内側を辛抱強く照らして見る

イメージしてみて下さい。街はずれに一軒の古びた屋敷があって、それについて幼い頃から誰に聞いても、みんなが一貫して同じことを言うのです。

あの屋敷にはもう誰も住んでいない。代わりに魔物が棲みついてしまったんだ。だから、屋敷の住人は恐れをなして逃げてしまったんだと。

幼い頃からみんなからそんなことを言われ続けたら、間違いなくそうなのだと信じ込んでしまうでしょうね。そして、友達に、あの屋敷に魔物が棲んでいるって知ってる?

と聞かれたら、知っていると答えるはずなのです。本当は知りもしないのに、ただ人が言うことを信じ込んでしまっただけなのに。

実のところ、そういう情報があるという事実は知っているということなのですが、その情報の真偽についてはいっさい疑わずに、知っていることにしてしまったのです。

自分がいるということもそれと同じだと考えればいいのです。自分がいる感じがしているだけで、本当はそれについては知らないままに生きているのです。

生後ずっと周りの人たちから、○○ちゃんと呼ばれているうちに、相手の視線の先にあるこの肉体の内側に自分という存在がいるのだと思い込んでしまったのです。

先ほどの話しに戻って、誰かが勇気をもってその屋敷の中に入り込み、懐中電灯で部屋中を照らしてみて、初めて魔物などいなかったということを知るのです。

それと同じことを自分に対してすればいいのです。自分の内面に入り込んで、隅々まで見回して、本当にそこに自分がいるのかどうかを確かめるのです。

すると、そういう作業をしているうちに早くも、なんとなくこれまでいると思っていた自分という存在が曖昧なものに感じるようになるのです。

そして辛抱強く、薄暗い内面を「見る」という光で照らし続けているなら、いつか必ずそこにはナニモノも存在していないということに気づくのです。

無邪気と無防備は一つもの

無邪気という言葉と、無防備という言葉がありますが、これらはどちらもほとんど同じ心の在り様を顕しています。片方は、邪気がないというエネルギーから見た表現であり、もう一方は防衛という観点からの言葉です。

無邪気な状態は、必ず無防備でもあるし、無防備な状態は必ず無邪気になるはずなのです。生まれてから2年くらいは、誰でもこの状態で生きています。

なぜなら、まだエゴが作り出されていないからです。守るべき自分がいないのなら、無防備でいるほかないからですね。エゴが生み出されると、それが一変してしまうのです。

初めのうちは、エゴの自分になったり、エゴがいない元のままの自分に戻ったりを繰り返しながら、次第次第にエゴが定着して消えなくなっていくのです。

そうした曖昧模糊とした時期に、母親から安心させてもらえないような環境で過ごすことになると、子供はあっという間に無邪気さを抑圧するようになって、自己防衛を強烈に運用し始めるのです。

そうなったら、子供とはいえ、マインドの中に無邪気さを見つけることが難しくなってしまうこともあり得るのです。要するに、まだ子供なのに妙に大人びた感じがする子供になるのです。

無邪気さを精一杯使って生きるべき大切な時期に、防衛を強化してしまうことによって、そのしわ寄せが人生の後の方でやってくるのです。

それはとても生きづらいと本人が感じるような人生になってしまうかもしれません。もしも今自分には無邪気さがない気がすると感じるなら、こうしたことを疑ってみることです。

そして、しっかりと腰を据えて、マインドの癒しを進めていく必要があるということですね。

死を通過する意識

一般的に言って、死は私たちにとっての最大の脅威です。死というものが、なぜこれほどまでに私たちの恐れの代名詞となってしまったのか?

死は自分がいなくなるから怖いのだというごく当たり前のことだけではないのです。実は、死の恐怖とは未来を奪われてしまうことからもやってくるのです。

個人というエゴが生きていくためには、夢や希望、言葉を変えれば欲望がどうしても必要なのです。そしてその欲望を実現する場所が未来なのですね。

未来だけが、自分の欲望を叶えてくれる最も頼りになる存在だと思い込んでいるのです。その大切な未来を根こそぎにされてしまうのが死なのです。だからこそ死を非常に恐れてしまうのです。

したがって、もしも欲望が仮に現在の半分になっただけでも、死の恐怖はそれだけ小さくなってしまうはずなのです。また、誰もが死を体験していないので、知らないことを恐れるという面もあるのでしょう。

けれども、よく見つめてみると、知らないものを本当には恐れることはできません。せいぜいが不安に感じるのが関の山です。何しろ知らないのですから。

そしてもう一つの死に対する恐れがあるとするなら、それは自分の所有物や大切な存在との別れがやってくることです。つまり喪失に対する恐れです。

最後に、死に対する恐怖は死んだあとの自分が感じるものではなく、生きている自分があれこれ思考することによってのみやってくるということも事実なのです。

それなら、冷静に死を見つめてみれば、死にまつわる多くの恐れは消えていってしまうはずです。そしてもしあなたが、意識をもったまま死を迎えることができるなら、その意識は死を通過して在り続けると気づくことになるでしょうね。

存在への信頼

存在は決して間違えることはありません。なぜなら、存在は広大無辺の意識だからです。どれほど賢い人であろうと、たとえ光明を得た人であろうと、広大無辺の海の一滴に過ぎないのですから。

もしも存在が、私たちにとって都合の悪いことを起こしたとしたら、私たちが望んでいないことを存在が起こしたとしたなら、それは私たちの望み自体が間違っていたということです。

3.11を悲劇的な凄惨なこととして捉えるのが普通の私たちの感性だとしても、存在はそれすらすべてのはるか上方からそれを起こしていると思えばいいのです。

それを無理やり承諾するのではなく、しぶしぶ仕方なく存在を認めると言うのではだめで、信頼をもって存在が起こすことのすべてを受け容れること。

そんな自分をイメージすることができるなら、それだけで相当に深い安堵がやって来るはずなのです。何であれ、間違いなく誰もが存在の一部なのですから。

そのことについては、完全に平等だということを忘れずにいることです。存在に対して完全に委ねるなんてできないという、そのことすら存在の手のひらの上で起きていること。

そしてあなたの本質は、存在そのものなのですから、もう沈黙するしかありません!

表舞台と内側深くの「場」

自分の中にずっと在り続ける静寂に気づくようになると、表舞台で何があっても戻って来てくつろいでいることができるスペースを持てるようになります。

スペースと表現したけれど、空間というよりも「場」という表現の方が近いかもしれません。実は初めからそれしかなかったのですが、それを忘れて表へ出かけて来たのです。

表舞台は、刺激に満ちていたために、そればかりに注意が向くようになってしまって、そのうちにはその「場」に在ることに気づけなくなってしまったのです。

気づかないだけで、その「場」で在り続けることには変わりはないのですが、表の世界が辛いと感じるようになると、意識のどこかで忘れてしまったものへの郷愁のようなものを感じ出すのです。

きっとこのブログを読んでいる方であれば、それと似たような感覚をかつて持ったことがあるのではないでしょうか?その感覚こそとても大切なものなのです。

そして、最初は表舞台と内側深くにある「場」とが離れているように感じていたものが、次第にそれは間違っていたことにも気づくことになるのです。

表面と中心は実は隔たってはいなかったと…。そうして、表舞台にいながらにして、巻き込まれていながらも、「場」を捉えていることができるようになるのですね。

それは幸不幸を超えた、全く次元の違う何かなのでしょう。少しずつですが、そんなことにも気づきかけてきたことに感謝を感じるのです。

素直が一番

本日、父親の身体を火葬してもらい、あっという間のお別れとなりました。亡くなってみると、いろいろいいところばかりが思い出されるものですね。

母親が一人になっちゃった、と言うので、これからは三人で生きていくんだよと伝えてあげたら、よろしくお願いしますね!と言われて…。

そんなふうに言われて、しみじみ何ていい両親に恵まれたんだろうと改めて感じたのです。自分などよりもよほど、父も母も素直な気質の持ち主なのだと感じたのです。

父親が逝くまえに、本当はあのことを伝えたかった。人は死んでも、自分の本質は死ぬことはないということを…。生まれる前から在ったし、死んだ後もずっと在り続けると。

人生という夢の中でそのことに気づかなくても、死んで夢から醒めるときに誰もがすべてを一瞬にして思い出す。父親はその瞬間に、ほんの少し涙を流していたようです。

だから伝えられなくてもよかったのですね。けれども、独りになった母親には少しずつでも、このことを折に触れて伝えていけたらと思うのです。

生きている間の不安が少しでも小さくなって、その分日々の生活をゆったりとした気持ちで生きてくれたら、それだけで嬉しいのですから。

明日からまた、淡々とした毎日が始まります!

ただ観ていること

自分の人生に何かが起きれば、すぐにその中へと巻き込まれてしまいます。巻き込まれるのは、自分の身体やマインド、そしてハートも含まれます。

そのときに、巻き込まれていると同時に、まずは自分の身体を監視するのです。たとえば、身体のあらゆる箇所の筋肉がいつもと違ったふうになるのを見るのです。

そして身体以上に影響を受けるのが自分のマインドです。マインドはおそらく、巻き込まれることを生業としているので、その気になればいくらでも巻き込まれ続けることができるくらいです。

そのマインドも監視し続けるのです。身体へと向かっていた意識は、それを外に残してマインドへと向かい、更にそのマインドを外へ残したままで、今度はハートへと向かうのです。

ハートが自分自身だという感覚をしっかり監視するなら、最後にはそのハートさえも外へ残して内へ内へと進んで行くことになるのです。

身体もマインドも、そしてハートも自分ではないと排除し続けることによって、最後の最後にはもう他に何も排除するものが残っていないという地点がやってくるのです。

その時に、そうやって排除してきたものの総体こそが、これまでの自分だったということに気づくことになるのですね。

ただ観るものがすべてなくなったときに、ようやく観ているものを観るということが起きるのです。それは論理では起こり得ないこと。

それでも、真実は論理などものともせずに起こしてしまうのですね。

父親のこと

ここ一ヶ月ほど、父親がほとんど食事をしなくなっていて、年齢も年齢なだけに心配していたのですが、体力もなくなって独りで風呂に入るのも億劫になったので、ちょうど一週間前に検査入院させたのです。

やせ細った父親の姿を見ると何だか寂しい気持ちにもなったのですが、本人はどこも痛くも痒くもないらしいので、それはとても救われました。

入院しても点滴をされるだけで、食事はほとんどせずにいて、今日になって病院から連絡があり、駆け付けたときには、もうすでに亡くなっていました。

95歳で亡くなるまで、これまで一度も病気で病院に行ったことがなく、本当に手がかからない、最高の逝き方、まさに大往生でした。

父親は、何も文句を言わない人なので、穏やかでストレスもなく、ほとんど老衰のような感じだったと思います。自分も見習いたいものです。

今、起きたことを独り、噛みしめながらこのブログを書いているのですが、内側はとても静かで安らいだ感覚が広がっていて…。

この数年の間、人の死について、自分なりにずっと見つめてきたことが少しは影響しているように思うのです。もう父親のマインドと会話することはできませんが、マインドが消えて真実へと戻って行ったのです。

それは決して忌み嫌う出来事ではなく、ただ本来の場所に落ち着くことができたということです。長い間ご苦労様でした。真実は素晴らしいのでしょうね。

シンプルな生き方の先にあるもの

幼い子というのは単純ですね。嬉しければ笑い、悲しければ大泣きし、怒るときには全身で怒りを表現するのですから。人生経験がまだ少ないから単純でいられると思うなら、それは当たっていません。

シンプルなのは、一重に無邪気で無防備だからなのです。人は様々な経験を積んでいくことで、自己防衛が深くなってゆき、それだけマインドの病みも深くなり、苦しみも増すのです。

自己防衛の深さに比例して、生き方も複雑になっていくはずなのです。なぜなら、防衛のためには、必ず過度の思考を使うようになるからです。

思考は、物事を複雑に捉えることで活動するようにできています。逆にあまりにシンプルなことは、思考することもできなくなってしまうのです。

もしも大人になっても防衛が小さいままであれば、その人の生き方はとてもシンプルなはずです。会いたい人に会い、会いたくない人には会わない。

行きたいところに行き、行きたくないところには行かない。言いたいことを言い、言いたくないことは言わない。やりたいことをやり、やりたくないことはやらない。

なぜこんなシンプルなことができないのかと言えば、究極的には防衛がその原因だと見抜くことです。不安や恐怖や孤独から自分を守って安心しようとすれば、決してシンプルではいられなくなっていくのです。

そして、シンプルな生き方、シンプルな選択が最後ではありません。まだその先があるのですが、それはシンプルな選択すら必要なくなった状態です。

これは、たとえ幼い子でもできません。なぜなら、こうなるためには無意識であってはならないからです。非常に意識的な状態でいることによってのみ、ただそうあるがままに在ることができるようになるからです。

マインドが閉店ガラガラ

マインドはいつも冷静で、論理的に矛盾していないことを良しとしているのです。だから矛盾していることや、逆説的な非論理的なことに出会うと、思考停止状態になったりするのです。

思考を常に活動させていることでもっているマインドは、思考停止に陥ると、途端に閉店ガラガラ状態になってしまうのです。

それは、「何だかもう分からない」という状態。考えることを越えた何かを感じてしまうと、考えることを観念してしまうのです。

そのときに初めて、今度はハートが開店し出すのです。マインドとハートは、そのようにしてコインの表と裏の関係にあるのです。

思考によってマインドがフル回転しているときには、ハートは閉店しており、感じるということが疎かになっているのですが、思考停止状態になれば、ハートは開くのです。

最上級の思考は、「何だかわからない」というものです。自分の理解を越えているということを理解している思考がそこにかろうじて残っている状態。もうすぐ、閉店ガラガラになりそう。

待ってましたとばかりに、ハートが開店して充分に感じることができるようになるのです。ハートは、マインドと違って分離というものを知りません。

だから、すべての人のハートは一つなのです。けれども、まだその先があるのですが、それが「在る」ということ。考えることも、感じることも消えていったときに、唯一残るのが、「在る」ということ。

存在は、ただ在るのみです。