思考から離れた時、神秘が顕れる

実在に対して、思考はまったく歯が立たない。実在にについて、思考がどんな解釈をしようと、どんな分析や研究をしても、そんなこととは一切異なる次元に在るだけなのです。

実在に関して、どんな思考も役に立たないのです。思考が役立つと思えるのは、思考が作った世界の中でのみ。なぜなら、思考が作った世界とは、空想の世界だからです。

思考によって作られた空想の世界が、実在とはまったくもって無関係であることは、当然ですね。実在の観点からすれば、思考も一つの結果でしかないということ。

思考の結果、何かが得られたり、何かが起きたりするのではなく、思考そのものが一つの現象でしかないということです。このことは、思考では理解不能かもしれませんが。

何だか今日は分かりにくいことを書いてしまいました。もっと簡単な表現ができればいいのに、それができないのが残念です。

思考がとまり、静寂がやってきたときには、こうした表現がすべて的外れだということになるのでしょうけれど、それでも書くのはそれが起きることだからですね。

私の自由意志でブログを書いているかのようにみえますが、これも一つの現象として起きていることです。私の脳が内容を考えた末に、書いているという解釈をするのが常識でしょうけれど。

思考から離れたときに、思考が作り上げていた壮大なドラマから抜けて、ただ実在という神秘だけが残るのでしょうね。

孤独というどうしようもない幻想

もしあなたが自分自身を深く見守ったら、驚くだろう–。

あなたの行動はすべてみな、ひとつの原因に帰着しうる。

その原因とは、あなたが孤独を恐れているということだ。

その他のことはすべて口実にすぎない。

本当の理由は、あなたが自分は非常に孤独だと気づいているということだ。

by osho

本当は誰もが知っている。誰もが自分という個人としての存在は、どうしようもなく孤独だということです。それはまるで、大地に根を下ろしていた植物が根こそぎにされたようなもの。

そもそも全体性としてただ在るのに、「私」というエゴを思いついてしまった結果、すべてのものから分離した小さな存在に成り下がってしまったのですから。これ以上の孤独はありません。

孤独であれば、そこには必ず不安がつきまといます。つまり、私たちは例外なく、エゴをでっち上げたと同時に、孤独と不安をも生み出してしまったのですね。

このまま人生を生きるのは、とてもじゃないけれどシンドイわけで、何とかして、それこそあらゆる手段を使っても、自分は決して孤独なんかじゃないと思えるようにするべく努力するのです。

その努力の全体を人生と呼ぶのです。そこに一役買うのが、家族だったり、恋人だったり、友人や同胞ということになるのです。

したがってそこに愛があるかのようにみえて、周りの人々のほとんどは孤独を埋めるための手段に使われるのです。そのことを否定する必要もありませんが、愛ではないと気づくことが必要です。

なぜなら、自分を騙さずに正直に自らと向き合うことが、真実へ目を向けることに繋がるからです。そして真実はと言えば、誰もが全体性としてただ在るのであって、そこには孤独という幻想はないのですね。

「張本人」という不自然さ

自分のプロセスを見守ってごらん。

そうすれば、感じられるだろう。

今日、お腹が空いたら、ただ見守ることだ。

お腹を空かせた人がほんとうにいるのか、

それとも空腹があるだけなのか?

by osho

思考の中で、「私」というエゴが発生してから、それがずっと延々やってきたこと、それはあらゆる体験、経験に対して、それは「私」が体験した張本人だと思うこと。

その思い込みを続けることで、エゴは毎日ますます自分自身を肥大化させてきたのです。こんなに多くのことを経験してきた自分は、幼子とは違うと。でも待って下さい。

上の osho の言葉をゆっくりと読み返してみて、できる限り正直になって無垢な気持ちで検証してみることです。本当にそれを体験している張本人の「私」がいるのか?

それともそこに、ただ体験が在るだけなのか?これまで培ってきた常識をすべて誠実に脇へ置いて、どちらがより自然なことかを観てみるのです。

大いなる自然の中で、お腹を空かせた「私」が本当にいるのか?それとも、ただそこに空腹感があるだけなのか?

独り静かにそれを見つめてみると、前者の方が何か特別な感じがするのです。その特別感が自然から遠ざかっているように感じるのです。そこには、何となく力みがあるような…。

そして残念?なことに、ただそこに空腹感が在るということの方が、やはり自然と調和していることに気づかされます。

自然の摂理の中で、唯一不自然なのは「張本人」というもの。自然はそんなものなしに、ただ淡々と在り続けているだけなのですから。

望まなければ失望しない

偉大な思想家ラスキンはこう言った。

人生にあるのは二つの失望だけだ、と。

あるものを望みながらそれが得られないことと、

あるものを望んでそれを獲得することだ。

二つの失望のみ。それを得なければ、たしかにあなたは失望する。

ところが得ても、やはりあなたは失望する。

by osho

一つ目の失望については、私たちは嫌という程に何度も経験しているのでよく知っているのです。けれども、二つ目の失望については心当たりがないと思っているかもしれません。

だって、望んだものが得られたなら、失望するどころか喜びがやってくると思っているからです。確かに、望みが叶って喜ばない人はいないはずですね。

でもよ〜く思い返してみれば分かることですが、喜んだ後で必ず、次の望みをすぐに作り出すのです。つまり、望みが叶ったとしても決して満たされずにいるからこそ、次の望みを叶えようとし出すというわけです。

もうこれで満足だという状態になった人はいないのです。なぜなら、望みを完全に失ってしまえば、マインドは活動できなくなってしまうからです。

だから、望むものを手に入れても、それが手に入らなくても、いずれにしてもマインドは失望することになっているのです。これこそが、本当の絶望かもしれません。

この事実について、どのくらい早く気づくことができるかが、人生にとって重要なことなのだろうと思うのです。それとも死ぬまで何かを望み続ける方が人間らしいと思うでしょうか?

どちらも間違いではありませんが、私は個人的に、できるだけ望まない人生へとかえていけたらいいなと思うのです。

意識を研ぎ澄ませば、すべてが魅力的に感じる

もう亡くなられたと思うのですが、「いずみたく」さんという著名な作曲家の方がいらしたのですが、ご存知ですか? その方があるFMのラジオ番組をやられていたことがあったのです。

確か私が大学生のころだったと思うので、もうはるか昔のことですね。その番組で彼が何をお話しされていたのかは全く覚えていないのですが、一つ特徴的なことがあったのです。

それは、彼の個人的な部屋かスタジオで収録しているのだと思うのですが、日常的な生活音がいつも聴こえてくるのです。例えば、タバコに火をつけるときのライターの音だったり。

コーヒーを沸かして飲む音だったりが、ごく自然な感じで聞こえてくるのです。その音たちがなぜかものすごく魅力的だったのです。FM放送だったので音質がよかったというのも事実としてあるでしょう。

けれども、日常的な生活音がなぜそこまで人を感動させるのか、その理由が分かりませんでした。そして自分でも実際にいろいろな音を出して、それを録音して聞いてみたりもしたのです。

今でしたら、スマホであれその他の録音機であれいくらでもあって、手軽に録音できますが、かつては部屋の中の生活音を録音するのに、わざわざ大きめのマイクを買ったのを覚えています。

そして分かったこと、番組ほどではないにせよ、自分で録音した生活音でもそこにじっと耳を傾けているだけで、いつもとは違って聞こえるのです。その理由の一つは、マイクが人間の耳とは違ってあるがままの音を取り込めるということ。

私たちの耳は、聞こうとしている音を増幅して、聞こうとしない音は小さくしてしまうという特性を持っているのです。正確には耳自体がそれをするのではなくて、それはマインドの機能として備わっているのです。

だから録音された音というのは、いつもとは違って聞こえてくるのです。そしてもう一つ、魅力的に聴こえる理由があるのですが、それはいつもよりも何倍も注意深く聴くからだったのです。

私はあの時実際ヘッドフォンで聴いていたので、ものすごく音に意識を研ぎ澄ましていたのだと思います。毎日何気なく聴いているあらゆる音も、気づきを持って聴けば、全く違ったように聴こえてくるのですね。

意識的であれば、聴こえてくる音も、見える対象物も、すべてがきっとより魅力的に感じるはずなのです。そうなったら当たり前が当たり前でなくなるのでしょうね。

存在とともに在る

選択に迫られたときは、

けっしてハートを差しおいてマインドを選択してはならない。

ハートとは、存在とあなたとの関係性だ。

マインドとは、社会とあなたとの関係性だ。

by osho

残念なことに、理性的な人ほどマインドとともに生きている傾向が強いものです。だからある程度までは、社会と良好な関係性を作りつつ生きることができるわけです。

けれども、それはあくまでも表面的なレベルでしかありません。マインドは常にあなたに選択することを強制してきます。だから余程意識的になり、注意深くしていなければ、マインドが選択の結果を与えてくるのです。

その選択の原動力は防衛なのですね。社会の中でうまく立ち回る方法を知っていたり、戦略的に生きる術を心得てもいるのですが、心が豊かになることはありません。

本当の豊かさは、ハートが優位にあることによってのみ達成されるのですから。ハートさえ開いていることができるなら、マインドの小賢しさを脇に置いて存在と一つになることができるのです。

それは社会的に成功することでも、他人から賞賛されることでもなく、もっと自分自身に正直になって、ハートの奥の存在を感じる瞬間の至福とともに在るようになることです。

そしてハートを開く直接的な方法はありません。ただマインドを見守り続けることによって、自然とマインドのエネルギーが落ちてくるのです。それが結果としてハートを活性化させることになるのですね。

私の中の誰でもない存在

自分の内側にずっと意識を向け続けていると、人物としての普段の自分以外に、誰とは言えないけれど、誰でもない何者でもない存在がいることに気づきます。

その存在には、気づくこともなく生活していることがほとんどなのですが、一度内側に意識を向けてしばし待てば、ああやっぱりそれは在るんだと気づくのです。

それは誰かではないので、年齢も性別も国籍も一切ない存在であるので、考えてみれば一年前であれ10年前であれ、ずっと変化せずに在り続けているのです。

きっと子供のころも在ったはずですが、人物としての自分との切り分けができずにいたので、その存在に気づくことはなかったのだと思うのです。

その存在は人物のように一括りにすることのできないものなので、たぶん私が感じているその存在と、あなたの中に在るその存在は同じものだろうと。

似ているのではなく、一つものだということです。この地球上に、人物は70億人以上いるのに、その70億の中のその存在は一つだということ。

それなのに、私からすればその存在は私の中にのみ唯一在るように感じてしまうのですが、そのことが私としては不思議で不思議でたまらないのです。

そしてその存在からすれば、この私という人物しかこの宇宙に存在していないかのように感じるのですから、更に不思議さが募るのです。

あなたの中にも、それは在るでしょう?もし気がつかなくても大丈夫です。気づくかどうかにはお構いないしの存在だからです。

逃げたり戦ったりせずに見守る

誰もが自分にとって苦手なものってありますよね。夏になると出没しだすゴ◯◯リだったり、嫌いな食べ物や臭いもの。あるいは精神的なダメージを与えられるような他人からの誹謗中傷など。

できればそういったものを避けて、生きていきたいと思うものです。けれども、生きていれば大なり小なりそうしたものに出くわすことは避けようのないことです。

だとしたら、どのように対処すればいいのでしょうか?実はそうした対象から逃げようとしたり、戦おうとすればするほど、相手にエネルギーを与えることになって、より対象への恐怖を増大することになるのです。

逃げたり戦ったりしないというのは、具体的にはどうすればいいのか、事例をあげて説明したいと思います。

かつてあるクライアントさんが、私のセッションや講座を率先して受けて下さって、いい感じに癒しを進めていけてるなと思っていたのですが、ある晩突然その人からメールが届いたのです。

読んで見ると、相当にひどい否定の言葉が綴られていました。あなたのくだらないプライドなんか、ドブに捨ててしまえ!といったような感じの激しい怒りの混じった罵声が文字になっていたのです。

びっくりしたと同時に、一度読んで胸のあたりが嫌な感じがして…、つまり傷つけられたわけですね。逃げるというのは、もう二度とこのメールを目にしたくないとして、それから遠ざかろうとすることです。

逆に戦おうとするのは、腹を立ててその相手に逆襲するような内容のメールを送りつけるということです。そのとき私は、そのどちらもせずにできるだけゆっくりと、繰り返しそのメールを読むようにしたのです。

2度目に読んでいる時より、3度目は少し気持ちが楽になり、自分が傷つけられたことよりも、それを書いている相手の気持ちの方に意識が向くようになったのを覚えています。

そして気がつくと、心の痛みはほとんどなくなってしまっていました。相手の言葉は、ご本人のプライドが傷つけられたことを表していたのです。そのプライドが邪魔で、捨てたいということだったのですね。

私たちはどうしても、怖いもの、嫌いなもの、嫌な対象から逃げようとしたり、戦って打ちのめそうとしてしまいます。そんなときに、どちらでもなくただじっくりとそれを見てあげること。

このことを思い出して実践することで、乗り越えるのではなくただ反応しないマインドにしていくことができるということですね。

真実とはすべての土台

人生というのは、本当の現実の中にあるのではなくて、私たちのマインドの中に渦巻いている思考の中にこそあるのです。もっと言えば、一人ひとりが見ているこの世界も同じこと。

一人ひとりのマインドの中にある思考が、見たいようにこの世界を見ているということです。だから、人の数だけ世界も人生もあるのです。

それがバラバラなのに、私たちは全部同じだと思い込んでいるため、そこに軋轢を生じて、争いごとが起きてくるのです。そもそも現実というのはそういうものだということを忘れないことです。

一方で、真実はまるで違います。真実は思考の外にただ在るのです。それは唯一無二の存在です。それは思考によって把握することは不可能なのです。

つまり真実を評価したり、真実を想像したり解釈したりすることはできないということ。だから私たちエゴには逆立ちしても理解することはできないのです。あきらめるしかありません。

但し、瞑想などによって思考が非常に緩慢な状態になったときには、それを垣間見見ることはできます。

私たちが日頃感じる喜びや悲しみ、苦悩や快楽などはすべてが思考から派生して出てくるものです。真実はそうしたものの土台だと思えばいいのです。真実が無だというのは、そういうことですね。

 

ただ見守るなら痛みの外に出る

もし、あなたが好き嫌いを抜きにして苦痛を見守ることができたら、それはそこにあるのに、不意にあなたはその外に出ている。

あなたはもうそのなかにいない。あなたは超然と、そこに立っている。無選択は、あらゆる種類の気分や、あらゆる種類の思考からあなたを解き放つ。

by osho

私は子供の頃から、身体の痛みについて考えることがありました。痛みって本当は何なのだろうかって…。もちろん、何の結論も出るわけではないのですが、自分にとって痛みから逃れる術を探していたのでしょうね。

外側に起きる不快なことからはある程度逃げることができるけれど、自分の身体に生じるあらゆる苦痛は、付いて回るものなので諦めるしかないというのが、嫌だったのだと思います。

せいぜい日頃から痛くならないように気をつけて生活するといった予防策があるだけで、痛くなってしまったら自分ではもうどうしようもない。

けれども方法はあったのですね。というよりも、痛みを直接和らげるのではなくて、痛みを感じている自分から距離を置くことができればいいということ。痛がっている自分を見守るということ。

痛みは物語の中にいる自分に対してあるのです。物語から抜けてしまえば、気分の悪さも苦しみもすべては、ただ見守る対象になってしまうということです。

意識的である=ただ見守ることができるなら、あらゆるものはただそこにあるだけになるのですね。