずです。一点を凝視したとしても、他の何かに意識がいってるなら、見ていないのと同じなのです。

だから、「見る」とは意識を向けるということ。そして、意識を向けられた対象というのは、意識を向けた主体から離れていくのです。

というより、離れていなければ見ることはできないということでもあるのです。だから、私たちが常日頃ずっと自覚のないままにしている、自己同化に気づくためには、この「見る」ということが絶対的に必要なのです。

もしも身体に意識を向けているなら、その身体の箇所は自分から離れたものだということが分かるのです。もしもあなたがマインドの中に渦巻いている思考を見ることができるなら、そのときには自分は思考ではないと気づくのです。

そしてもしも、私たちが自分のマインドに意識を向け続けることができたなら、マインドとの自己同化を外すことがきっとできるのでしょうね。

無思考は非二元

人との関わり合いの中で、自分のエゴが一番使われない時というのはどういう時かと考えてみると、それはやはり相手を受け止めているときだと気づきます。

思考を使わずに、その時の相手のありのままを受け止めるのなら、エゴは小さくなってしまうのです。勿論一時的なものではあるのですが…。

エゴが活躍するためには、思考が活動していることが前提なのです。だから、相手に対して賛成や反対、肯定や否定、そのための判断も裁きもしないでいるなら、それは思考が使われないときなので、エゴは停止するのです。

相手の言っていることに賛同するなら、賛同している自分の意見がそこにはあることになるので、受け止めるのとは全く違うと分かります。

たとえ相手を肯定しているとしても、同じようにしてそこには思考が働いているのです。だから、肯定と言う思考はいつでも否定にひっくり返るチャンスを狙ってもいるのです。

だからこそ、相手を褒めることも受け止めることとは全く違うのです。人に褒められて喜ぶ人は、けなされるという危険を見抜けない人なのです。

何かを褒めてくれた人は、いつけなす側に回るは分からない人だと思って間違いありません。褒めるための判断基準が変わってしまえば、いつでもけなすことも可能だからです。

結局、思考は常に二元性の世界にいるので、表があれば裏がくっついてくるということ。だから、肯定も賛成も褒めることも不必要なのです。

それに対して、あるがままを受け止めるときだけ、対極がないのです。つまり非二元ということなのです。思考がなければ、私たちは常に非二元の世界にいることができるのですね。

不可視のエネルギー

私たちは、普段目には見えないエネルギーの洪水の中で暮らしているのです。けれども、自分は目に見えないものは信用しないのだという人もいるかもしれませんね。

電波も音波も人間の目には見えませんが、この地球上の空間には無数といっていいくらいのそうした波が飛び交っているのです。

テレビやエアコンのリモコンは音波を使っているし、テレビやラジオの番組は電波によって伝わってくるものを、キャッチしているのですね。

それと同じようにして、私たちはまだ解明されていない何等かの知覚を使って、場のエネルギー、人から発せられる思考や感情のエネルギーなどを感じ取っているのです。

だから、たとえば怒りを膨大に蓄積している人と一緒にいると、その人がたとえ笑顔で接してくれたとしても、何となく怖いというか居心地が悪く感じたりするのです。

セミナーなどで、多くの人たちが一斉に同じ方向を目指していると、そのエネルギーが増幅されて、個人でいるときとは比べ物にならないくらいに大きな効果を生むのです。

残念ながら、科学の現状ではまだそれが一体何なのかは解明されてはいませんが、誰もが自然とそうした感覚をどこかで感じながら生きているのも事実です。

実際、相手の思考の内容を読み取る能力のある人もいるようですね。訓練によってそうなったのか、生まれついてのものなのかは分かりませんが。

いずれにしても、エネルギーが目には見えないものでよかったという点もありますね。だって、それが見えてしまったらそれこそおちおち街を歩いていられなくなってしまいます。

エネルギーは外の空間を飛び交っているばかりでなく、私たちの内面にもまた別のエネルギーがあります。というよりも、そのエネルギーによって私たちは生かされているとも言えるのです。

そして、究極的にはたった一つのエネルギーだけが実在するのですが、それこそが私たちの本質なのですね。

誰もが常に新鮮な存在

輪廻の考え方からすると、私たちが死と呼んでいるものは、一生を通じて使い倒した身体、さび付いてもうまともに機能しなくなった身体を、新品のものと交換することです。

それと同じようにして、一日活躍して疲労が蓄積した身体を休ませて、また新しい活気溢れる身体に戻すのが睡眠というわけです。

そう考えると、死も睡眠も死んでは再生するということを繰り返しているということです。そして、その死ー再生の最も短いサイクルが他にあるのです。

何だと思いますか?それは私たちの呼吸です。息を吸って酸素を取り込むことは生きることであり、二酸化炭素を吐き出すことは死ぬことに相当するのです。

つまり、私たちは毎日ずっと生ー死のサイクルを延々繰り返しているということ。そのことに気づくと、一息ごとにまったく新しい自分に生まれ変わっていると感じることができるのです。

残念ながら、マインドは思考をフル活動させて記憶にアクセスするため、過去から今に至るまでずっと連続して同じ自分がいると感じているのです。

けれども、本当は一呼吸ごとに誰もが生まれては死ぬのです。そしてまた新たな自分が再生するのです。自分も相手も誰もが、常に新鮮な存在だということです。

だから呼吸とは何と大切な、そして本質的なものかということですね。呼吸こそ、私たちの本質と身体を繋ぎ止めておいてくれる大切なメカニズムだということです。

全身全霊で…

子供の頃から、何でも全力でやりなさい!ということを教わってきた記憶があるのですが、私の場合には右の耳から左の耳へと通り過ぎていったようです。

そればかりか、どんなことでも70%くらいの力でやるというのがクセになってしまっています。だから、全力でとか、全身全霊でというのを、きっと経験したことがないのでしょう。

今になって、それが非常に問題ありだということが分かってきたのです。生ぬるいやりかた、あまり傷つかずに済むようなやりかたが板についてしまったのです。

実は人の能力というのは、その1割とか2割くらいしか使ってないと言うのを聞いたことがあるでしょうか?火事場の馬鹿力というのがありますね。

思考が停止するような緊急事態においては、思わぬ力が出るということです。普段はそういう力は出せないように身体がコントロールしているということも聴いたことがあります。

それは身体自体を壊さないためだそうです。けれども、自分が知らない自分の本当の能力や知らない知覚などに目覚めようとするなら、普段使わないでいる力を使うくらいに全力になる必要があるのです。

そのためには、あくまでも力を出し切ってクタクタになる必要があるということ。身体がクタクタになれば、私たちは自分が疲れたと感じるのですが、本当は身体が疲労しているだけなのです。

だから、クタクタになったときほど、本当の自分と身体は違うものだということに気づく大チャンスでもあるのです。身体だけでなく、全力を上げて意識的でいるというのも大切なことです。

もう二度とこのチャンスはやってこないというくらいの気構えで、意識的であることに全精力をあげられるようにしたいと思う今日この頃です。