気づく前の自分が懐かしい

今日は特別に書きたいと思うことがないなあと思って、これまで書き綴ってきたこのブログの過去記事をちょっとだけ見返していたのです。

すると、ちょっと感慨深い気持ちになったのですね。というのも、ほんの数ヶ月前までの自分と今の自分があまりにも違うことに気づいたから。

15年に渡るブログの歴史の中で、少しずつ何らかの変化があったとしても、概ね一貫した内容のことを書いていたのです。

ところが、非二元のちょっとした気づきを境に、足元から根こそぎ覆されたような感じになってしまったのです。

今となっては、これまでの自分が妙に懐かしく感じるのです。それと同時に、もう二度とあそこには戻れないのかなあと。

あの頃は無邪気に覚醒したいと思っていたなあと。それ以外には、何の望みもなかったのに、今はそれさえも取り上げられてしまった感じで。

誰とどんな話をしても、その全てが物語でしかないということを深く感じてしまうので、会話の腰を折らないようにと。

ふと思い出されるのは、今年の春頃、新居が完成する前の数ヶ月間、近所のアパートの一室でやたらと毎日瞑想ばかりしていたこと。

今更ですが、なんで実体がないことなんかに気づいちゃったんだろう??

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こちらの動画も是非ご視聴ください。

主観も客観もない

事実というのは、今すでにある「これ」のことです。イメージによって仮想的に作られた空想の世界とは違うものです。

そして事実には、主観的事実というものがあります。私にとっての事実であって、他人にとっては定かではないようなもの。

宗教というのは、この主観的事実に基づいているということが言えると思います。またその逆に客観的事実というのもありますね。

要するに、普遍的で誰にとっても共通する事実のことです。科学というのは、当然の事これをベースに成立するものです。

ただし、よくよく見てみると客観的事実というのは個人にとっては、やはりイメージなんですね。なぜなら、直接体験ではないからです。

地球は太陽の周りを回っているという事実を、私たちは直接的に体験することはできないからです。

つまり、突き詰めれば個人としての我々にとっての事実というのは、主観的な物だけになるということです。

その上で、非二元では主観も客観もどちらもありません。なぜなら、主観を持つ当事者が不在だからですね。

何だか分かりにくい話かもしれませんが、本当はすごくシンプルなんです。何もないし誰もいないので、ただあることだけがあるのですね。

「見えたまま」は難しい

「見えたままをそのままには見ていない」ということを表現しようとして、このブログの最後に以前撮影した動画を添付しました。

この動画のサムネイル画像を見て欲しいのですが、多分誰もがこの画像を見て、「ああ、バイクに乗っている人の視線だね」と思うはずです。

これがもうすでに、見えたままを見てはいないということなんですね。簡単に言ってしまえば、なんらかの説明をしてしまっています。

私たちは、何かを見ると必ずと言っていいぐらいに無意識的にそれについての説明を始めてしまうのです。

ただ眺めるということが、ほぼできなくなってしまっているんですね。この画像であれば、走っている場所を想像したりもしますね。

他に誰も写っていないので、空いてていい道だなとか、きっと男性がバイクを運転していて、こんなヘルメットをかぶって等々。

勝手にドンドン妄想が膨らんでいくわけです。けれども、本当は誰もバイクを運転してるわけでもないし、バイクもありません。

びっくりするかもしれませんが、そのようなものが見えているという感覚だけがあるというのが、本当のところです。

バイクの一部が見えているとか、乗っている人の手首から先が見えていると決めてかかっていることにも気づかないのです。

何も知らない赤ちゃんの目は、きっとそんなふうには見えていないはずですね。 

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直接体験だけがある

昨日のブログでは、直接体験だけを頼りに生活している、アマゾンの少数民族ピダハンにまつわることを書きました。

なぜ彼らが世界一幸せな民族と言われているかというと、きっと驚くほどシンプルな生き方をしているからなのだろうなと。

彼らにとっては過去も未来もないし、見えている世界だけが彼らの住む世界なのですね。だから、ストレスとか気を揉むといったことがほぼないのですね。

彼らが特別な世界に暮らしているわけではなく、私たちと全く同じ世界にいるのですが、その違いは歴然としています。

私たちは、これまでの過去の体験を全部背負って生きているし、未来という不安要素も捨て去ることができずにいるのです。

そしてもっともっとという生き方から離れることができなくなってしまったのですね。人生は単純だねと感じている人は少ないのではないかと。

「複雑な人生=苦悩」というわけではないと思うのですが、少しでもピダハンたちを見習うことで、もっと穏やかで楽しい人生に持っていけたらなと思うのです。

そしてもっと究極的なレベルまで現実を単純化したのが、非二元ということになるのですが、それに気づいているだけではピダハンのようには到底なれませんね。

「イビピーオ」を思い出す

以前このブログでご紹介した、アマゾンの少数民族「ピダハン」の生き方が、やはりとても興味深いのですね。

忘れてしまった人のために、以下が過去の記事です。ちなみに、このブログの検索窓に、ピダハンと入力して検索していただくことも可能です。

ひねくれ頭 – ヒーリング オフィス ルシッド

世界で一番幸せな民族 – ヒーリング オフィス ルシッド

彼らの生き方というのは非常に単純で、目の前にある、あるいは目の前で起きていることだけを信じているのです。

だからこそ、隣村から誰かがやってきた時には、みんなで「イビピーオ」と叫んで、その人の出現を見守るわけです。

それまで隣村の人のことなど全く頭に浮かばないということでしょうね。そして、その人が帰っていく時にも同様にして「イビピーオ」と叫んで、その消滅を表現するのです。

つまり、世界一幸せと言われている彼らにとって、直接体験していることだけが「世界のすべて」だと気づいているということです。

それに比べて、私たちの生活のほとんどは直接体験以外の仮想的なことに、多くのエネルギーを費やして生きているのですね。

そして最近さらに気づいたのは、直接体験の中でさえ、私たちはたくさんの概念やら観念やら思い込みなどで創作してしまっているということです。

そこに気づくことができると、非二元のことが薄々分かってくるはずですね。

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自我どころか、この身体も世界もなかった!?

この仕事をするようになって、自我という虚構がどのようにして作り上げられたのかにとても興味を持つようになったのですね。

私の勝手な想像でしかないのですが、乳幼児の時代からずっと、自我として生活している親などの存在を真似ることで、無自覚のまま次第に自我を作り上げるのだろうなと。

わかりやすく言えば、自我というのは他の自我の目線で自分自身を見ているのです。他人の視点を用いて、自分を見ているということ。

あるいは、他人はその身体の中に本人がいるように見えているために、自分もその身体の中にいるように妄想するわけです。

そしてこうした思い込みが強い信念となって、それを疑うことなく生活するようになってしまうということです。

自分以外の誰か(の自我)がなければ、自分という自我も決してでっち上げることはできなかったということです。

身体の中に自分がいるという思い込みがなくなることってあるのでしょうか?不可能ではないかもしれませんが、相当に難しいことでしょうね。

そうした強い思い込み、信念から解放されたくてずっと瞑想を続けてきたのですが、今度は自我どころか身体も外側にあるはずの世界も、その全てに実体がなかったとなって…。

何もかもお手上げ状態で生きていくしかない。そうして本当に諦め尽くした時に、何かがフッと明確になるのかもしれませんね。

全く意味のない奇跡的な体験

中学生か高校生の頃だったと記憶しているのですが、確か夕方一人で家にいる時に電話がかかってきたのです。

昔懐かしいあのプッシュホンの電話機ですね。受話器を取ると、いきなり「ピーポーパー♪」っていう大きい音がしたのです。

えっと思って、「もしもし、もしもし」と言うと、まだまともに喋ることができないくらいの幼い子の声で「ハフハフ、ホニョホニョ」と言っているのです。

これ、ひょっとして赤ちゃんじゃない?と。誰かがイタズラで自分の子供に喋らせて、後で実はといって出てくるのかなと。

でも、いつまで経ってもずっとわけのわからない幼い子の声が、耳元で囁くように聞こえてくるのです。

これはもう仕方ないなと思って、こちらから電話を切ったのです。後で、何が起きたのかを反芻していて驚いたのです。

というのも、親が電話をかけるのをマネをして、赤ちゃんがランダムに電話機のプッシュボタンを押してるわけです。

その押す順番が、奇跡的に我が家の電話番号になっていたということで。これは、相当に驚くべきことではないかと。

その確率をざっくりと計算すると、もしも都内のどこかからの電話であれば、当時は7桁だったので、プッシュボタンの個数が3×4=12なので、12の7乗は約3600万分の1です。

もしも、東京以外の場所からであれば、03を追加するので、12の9乗なので、なんと約52億分の1になるのです。

日本以外のどこかの国からであったなら、81をつけて、03の0を取るので、10桁の番号になるので12の10乗ですから、その確率は約620億分の1となるのです。

これはもう天文学的な数字ですので、宝くじが当たる一生分の運を使ってしまったかなあと思ったり。

というわけで、全くなんの意味もないヨタ話でしたが、不思議なことってあるものですね。

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物語(空想)が大好き

昨夜は、数時間もの間欧米の映画をテレビで観て楽しみました。ハラハラドキドキする内容だったので、あっという間のことでした。

現実では到底経験できないような出来事が、あたかも自分の目の前で繰り広げられているように思えるので、夢中になってしまうのですね。

誰もが、映画やテレビの中の物語に夢中になってしまうのは、私たち人間の持っている特徴と言ってもいいと思います。

つまり、物語がとても好きなのです。現実がつまらないということではないにしても、現実にはとても起きそうにないような魅力的なことを、空想の世界で擬似体験できるのです。

これが現実と物語(作られたもの)の違いですね。けれども、実は現実だと思っていることの中にも、多くの物語が入り込んでいるのです。

というよりも、現実(ただあること)よりも、物語(作られたもの)の方が圧倒的に多いことに気づいていないのです。

あなたの世界は、今あなたが体験できる領域だけなのです。それ以外の領域は、空想によってそれがあると信じているに過ぎません。

信じることを全てやめて、あらゆる空想をそれと見抜くことができれば、現実は非常にシンプルなものになってしまいます。

それがどれだけつまらないと感じたとしても、それはそのようにあるだけなのですね。

因果はない

誰もが最も求めているものは何かと言えば、それは究極の自由さと理由のない継続的な深い安心感なのではないかと思うのです。

そしてきっとその二つは、手を携えてやってくる気がします。ところが、それを求めているということは、それがまだ手に入っていないと感じているからです。

なぜなら、その二つを阻んでいるものがいるからです。それは他でもない「私」という自我なのですね。

だからこそ、覚醒して自我から解放されることを目指して瞑想をしていたわけです。ところが、非二元の気づきがやってきて、覚醒できる誰もいないことが判明したのです。

不自由であったり不安に苛まれる自己などいないと分かったのに、自我が衰えた感じはほとんどしないのです。

これは一体どうしたことなんだろう?というのが最近の問題ですね。そして、現実というものの本質を見抜いたとしても、それで何かが変わることもないんだなと。

気づきは特定の誰かに起きたわけではないのです。なぜなら、特定の個人はいないのですから。そして、非二元ではどんな因果もありません。

時間がないのですから当然と言えば当然。だから、何も変わらなくてもこれもまた当然なのかもしれないですね。

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非二元とワンネスの違い

非二元の質問の中に、いわゆるワンネスとの違いってなんですか?というのがあったのですが、それはもっともな質問だと思います。

というのも、非二元を謳っている動画をあれこれ観ても、非二元の衣を着たワンネスなんじゃないの?というのがとても多いのです。

つまり、ワンネスと非二元がごちゃ混ぜになってしまっているなあと。もちろんこんなものに、正しいも何もないので本質的にはいいのです。

けれども、私なりに感じているのは、ワンネスの方は自我の延長上にあるものであり、これは概念でしかないなと。

ワンネスは自我から見たら、純粋な真実の愛と言葉を変えてもいいくらいの理想郷なのですね。究極の幸福感とでも言えばいいのか。

一方の非二元は、血も涙もない世界なのです。ただ血も涙もなくても、それを残酷な悲惨な世界だと感じる誰もいないのです。

非二元にはどんな概念も観念もないのです。ワンネスの世界である全体性というのは、やっぱり概念なんですね。

ただし、くどいようですが非二元がワンネスよりも上だとか、真実なんだとかっていうことも全くないということですね。