自我に不満はつきもの

本来の私たちが生きるためには不満は必ずしも必要ないし、そんなものはない方がいいとさえ思っているものです。

けれども、私たちの自我にとっては不満が生きる支えになっているのです。不満、つまり満足していない、不服だという状態ですね。

なぜなら不満があればそこと闘うことができるし、その闘いのエネルギーが自我を活性化させ続けてくれるからです。

ところが、幼い頃に、つまり自我が立ち上がった頃に不満がなかったと言う人がいるのですが、それは不可能なことだと知ることです。

もしも子供の頃に親兄弟に対して不満がなかったとしたら、それは単にその不満を抑圧していただけだと理解することです。

人間誰もが天使のような理想的な存在ではなく、逆に自我として生きているわけなので、不満は絶対的に必要なのです。

不満を抑圧してしまった具体的な理由は個人個人で違うかも知れませんが、いずれにしても自分の不満とは向き合ってこなかったということです。

大人になって子供の頃の不満をしっかり思い出して、そこにリンクされているあらゆる感情を味わうことができれば、今起きている問題は自然と解消されていくはずですね。

あざとい? or いじらしい?

今から40年以上も前に発売された曲で、「まちぶせ」という荒井由美作詞作曲の歌があって、たまたまネットで見つけてクルマの中で聞いています。

当時からメロディが好きでいい曲だなと思っていたのですが、「まちぶせ」というちょっと物騒な題名も人の気を引きますね。

当時可愛らしかった石川ひとみさんが歌っているのですが、内容が凄まじいのです。お目当ての彼を射止めるための策略がすごい。

彼に振り向いてもらうために、他の人からもらったラブレターをさりげなく見せたり、帰り道に偶然出会ったように待っていたり。

とにかく自分の方からは直接は言い寄ったりしないというポリシーがあるらしい。これって、惨めな思いをしたくないという防衛ですかね。

若い女の子のかわいらしい争奪戦?と思えばいいのかも知れませんが、戦術とか駆け引きとかそう言ったものから遠い人生を生きてきた身としては、大丈夫か?と思ってしまうのです。

架空の話しではあるのですが、まあまあありがちな内容なのかも知れないと思うと、その子の自我のいじらしさを感じてしまいます。

そういう本人なりの努力をしている姿というのは、あざといと見る人もいるだろうけど、私などは報われるといいねと思ってしまいます。

ただし、報われたとしてもそこから純度の高い愛が育っていかなければ、きっと誰も幸せにはなれないことを知って置いて欲しいなと。

人生は楽しむためにある

人生というのは何か特別な目的があるわけではないということ。ただ無理やり目的を持たせてしまうのが自我のやり方ではあるのですが。

目的がないならどうしたらいいのか?それはただ楽しめばいいということです。何が起ころうともそれを楽しむ余裕があれば素晴らしいですね。

楽しむためのコツはいろいろあるのでしょうけれど、すぐに実践できるかどうかは別として物事に拘らないというのが一つあります。

どちらが勝ってどちらが負けたのか?どちらが正しくてどちらが間違っているのか?どちらが得してどちらが損をしたのか?どちらが価値があってどちらが価値がないか?

こういうことを日夜考えつつ生きると、なかなか人生を楽しむというモードにはなりにくいはずです。

こだわると深刻になりがちだからです。どちらが?ではなくて、どっちでもいいんじゃないの?という態度。

問題を見つけては解決するという繰り返しから、そもそも問題視せずに生きるようになれば、楽しむことがより身近になるというのもありますね。

人生を楽しむためのまた別のコツは、当事者意識を小さくすることです。物語の中にハマり込まずにいられるようにするのです。

この場合も深刻さとは無縁になりそうですね。できるだけ意識的であり続けることができるなら、当事者から離れて見守る側になれるのです。

日々自分がなるべく気楽になれるように工夫してみるのは、きっと効果があると思います。どうせすぐ終わる人生、大いに楽しんで死ねるといいですね。

観念して降参する

希望という言葉を使えば聞こえはいいですが、要するに自分に都合のいい現実を引き寄せたいと願っているのです。

そしてその世界にのめり込めば込むほど、自我ワールドが全開になるという寸法なわけです。まあ上手くできてるなあと。

自分の願い通りの現実がやってきたとしても、本当はそれで人生が満たされるなどということは決してないと分かっているのですが。

ただそこまで気づいているとしても、またしばらくすれば少しでも損をすることなく、上手くいく人生を手繰り寄せようと必死になるのです。

こんな夢の如き世界で、一体何を求めて翻弄させられているのだろうと思うのですが、また明日になると同じことをやるのです。

極端なことを言えば、10億円の宝くじに当選していたことを期限切れの翌日に気づくとか。諦めきれない地獄の苦しみ。

その時に目が覚めるのではないかと。そこまで振り回されたなら、そのことのバカバカしさ全体を思い知ることになるのです。

そしてようやく観念して降参することになるのでしょうね。その時のマインドの静寂さが想像できます。これ以上の平和はないだろうと。

今を思い切り楽しむ

私は普段買い物をする時にはどんな少額でもクレジットカードを使うのですが、決まって何回払いかを聞かれるのですが、あれかなり鬱陶しいです。

クレジットの意味は元々信用の意味なので、ローンという考えが前提で作られたのでしょうから仕方がないとは思うのですが。

私は単に小銭のやり取りをして手を汚したくないということと、レジでもたつきたくないだけなんですけどね。

幸か不幸かこれまでの長い人生の中で、ローンを組んで何かを購入したことがないので、そういう発想すら持っていないのです。

何か欲しいものがあってもその瞬間に手に入れることが不可能ならば、それ以上考えないというのが身についているのです。

欲しいな欲しいなと思ったとしても今は無理と考えてしまうのです。そしていつかそれが手に入る時期が来たら買おうと。

それなのに世間では、どこの誰が考え出したのか知りませんが、ローンという手があるのですね。天才的な手法だと思います。

そのおかげで高額なものでも誰でも手に入れられるのですから。ただ私としては、自分が生きているかどうか分からない未来まで支払いが続くというのが考えにくい。

こんな私のような発想の人ばかりだったとしたら、きっと経済は今のような発展を遂げてはいなかったでしょう。

ただローンを払うのは未来の自分に任せて、今手に入ったものを思い切り楽しめばいいという考え方もありですね。

自我は「私」の練習台

私にとって最も理解に苦しむのは「思考」の存在であり、その思考が生み出した「自我」と言ってもいいと思っています。

この自然界の中で、一体全体思考とは何なのだろう?と思わざるを得ないのです。一つのエネルギーの形態だと言えなくもないのですが。

この宇宙を形作っている物質は、すべてエネルギーの一つの形態であるということは、あの有名なアインシュタインの E=mC2 として知られています。

エネルギーの大きさは、物質が持つ質量に光速の2乗を掛けたものなので、たとえ小さな砂粒一つをエネルギーに変えるとしても、とてつもないエネルギーになるということですね。

エネルギーというと一般的なイメージは何らかの力、パワーを思い浮かべると思うのですが、思考が単なるパワーとは思えません。

話しを元に戻して、自分がイメージしているこの自然界に思考が存在するというのが不思議というか、どうしても違和感があるのです。

そしてその得体の知れない思考から、もっと不可思議な自我が作られたのですから、これはもうその驚きは表現のしようもないくらい、奇跡的なことだとも言えます。

ただその自我が生まれたおかげで、人類だけが擬似的な「私」を体験することになったわけです。これこそが覚醒への唯一の道なのだと。

なぜなら、唯一「私」を名乗れるのは私たちの本質である純粋な意識だけだからです。その「私」は勿論全体性のことであって、個人ではありませんが。

受け身の存在として在る

誰でも一度や二度、人生とは一体何のためにあるのだろう?と考えたことがあるのではないでしょうか?

特に若い頃というのは、自分の人生が今後どうなっていくのか不安だったり、やりたいことが見つからずにあれこれと迷ったりすることがあるはず。

年齢に関わらず自分の人生の目的が分からないという人もいて、それを知りたいという目的でセッションに来られる人もいます。

かく言う私も、ずっと自分は何がしたいのかが分からずに生きてきました。だから確たる目的を持って生きている人が羨ましかったです。

けれども、人生に目的があるとすると、つまり何かを達成するために人生を使うとすると、人生を手段として捉えてしまうことに気づいたのです。

それがどうもしっくりこないというか、腑に落ちない気がして。その後ようやく、人生というのはそれ自身が手段でもあり目的でもあるということに気づいたのです。

自我(思考)というのは、どうしても目的志向になってしまうため、手段と目的が一つであることが分からないのです。

自分がいてそこに人生があるのではなく、自分自身も生の一部であることを知ればいいのです。そのためにはoshoの言葉に耳を澄まして、あるがままでいることですね。

ただそこにいなさい、受け身の存在として
自分をひらいて
耳を澄ましながら
ただ見ている
何も考えることなく–

永遠に今この瞬間にただ在る

自我として生きている私たちは、普段はいつも時間の流れを感じながら生活しているのです。何かに没頭したり熱中しているときはその限りではないですが。

時間の中にいると思えば、たとえ1秒前でもそれは過去になるし、たとえ1秒後であってもそれは未来になるのです。

そう考えてみると、過去と未来しかないように見えますね。つまり、ちょうど過去と未来の境目である今この瞬間は、まさに瞬間でしかないのです。

それなら過去か未来にばかり思考が行ったり来たりしてしまうのも尤もなことだと分かります。じゃあどうすれば、その境目の瞬間にいられるのか?

直立した三角形の頂点にボールを静止させておくのがほぼ不可能なのと同じような気がします。どちらかサイドに転がり落ちるのは明白です。

けれどももしも重力の影響下から抜け出したなら、頂点にボールを静止させておくことは可能だと分かります。

それと同じことなのです。今この瞬間という現在とは、実は時間の仲間ではないということ。ここに気づく必要があるのですね。

時間とは思考によって考案されたものであるので、重力から抜けたのと同様、思考から抜けてしまえば今この瞬間だけが残るのです。

つまりは深い瞑想の中に入っていけばそれだけ時間は消えて、今この瞬間だけが全てとなるわけです。没頭や熱中も同じこと。

そして時間が消えてしまえば、時間が止まるということもなくなってしまいます。永遠に今この瞬間にただ在ることになるのですね。

あなた自身であればいい

ある特定の目的を持った場合には制服というのもあった方がいいと思うのですが、一般的な毎日の暮らしに制服を指定されるのはどうかと思っています。

あるいは制服があってもいいけれど、着たい人が着ればいいし、着たくない人はその限りではないというのがいいですね。

私自身は中学生の3年間だけ学生服を着ていて、それ以外で服装を規制されたことが一度もないので、それが当たり前だと思っているのかもしれません。

日本の教育というのは、制服でイメージされる平均的な人を作り出す、あるいは満遍なくそつなくできる人、飛び抜けていなくていいという感じだったと思います。

きっとそれはもう過去の話しであって、今では本人の得意分野を延ばしてあげようという教育に変化してきたのだろうと。

私もそれには賛成ですが、それよりももっと大切なことがあると思っていて、それはやはり期待しないことです。

昨日のブログで愛と期待は裏腹だということを書きましたが、期待は欲望と言い換えることができると分かれば、当たり前のことだと気づきます。

セッションで向き合うクライアントさんに対して、どんなことも期待することはないと断言できますね。

たった一つだけ、あなたがあなた自身であって欲しいということです。そうすれば、あらゆる苦痛から解放されて、より自然で自由な人生を取り戻すことができるからです。

愛は欠点を消してしまう

あなたには大切な人がいますか?大切ということはきっと愛しい人なのだと思います。愛している人ということです。

ただどんな人であれ、欠点と思われるものを持っているはずですね。そこがなくなってくれたらもっと好きになれるのにと考えたりしませんか?

そして密かに変わって欲しいと願うのです。あるいはそれを隠さずに相手に伝えるかもしれませんが、なかなか期待通りにはならないものです。

期待が大きければそれだけその愛には不純物が含まれているということ。なぜなら愛は期待とは正反対のところにあるからです。

そんなことをつらつら考えつつ次のoshoの言葉を読むと、何かが深く刺さりますね。特に最後の一行が好きです。

“もしあなたがひとりの人間を愛していたら
あなたはトータルなその人を受け容れるものだ
あらゆる欠点を含めて
そうした欠点もその人の一部なのだから
しかし、愛にはそれを変える力がある“

なぜ愛にそんな力があるというのでしょう?私が思うに、そもそも愛は相手の欠点を欠点とは見ないというのがあると思います。

そしてもう一つ、愛のエネルギーが相手を包むことでその人の防衛が小さくなって、その人自身の愛が開花するようになるからです。

明らかな欠点というのは、そもそもが防衛によって作り出されるものだからです。人間本来の存在には欠点などないはずですね。