人生は大掛かりなドッキリカメラ

純粋な意識である私たちの本質が、私たちの中でそれ自身に気づくこと、それこそが覚醒と呼ばれるものです。

けれども、私たちのエゴはそんなことまでも抜かりなく自分の手柄のようにしてしまうのです。エゴが覚醒することなど、元々原理的にあり得ないことなのに…。

エゴはどこまでいってもエゴなのです。そんなエゴですが、そのエゴが理解できる最上級のことがあります。それは、自分はいないということです。

エゴは思考によって、自分がここにいるということをでっち上げ続けるのですが、その思考をどこまでも追求していくことで、思考の根元を捕まえることができます。

そのとき、思考は思考でしかなくて、それ以外の何物でもなかったと気づくのです。それは、なかなか小気味いいものかもしれません。

あるいは、大掛かりなドッキリカメラか何かに嵌められていて、そのことに気づいた瞬間に似ているような大笑い状態になる人もいるかもしれません。

お~い!何だそうだったのかあと…。ふざけた話しだし、こんな意地悪で緻密な仕掛けのドッキリなんて、そう簡単には気づくことできないはずだよ、と。

半ば呆れ、半ば笑い、半ば脱力し、そして最後にはどこまでも静まり返った静寂に包まれることになるのです。

そうなったら、もう自分が覚醒した人物ですなどと、したり顔になどなれるはずもありません。それでも、肉体がある限りはこの人生は続いていくのですけどね。