幼い頃のルール

誰の場合もそうですが、幼いころは一生懸命、精一杯生きています。大人になって怠けているということではないのですが、子供の頃は大人が考えるほど余裕がありません。

沢山のクライアントさんの幼い頃の出来事をご一緒に再体験させてもらっていると、本当にそうしたことを実感することができるのです。

一生懸命というのは、概ね3歳前後くらいから始まって、少しずつ成長するに従って余裕ができてきますが、場合によってはそのまま余裕のない状態で成長する事も充分あります。

例えば、家族の人間関係の微妙な状態をいち早く察して、丸く収まるように取り計ろうとしてみたりするのです。

そうやって自分の気持ちよりも家族の気持ちを優先するクセがついてしまいます。きっと、正直な自分の気持ちを伝えたところでいいことはないだろうと思ってしまうのです。

そうすると、知らぬうちに自己犠牲を強いることが日常的になっていきます。例えば買って欲しいものがあるのに、それを言い出すことができなくなったりするわけです。

当時の幼い本人としては、誰に教わったわけでもないのに、自分はこうするべきというようなルールが早くも出来上がっていて、それに従って毎日必死に生きるようになるのです。

本当は、買って欲しいということを何度も伝えることをすれば、親はもしかしたら買ってくれたのかもしれないのですが、そうしたルール違反をしなくなってしまうのです。

そして、大人になって自分は欲しいものを買ってもらうことができなかったという記憶だけが残ってしまったりするのです。

子供の頃に必死で生きていたときに従っていたそのルールや思い込みをもう一度じっくりと見直してみることはとても大切なことです。

そうして、別の角度から過去を振り返って見てみると、当時は気がつくはずもなかった全く違う生き方があるということが分かってきます。

その新しい生き方を利用して、イメージの中で過去を書き換えることで大人の自分が呪縛のように抱えていた様々なわだかまりなどを手放していくことができるのです。

あるがままを受け入れる その2

あるがままを受け入れると言っても、何でも丸ごと信じるということでもないし、相手の言いなりになるということでもありません。

自分が見たり聞いたりしたこと、つまり知覚したことをそのまま受け取るということです。解釈や判断をすると、そこに必ず拒絶が入り込んできてしまいます。

なぜなら、私達が何かを判断するときには自分の心の中に巣食っている恐怖を基にしてしまう傾向があるからです。

よく誰かの意見に対して賛成か反対かを問われることがありますね。そうした場合、あるがままを受け入れるとすると、正直自分の中では賛成でも反対でもないなということがあります。

どちらでもないなんて、自分というものを持っていないし優柔不断だよと思われてしまうかもしれませんが、判断しないでいるとそんな感じになるのです。

否定をしないという気持ちになりますので、反対ではないのでどちらかというと賛成の方に回るということになるのでしょう。

しかし、この状態はノーを言うことができないイエスマンとも違います。なぜなら、はっきり断ることができない人の場合はその裏には恐れがあるのです。

また、あるがままを受け入れるとは比較するということからも遠のきます。何かと比較してしまうと、必ずそこにはなんらかの評価結果が出てしまうからです。

もともと、比較する目的は解釈や判断するための材料を入手するためなのです。ですから、比較しておいてそのままを受け入れるということは不可能な事ですね。

どんなことでも、そのままを受け入れるということは現実的ではないと考えがちですが、きっとこうしたことも日々練習を積むことで慣れていくはずです。

そうした心の筋トレを是非続けていきたいと思います。きっと、周りで起きることに心がざわついたり、いやな反応を起こすことが激減するはずです。

あるがままを受け入れる

セラピストの仕事をするようになって、メインは催眠療法になるのかなと思いきや、意外にもヒーリングのセッションを数多くすることになったのです。

今でこそクライアントさんの数が減ってしまいましたが、以前は忙しいときは一日に4人のクライアントさんに連続でヒーリングをするということも結構あったのです。

もしかしたら二千回くらいは今までにヒーリングのセッションをしてきたかもしれません。それだけ繰り返してくると、何度も不思議な体験をしてきました。

最もオーソドックスなものは、クライアントさんが今までに体験した記憶が映像としてそのまま私の心に浮かんでくるというものです。

なぜだか分かりませんが、急に目の前にかなりリアルな映像が見えることがあります。それは特に取るに足りないような画像だったり、あるいはちょっとびっくりするような映像だったりと様々です。

残念ながらなぜそれが突然見えてくるのかということまでは分からないのですが、ごくたまに何となく気になる場合にはクライアントさんに聞いてみることもあります。

大抵は思い当たることがあると言っていただけるのですが、それがそのまま癒しにつながるようなことはほとんどありませんでした。

そうした映像は目をつぶっている時に心の目に映るような感覚なのですが、一度肉眼ではっきりと不思議なものを見たことがありました。

うつぶせになっているクライアントさんの背中の真ん中に、ギョロリとした人の目が見えたことがありました。それが何だったかはその後のクライアントさんとのセッションで判明しました。

自分の感覚ではこうした経験が特別なものであるようには思っていません。一般的に、私達は日常的にいろいろな経験をしているにもかかわらず、そのうちで自分が合理的に説明できるものだけを認識しているのです。

つまり、説明しづらい経験を無意識的になかったことにしてしまうような癖があるということです。今の仕事をするようになって、体感することは丸ごと全部受け入れようと明示的に思うようにしたのです。

その後からこうした不思議なことを自覚するようになったのです。自分がどんな経験をしてもそれを頭で解釈せずに全部受け入れると決意することで、今まで以上にいろいろな経験ができるはずです。

そしてそれこそが、すべてをあるがままに受け入れるということに繋がるのではないかと思っています。

躾(しつ)け

今年25歳になる息子と久しぶりに一緒に夕ご飯を食べている時に、話しの流れで彼はとってもびっくりするようなことを言いました。

それは、「自分の辞書には頑張るとか努力するとかというのがない。」というものです。なぜそれを聞いてびっくりしたかというと、自分と全く同じだったからです。

しかし、どう考えてもそんなことを息子に言ったこともないし、何かそういう信条を持つようにと躾けた覚えも全くないのです。

どちらかというと、自分は躾けということをあまり考えたこともありませんでした。ただ、何となくデレデレとした感じで子供と接していたと思います。

それなのに、なんで自分と同じ考えが成長した息子の口から出るんだろうという事が、本当に不思議に思えたのです。

親子と言えども別々の人間であるし、そんなに似るものだろうかと苦笑してしまいました。そういったことまで、実際人というのは遺伝するのでしょうか。

親がとりたてて子供に大切なことを教えようとしなくても、子供は親の心を敏感に感じ取ってしまうのかもしれません。

そしてそれは、伝えたいことであろうとなかろうと。親自身としては、これはまねされたくないなと思っていたとしても。

親の生き様というのは、身近にいる子供には手に取るように分かってしまうものなのでしょうね。いまさらながら、隠せないものなんだなと思い知りました。

子供にとってすべてに優先されるべきこととは、きっと親の心が穏やかないい状態でいるということなのかもしれません。

結果に意味はない その2

結果に意味はないなどと言われてしまったら、頑張って成果を出そう、結果を残そうと思っている人にとっては困ってしまうかもしれません。

なぜならこの世界は、すべての人同士が深くかかわることなど到底あり得ないですから、目に見える結果によってのみ自分のことを評価してもらえると思っているからです。

全く知らない人や少ししか自分のことを知らない大勢の人たちに、自分を高く評価してもらうためには成果を上げる以外に手立てがないのは確かです。

だから結果に意味は充分にあるし、やり遂げた成果こそが自分を正当に評価してもらう唯一の尺度になると考えるわけです。

プロのスポーツ選手であれば、残した結果が次の年棒に大きく影響してくるわけです。金メダルを獲得するのと、敗退してしまうのとではその後の人生での周りの評価は大きく違ってきます。

しかし、やはりここでも大切なことは自分がより幸せになれるかどうかということに尽きます。食べていけないくらいに収入が低ければ、少しでも多く報酬をもらえるようにと頑張るでしょう。

でも、もう充分に稼いでいると思われるような選手でも、頑張って結果を出そうとするのはどうしてでしょうか?

結果にこだわるのは実はお金の問題だけではないからです。人からの評価をできるだけ高くしたいという気持ちが強いからです。

その心の奥にはやはり見捨てられたくないという恐れの気持ちが隠されていると思います。評価を上げて、自分の価値を高めることで安心しようとするのです。

しかし、優秀な成績を残した選手や人物がみんなそうだと言うつもりはありません。ただ大好きな競技や研究を続けた結果、評価されるような成果が出たという人もいるでしょう。

そういう人は高い評価をいただけばそれなりに嬉しいはずですが、それはただそれだけのことだということを知っているはずです。

大切なことは心が継続的に満たされているかどうかという一点なのです。人からの評価は一過性のものに過ぎません。結果よりも過程であり、心の在りようがすべてということです。

結果に意味はない

冬季オリンピックの開催中ですね。テレビのニュースなどで時折結果を見る程度なのですが、オリンピックは参加することにこそ意味があると言われた時代もありました。

しかし、報道のされ方などを見ていると結果がすべてだと明らかに言っているように思えます。金メダルを獲った選手と30位の選手では確かに扱いが違うのは仕方のないことですね。

その選手との人間的な係わりが少なければ少ないほど、結果がすべてという方向に行ってしまいます。なぜなら、結果以外に評価するような情報が少ないからです。

それがもしも、選手が身内であれば結果よりも本人の努力や練習の過程などを評価できますし、場合によっては怪我をせずに競技を終えてくれたらそれで嬉しいと思うかもしれません。

このように、応援の仕方、つまり結果重視かそうでないかというのは、応援する側と選手との係わり具合によって違ってくるということです。

これは何もオリンピックなどの競技に限ったことではありません。この社会における他人の評価というものも全く同じなのです。

例えば、ノーベル賞を受賞した人は当然高い評価をされて当然なのですが、もしかしたら身近で一緒に研究をしている人たちからは敬遠されているかもしれません。

私達は人を愛の目で見るときに、その人が成し遂げた成果や結果に捉われなくなります。幼い子供が何もできなくても愛しいのはそういうことです。

我が子を愛しいと感じるときに、100点を取ることができたからという理由ではないはずですね。かけっこでビリであろうと、愛しいのです。

自分が誰かのことを見るときに、その人のことをほとんど知らなければ成果を基に評価するしかありません。だから結果が大事というように短絡的になってしまうだけです。

そのことを否定的に思う必要はありませんが、そこには愛はないということを覚えておくべきです。そうすれば、パートナーを見つけるときに間違うことはなくなるはずです。

結果には本質的な意味は一つもありません。愛は結果に特別な意味を見出さないという事です。愛の対象は相手の存在であり、相手の中にある愛そのものだけなのです。

被害者のメリット その3

昨日のつづきです。

被害者の立場でいることや、被害者に加担して正当に加害者を攻撃できる立場というのは、どちらも訴え続けることができるというメリットなわけです。

昔、お笑いのダチョウ倶楽部の決まり文句で、「訴えてやる!」というのがありました。こうした言葉をお笑いとして笑って済ませられると問題はありません。

ところが、アメリカの訴訟社会のようにすぐに訴えを起こすようなことがまかり通ってしまう世の中というのは病んでいるとしか言いようがありません。

しかし冷静に考えて、相手に文句を言ったり訴えたりすることがどうしてメリットになるのでしょうか?その答えを見つけるには、人生の幼い頃に目を向ける必要があります。

人は誰でも加害者になれば、相手から否定的な目で見られ、嫌われ、見捨てられてしまうという思いを持っています。

そのために、その真逆な立場を手に入れて安心しようとするのです。被害者でいれば、そのために見捨てられるという心配は通常しなくてもいいわけです。

これは見捨てられる恐怖を持っている心にとっては最大のメリットであるといってもいいかもしれません。

ですから、私達は無意識的に自分の周りの人に罪があると思いたい心を持っているのです。罪深い人は責められて当然ですし、その相手から被害を被った自分は絶対に見捨てられないですむからです。

幼いころのこうした思いが大人になってもずっと続いてしまうと、いつまでも被害者でいたいと思ってしまうのです。

勿論、被害者である限り本当の幸せなど到底手に入れられるはずもありません。自分の心の中を見つめて、人に文句を言いたいと思っている意識があるならそれが被害者のメリットを求めている意識です。

人生をより幸せなものにしたいと望むのであれば、そのメリットを求める気持ちをしっかり受け止めてあげることで、そのパワーから開放されるようになって幸せを妨害していた被害者の人生からも開放されることになります。

被害者のメリット その2

昨日のつづきです。

昔、成田空港建設のときに地元住民が大反対をして政府と戦っている時に、いち早くかけつけてその反対運動を支援した人たちがいました。

○○派というように言われていたその人たちは、ヘルメットをかぶってタオルで顔を隠した格好をして地元住民に混じって闘争していました。

彼らは空港が完成して地元住民の方々が闘争から手を引いた後でも、現地に残って戦っていたように記憶しています。

彼らのこのような支援活動は、住民である被害者に加担することで、自分も一緒になって加害者を攻撃し続けられる立場を獲得した行為だったわけです。

これを書いていて思い出したのですが、私が大学生のときに授業料値上げなどの理由で、試験をボイコットして立てこもり、デモをしたことがありました。

今思い出すとこれも被害者のメリットなのですが、このときも成田と同じようにヘルメットとタオルで覆面した人たちがどこからともなくやってきたことがありました。

勿論ヘルメットも顔隠しも必要ないとして追い出したのですが、そういう人たちは正当に誰かを攻撃する機会を探してるんだなと思ったものです。

最近では、日本の捕鯨船に攻撃をしかけてくるオーストラリアの反捕鯨団体のことが頭に浮かびました。クジラを被害者と捕らえて、加害者である日本の捕鯨船に攻撃して、被害者のメリットを享受しているわけです。

私は幼いときに正義の味方という自覚もあったし、実際にそうした行動もとっていたのですが、あれも被害者のメリットだったのかもしれません。

つづく

被害者のメリット

世の中には被害者意識の強い人というのがいますね。みなさんの周りにもいるのではないでしょうか?ああ、あの人のことだと思い当たる人が必ずいるはずです。

そう言う人は周りからあまり好ましく思われてはいないはずです。なぜなら、大抵は自分がいやな目に遭ったとか、理不尽な思いをしたという話しばかりするからです。

自分が被害に遭ったことばかりを立て続けに訴えるわけですから、聞いていて気持ちのいいもののはずがありません。

しかし、本人は本当にひどい目に遭ったのだから仕方ないだろうと思っているはずです。また、そうした出来事を公言しない人の場合でも、心のなかでは被害者の意識が強いという場合もあります。

いずれの場合にも、被害に遭って自分はとても苦しんでいるという自覚があるわけです。その人の身に起きていることそのものを見ると確かに被害を受けているわけですから同情もできるかもしれません。

ところが心の奥では、本人が気づいていようがいまいが、被害者であることの捨てがたいメリットを享受しているのです。

被害に遭うということは、自動的に相手を加害者の立場にすることができるわけで、そうするといつまでも相手を非難し続けることができるのです。

自分は決して悪くない、逆に相手は罪深いという絶好の立場を手に入れるわけです。この有利な立場こそが被害者のメリットです。

大した被害に遭うことができない場合であっても、無理やり自分を被害者の立ち場にしてしまう人もいます。クレーマーと言われる人はそれに当たります。

ほんのちょっとしたことでもすべて文句を付けるネタにしてしまうわけです。そうやって、とことん相手を責め続けるのです。

つづく

お金への怒り

幼い頃に親が辛い思いをして仕事をしている姿を見たり聞いたりしていると、お金への怒りを持つようになっていきます。

お金を手に入れるために、大切な両親があれだけ苦労している、その姿がかわいそうに思う分だけお金のことが憎たらしくなってくるのです。

お父さんが仕事から帰ってくるといつも不機嫌だったとか、お金を手に入れるためには大変な我慢と努力が必要だということを徐々に親から学ぶのです。

そうやって、お金を稼ぐということは厳しいことなのだという決め付けをしてしまいます。だからこそ、楽にお金を稼いでいる人に対して怒りを感じるようにもなるのです。

お金に対する恨みつらみといった感覚は、大抵の場合自覚することはできません。ただ、お金に対する漠然とした違和感のようなものとして自覚することはできるかもしれません。

そうなると、大抵は次の二つの傾向が強くなるのです。一つは、お金への執着が強くなって人よりも沢山金儲けしたくなったり、お金を稼ぐということにエネルギーを費やすようになるのです。

そして沢山稼いだお金はかたきのようにして浪費にまわされてしまうのです。無駄とも思えるようなものを次から次へと買い求めることになります。

そしてもう一つは、お金への拒絶感によって、常にお金から離れようとする人生になってしまいます。それは、お金が足りなかったり、お金を沢山手に入れることに罪悪感を感じるようになったりするのです。

この二つは端から見ると両極端であって全く相容れない考え方のように見られがちですが、実は同じ一つのお金への怒り、執着から発生するものなのです。

本来お金そのものには何の意味もありません。ただ私達が少なからずお金への執着を持っているということです。

お金は敵ではないし、忌み嫌うべきものでもないはずですね。そのことを充分に分かってあげることで、お金との相性がよくなり、お金はほかのものと同じように必要なだけ入ってくるものなのだと分かるようになるはずです。