一つの意識、二人の人

by リチャード・ラング

私は彼女が見ている世界を見ませんし、彼女の思考と感情も経験しませんし、彼女が眉を触るときに、その感覚を感じません。前を見ると、私は私の体とは分離した彼女の体を見ます。

たった一つの単一の目、たった一つの意識があるだけなのに、この意識はここで、私たち二人を抱きしめています。

そして私が彼女に尋ねるとき、同じことが彼女に当てはまることを発見します。ただ彼女は、彼女の視点から私たち二人のための空間であることが、違うだけです。

私は、どうやって一なるものが多数であるのか、どうやってこの単一の目から、無数の見方が現れるのか、自分が理解しているとは思いません。

また私は、実際、深い喜びの源泉であり、私がそれとともに生きている一なるものについて、それほど理解もしていません。

どうやって存在は、非存在から、まったく何もないところから自分自身を魔法のように出現させるのでしょうか? 誰も知らないのです。

しかし、ここに私は存在(IAM)します! それに加えて、それは一つのままで、多くに分割したのです。なんとありがたいことでしょうか!

もし永遠に永遠に一なるものしかなかったら、どれほどそれは退屈し、孤独なことでしょうか? 

私とは何かに本当に目覚めるとき、他の人たちは、私自身であり同時に私自身ではない、 ことを見ます。私である一なるものは、多くのもののための空間です。

無数の個人がいて、その一人一人が完全にユニークで、独立していて、それにもかかわらず、おのおのの中心では、一つの霊(Spirit)であり、全体で完全です。

あなたはこれ以上に、素晴らしく美しい取り決めを、想像することができますか?

ただ一つの意識

by リチャード・ラング

私の意識には境界がありません。それは私の頭の内部にあるのではありません。私の頭、つまり、私のその経験が、意識の内部にあるのです!

では他の人の意識については、どうなんでしょうか?彼女の意識は私の意識とは、分離していて異なっているのでしょうか?それはどこにあるのでしょうか?

彼女の目の背後でしょうか?彼女の頭の内部でしょうか?私は彼女の目を覗き込んでも、決して彼女の意識を発見することはできないでしょう。

私が見るのは、ただ私の意識の中に与えられた形と色です。私がどれほど彼女に対して敏感になり、どれほど彼女の奥深い事柄について心を開いても、彼女の外見と、彼女が自分の経験を描写することを、私は経験するだけです。

それでは、彼女の最深の存在は、私に閉じられているのでしょうか?いいえ、そうではありません。なぜなら、彼女の意識は、彼女の目の背後、顔の背後に隠されているのではなく、彼女の目と顔のこちら側に、展示されているからです。

意識はどんな人の頭の内部にあるものではありません。それは容器に入っていないのです。すべてのものが、その中にあるのです。

意識は各々の生き物ごとに分割されて、おのおのが意識の一切れを受け継いでいる、わけではないのです。それは一つであり分割できないものです──まったく自明なことに。

あなたが意識を見るとき、あなたはそのすべてを見ます。私は自分がいるところ、彼女の顔のこちら側で、友人の意識を発見します。

なぜなら、私の意識と彼女の意識は一つで同じだからです。私の意識は彼女の意識とは分離していません。

それは彼女に広く開かれていて、境界線はないのです。(もし私が彼女に、彼女の意識は何かの内部に入っているかどうかを尋ねるなら、彼女はそうではないと言います。彼女の描写は、私の意識の経験と合致しています)

暑いのはいやだけど、夏を終わらせたくない気持ち

もうすぐ8月が終わりますね。子供の頃であれば、もう少しで夏休みが終わってしまう、という何ともやるせない気持ちになったものです。

そのときに、自分なりに編み出した心を安らかにする方法があって、それは9月になって登校してこの目で校舎を見るまでは、校舎が以前のままにあるとは言えないというものでした。

このことは、以前にもどこかに書いたことがあるのですが、このやり方というか、この感覚は自分にとって自然なものとなっていきました。

大人になって、量子物理の世界においては「知覚できないものはその存在が不定である」という理論があることを知って驚きました。

まさか、自分が子供のころに感覚として感じていたことが、物理学の世界では当たり前のことだったとは…。

そしてそれは、観察するということが現代科学の根っこなのだということからして、真実は科学では到達し得ないというところまで自分の中で繋がっていったのです。

この世界で唯一知覚することができないもの、それが一人称の自己なのです。指先を自分の顔に向けて、その方向にどこまでも見続けていくのです。

それが無限の深みにまで行ってしまうということを見ることで、自己の本質はこの宇宙を包含しているということに行き着くのです。

暑苦しい日がいったいいつまで続くんだろうと思っていたものが、朝少し涼しくなるとどうも名残惜しいような寂しい感じがやってくる、今日このごろ。徒然に自分の中にある感覚を書いてみました。

ドタキャンが減りますように!

最近、セッションをドタキャンされることが増えたように感じています。ご予約されたクライアントさんにはそれぞれの事情というものがあるのでしょうね。

ですから、深追いすることはありませんが、それでも直近でのキャンセルはとても気持ちを暗くされるのです。もっとひどいと、予約しておいて連絡なしにいらっしゃらないケースもあります。

こちらから連絡すると、「あ~仕事で行かれなくなって~」という何とも悠長な言葉を聞く羽目になったりもします。

セッションの費用をかなり低めに設定しているために、クライアントさんが気軽な気持ちで予約をされることが多くなったことが一つの要因かなとも感じています。

気軽に来ていただけるのは、本当に望むところなのですが、歯医者さんの予約と混同してしまっている方が多いのかなと。

大体こういうケースでは、そのクライアントさんはその後も決してこちらに来ることはないのです。ですから、ご縁がなかったということにして気持ちを切り替えることにしています。

以前、セッションをした後に持ち合わせのお金がないので、銀行から振り込むといって出て行ったきり、何の音沙汰もなかった人もいました。

私に支払うべき借金があるのを知りつつ、どういうつもりなのか放ってある方もいらっしゃいます。ところが、セッションの費用をいただけなかった事例よりも、とにかくドタキャンの方が堪(こた)えるのです。

理由は簡単、セッションをしたいからなのです。セッションはクライアントさんのためでもあり、同時に私自身のためでもあるということを、明確に知っているからですね。

だからといって、無料でセッションお願いしますと言われても困るのですが…。とりあえず、ドタキャンが減りますように!!

「負けるもんか」を喪失しちゃいました!

小学校の3年か4年生の頃に、初めて学習塾なるところへ通わせられるようになりました。学校での成績は優秀だったのに、今思うと何故?と疑問符がつきます。

その塾で初めてのテストがあったのですが、戻ってきた解答用紙を見て絶句してしまいました。それは、それまでに自分が経験したことのない低い点数だったからです。

どの科目だったのかも、何点だったのかも忘れてしまったのですが(きっと40点くらいだったかな)、目にいっぱい涙を貯めて泣くのを堪えていたのを覚えています。

こんなひどい点数を取るなんて、自分のことが惨めで、情けなくて、どうしようもなくなってしまったんだと思います。あの頃は純粋なものですね。

けれども、私は順応するのが早いらしく、勝手にこの塾のテストは難しいのだから、悪い点数でも仕方が無いと見切りをつけてしまったのです。

そのおかげで、その後は何のことは無い、どんな悪い点数でも平然としていられるようになったものでした。その時点で、「負けるもんか」を喪失してしまったのです。

その後も、高校一年の2学期の英語のテストで、確か100点満点で7点というのを取ったことがあったのですが、ちょっと驚いただけでした。すでに免疫ができていたのですね。

大人になってからも、自分は人並み以上にできるはずだという自分と、いやいや駄目なときはとことん駄目になるという自分と、両方がいることを意識するようになったのです。

その結果、血の滲むような努力だとか、どこまでもやり抜く根性といった類のものは自分とは無縁のものとなったのです。

よって、類まれな人物になることも、一芸に秀でた人物になることもありませんでしたが、その代わりにどんな自分であろうとも、否定することが少ないという大きな利点を手にしました。

年齢的なこともあるでしょうけれど、向上心は皆無になってしまいましたが、そこそこに生きるというのが自分のスタイルとして定着しているようです。

どのような信条で生きようと個々人の自由ですね。あなたは、「負けるもんか」をどのくらい使って生きてますか?

人の期待に応えようとするのもほどほどに

私たちの心の中には、幼い頃から人の期待に応えてあげたいというやさしい気持ちが備わっていますね。誰に教わったわけでもないのに、良心というものがあるのと同じです。

良心のかけらもないような極悪非道な人や、決して誰かの期待に応えようとしないエゴ丸出しの人もいるかもしれません。

けれども、そのように見える人であっても、その奥にはごく普通の私たちと同じように良心も期待に応えようとするところも隠し持っているはずです。

幼い子供は、身近にいる母親に笑って欲しくて、母親が喜ぶようなことをわざわざしたりするものです。それが、次第に母親の期待に沿うようなルールをこしらえるようになるのです。

先日ロバート・デニーロが父親役を演じる映画を観たのですが、4人の子供たちが揃って彼の期待に応えようとしてそれぞれの人生を苦しいものにしているのです。

そればかりか、成人した子供たちは期待に応えられないと分かると、ウソをついてまで父親を落胆させないようにするようにもなってしまうのです。

そのうち、子供たちは誰も父親と話しをしなくなるのですが、父親はなぜそうなるのかを理解することができないのです。

子供たちが独立した後、一番ストレスの強かった子供が薬物の摂取によって死んでしまうのですが、そんなことも子供たち同志で相談しないと父親に伝えられないのです。

結局、そのことを父親は子供たちから知らされるのですが、彼はそれを受け入れられないのです。そんなはずはないの一点張りなのです。

こうした父親の心の弱さを、子供たちは幼い頃から察知していたのでしょうね。だからこそ、父親を悲しませることがとても大きな罪悪感になってしまったのだと思います。

もしも、あなたが誰かの期待を裏切ってしまっていると感じているなら、それから生じる自己嫌悪や罪悪感を徹底的に感じきることです。

それさえ逃げずにできるなら、もう怖いものはありません。そうなって初めて、自分はこれでいいということが分かるはずです。

本当の自分はこの宇宙に満ち満ちている

この自分とは一体何なのだろう?ということをとことん追求していったとき、この質問をしている自己の存在があやふやになったのです。

そのうちに、自分には位置がないということも、ナニモノでもないということにも気づいたと同時に、自己がバ~ンと広がったのです。

けれども、その感覚に特別驚くことがなかったのは、それが自分にとっては昔から馴染んだ感覚だと知っていたからでした。

私には、子供の頃から変なクセがあって、とにかくじっとしていたいというのがあって、身体を動かさないでいるということを時々やっていました。

子供というのは、とにかく変てこなことをやるものなので、誰かにそれを指摘されたことはほとんどなかったのですが、母親だけが知っていました。

そのじ~っとしていることは、実は身体を動かさないことによって思考が静かになるという効果があって、それを好きでやっていたということなのだと今なら分かります。

そのときに、自己が広がる感覚というのを体験していたんだと思うのです。そしてそれは、この今という瞬間に耳を澄ますという感覚にとても近いものです。

この数年の間に、その広がった感覚はもう消えることがなくなりました。自分が遍在しているという感覚は、本当は誰にでもあるのです。

人としての自分は70億分の一の存在に過ぎないのですが、同時に本質の自己は唯一であって、この宇宙のどこにでも満ち満ちているということですね。

傷口から目を逸らさない

私たちは、いつも自分に都合のいいこと、求めていることが起きることを望んでいます。そうした現実がやってくれば、嬉しくなったり悦んだりして、いい気持ちになれるからです。

不満だった気持ちが満たされるようにもなるし、不安な気持ちも安心に変えられるかもしれません。そうなれば興奮もするし、自分は幸せだということになるのです。

逆に、自分にとって都合の悪いこと、いやな出来事などは決して起きて欲しくないと思っています。大切な人を失うことや、人から軽蔑されたりしたら心が深く傷つくからです。

けれども、私たちが苦悩するのは、そうしたいやなことが起きるからではありません。そうではなく、本当はいやな出来事を受け入れることができないでいるからなのです。

心が傷つけば、当然それ相応の痛みが発生しますが、その痛みをいやがって拒絶してしまうのです。そうして、もう二度とそんな傷を負いたくないとも思うのです。

しかし、傷を負うということはその後も必ず本人の意向とは別にやってくるのです。逃れようとして逃れられないからこその苦しみなのです。

もしも、私たちがその痛々しい傷口から目を逸らすことなく、しっかりと見ることができるなら、痛みは和らぎ、そして苦しみは消えてしまうのです。

都合の悪いことがやってきて、心の傷口がパックリ開いてしまったら、それに対して何もせずにただただそれを見ることです。

見るだけでいることができれば、苦しみはありません。痛みとともにいて、後に残るのは安らいで静かになった心だけです。

そこにのみ、本当の心の平安があるのです。いやな出来事が身に降りかかってきたら、このことを是非とも思い出すことです。

自己改善プログラムの終わり

数年前に、この自分というのは実体のないただの思考に過ぎない、ということに気づいてから徐々に自己改善への意欲が減ってきてしまいました。

ここでいう自己改善とは、ピアノがもっと上手に弾けるようになりたいとか、もっと水泳を上達したいといった目に見える物理的なものではありません。

そうではなくて、自分自身の問題、性格上の事柄や人としてどういう人物かといったようなことです。そういうものを改善しようという向上心が失せてきてしまいました。

自分の心にできるだけ耳を傾けているようになると、それはもう無数の叫び声を聞くことができるのです。とても改善などという方向へは行かないということが分かったのです。

自分が生きてきた中で、積み重ねられてしまった数多くの不満や想い、そういったものを都合が悪いからと言って切り捨てることもできないと分かったのです。

その結果、向上心という名前の自己改善に見切りをつけたのです。それよりもずっとずっと大切なことがあるからです。

それは、本当は改善するということではなくて、あらゆる心の声から逃げないことこそが大事なのだと。逃げずに裁かずにいる、そういう位置を見出すことです。

心の声はすべて過去のものです。過去は必ず、未来へとその影響力を行使しようと常にねらっているのです。それは決してなくなりません。

そこから目を離さないですべてをありのままにすくい取ってあげることです。それは沢山の可愛らしいペットたちに、愛の目を配ることと同じです。

ペットたちは、改善などしなくてもいいし、そのままで愛らしいのですから。

「鬱」は心のストライキ その3

昨日の続きです。

私たちの多くは、より幸せになろうとして頑張っています。ところが、実は自分にとっての幸せとは一体何なのかということについて、本当は深く考えずにいるのです。

世間一般が広く認めるところの、人の幸せとは大概こういうものだというのを鵜呑みにして、あるいはそれ以外を探すこともなく、その道を突っ走っているのです。

そのほとんどが、実は幼いときに作り上げた自己防衛システムに依存したやりかたであるということに気づいていません。

だから決して心が満たされることがないのです。手に入れられるものといったら、苦しみと一過性の安心感だけなのです。

なぜなら、幼いときに作った自己防衛システムの目的は、見捨てられないようにしてとにかく不安を安心に変えようとすることだったからです。

それは、大人の私たちが志向する幸福感とはまったく異なるものであるだけでなく、長期的にみれば多大な自己犠牲を積んでしまう生き方なのです。

自己犠牲が限界を越えたときに、防衛本能がその生き方を強制的に停止させようと発動するのです。それが心のストライキ、つまり鬱症状なのですね。

こうしたことに自ら気づき、日々の生活の中で如何に自分を守らねばという脅迫的な思いに占領されてきたか、再認識する必要があるのです。

それと同時に、それまで埋もれていた幼いころに通ずる無邪気さを捜し出して、それを救いあげてやることです。

そうやって、無邪気な自分と、社会的な自分(自己防衛)とのバランスがとれるようになれば、自然と鬱から開放されるようになるはずです。