潜在意識を味方につける

セラピストの仕事というのは、一口に言ってしまえば、クライアントさんの潜在意識を取り扱う仕事だということができます。

この潜在意識という馴染み深い呼び方ですが、正確に表現すると潜在していて自覚することができないマインドの部分、ということになります。

簡単に言えば、全く自覚できないマインドの部分ということですね。自分自身のマインドなのに、自分ではその存在すら認識できないという厄介なものです。

なんでそんなものができてしまうかというと、それは辛くて直視したくない感情や経験を都合よく隠してしまう地下室のようなものが欲しいからです。

だからこそ自覚できなくて当然なのですね。その地下室に押し込んで分からなくすることを抑圧と呼ぶわけです。

ではなぜそんな面倒な部分を相手に仕事をしなければならないかというと、その隠したマインドの部分が表面の自分を裏から強烈にコントロールしてくるからです。

あなたがどれほど理性的であろうと頑張っても、潜在意識が本気になったら赤子の手をひねるが如くに、いいようにやられてしまうのです。

絶対に遅刻したくないと思っても遅刻してしまう、もう決してお酒を飲まないと誓っても、お酒を飲んでしまう等々。

癒しが遅々として進まないのも、自分を癒したくないという潜在意識の方が力が強いからなのです。

自分を大切にしたいと願っても、潜在意識が自分の存在を低く見ていれば、ぞんざいな扱いをしてしまうことになるのです。

結局私たちの生きづらさというのは、ほとんどが潜在意識からやってくると言っても過言ではないのです。

だからこそ、そこを重点的に見ようとするのが心理療法なのです。もちろん覚醒してしまえば、潜在意識は消滅してしまいます。

覚醒せずとも、潜在意識を味方につけてしまえばいいのです。潜在意識に積極的に働きかけて、自分はあなたの味方だということを繰り返し伝えることができたら、何かが変化してくるはずですね。

「◯◯病」を再確認

私がこれまでに勝手に名付けた「◯◯病」というのがどのくらいあったかなあとぼんやり考えていたら、意外に多いことに気づきました。

例えば、「やらなきゃ病」というのを大分昔名付けたと思います。要するに、ただ予定していることなのに、徐々にやらなきゃと考えるようになるのです。

そして、やらなきゃ、やらなきゃと自分に圧を加えるようになって、結局なかなかやらないという状態を作り出して、自分で困り果てるのです。

最終的には、ギリギリやり出すのですが、それでも手がつかない状態では悶々としてしまう面倒な病ですね。

あるいは、「役に立ちたい病」というのもありました。何かの役に立つことで自分の存在価値を見出そうとするものです。

それと似たようなものとして、「ケアマネ症候群」というのもあって、それは他人のことをケアすることにエネルギーを使いまくるのです。

最近だと、「改善病」というのをすぐに思いつきますね。これは社会的には向上心として良いものとされています。

けれども、自分を改善しようとするその奥には、このままではダメだという自己否定が隠されているのですから、大問題です。

それに、改善しようとして未来に意味を持たせ、理想に意味を持たせることで欲望は果てしなく続くことになるのです。

他にもあったと思うのですが、こうして見てみると私が名付けた「◯◯病」に共通することは、それが自己防衛として行われているという点ですね。

どれもこれも自我を強化してしまうということに気づくことです。そうしたマインドのカラクリに気付けば、いずれは小さくしていくことができるはずです。

勝手な見立てをやめる

私たちのマインドというのは、良く言えば多面的であり、悪く言えば内部分裂していて病んでいるのです。

一つのマインドという仕組みの中に、たくさんの年齢の人物がいるし、性別だって男性と女性が混在してもいるのです。

波動のレベルで見ても、ハイアーマインドと呼ばれる部分があり、それは一般的な知恵のレベルをはるかに超えています。

あるいは、その逆にロアーマインドの部分もあって、それは波動が低い部分と思えばいいのです。

その中間的なレベルのマインドで普段は生活しているのですが、抑圧されている部分、つまり潜伏して無意識状態の部分もあります。

このように、一人のマインドの仕組みはとても複雑で多くの分断された部分から成り立っているのです。

こうしたマインドの構造をしっかり理解すれば、ある人をこの人は◯◯な人物だなどと簡単に見立てることなどできないはずです。

それなのに、往々にして私たちは自分に都合のいいように、この人は偉大な研究者だからとか、偉大なアスリートだから人格も優れているなどと見てしまうのです。

そうしておいて、その人の違う面を見せられたときには、何だか裏切られたと感じてしまうのですね。

覚醒してマインドが落ちてしまった場合を除き、すべての人が同じマインドの仕組みによって生かされているのです。そのことを忘れないことですね。

あなたは自我ではない

自我の本性を深く理解できると、自然に自分の本質は自我ではないということに気づくようになります。

それは自我にとっては非常に都合の悪いことですね。なぜなら、自我はそれ自体が実在しないということを隠しながら継続することを狙っているからです。

素性がバレてしまうと、一気に距離を置かれるようになることを知っているのです。それは自我にとってはとても危うい状態だと感じるのです。

自我が私たちを騙す手口はたくさんあるのですが、例えば幸せになりたいと願っているその裏で、苦悩や辛さをなくしたくないと画策していること。

希望を持って少しでもそれに近づこうと努力する姿を見せながら、その裏では何が実現しても満足しないことを隠し持っているのです。

自分を守ろうと必死になっているその裏で、たくさんの敵を雇って自分を攻撃させたりしているのです。

不安や恐怖、そして孤独から逃れようとあらゆる防衛を思いつき実践するのですが、本当は少しも変わらずに不安と恐怖と孤独の中にいるのです。

こうした自我のリアルな姿を知って、ほとんど呆れてしまうようになると、人は自我との同一化をやめたいと思い出すのです。

自分の人生を憂うのであれば、これが自分だと思っていたのは自我だったとはっきりと気付けばいいのです。

そして、自我を見つめながら生きることができるようになれば、人生そのものが大きく変化することになるでしょうね。

取り憑かれる=乗っ取られる

いわゆる心霊現象と呼ばれるものの一つに、霊が取り憑くというのがありますね。昔から狐憑きなんていうのもありました。

要するに、生身の人間にその人のものではない全く別の何らかの霊が入ってきて、本人を乗っ取るみたいなものです。

恐山のイタコと呼ばれる人たちは、死んだ人の霊に自分の身体を乗っとらせて、その霊の家族などと会話をさせるわけです。

ことの真偽は私には分かりませんが、もしもあなたが深い瞑想状態になるなりして、心を空っぽにすることができたなら霊が取り憑く可能性があるのでしょうか?

答えは「ノー」だと思います。空っぽの心に入ることは逆に不可能だろうと思うのです。それは真性な無の領域だからです。

逆に、不安や恐れで心が縮こまってしまったり、あるいは何も考えずにボーッとしているような状態の方が、取り憑かれる可能性が高いのです。

つまり、取り憑く霊の立場に立ったなら、そこに自我というマインドがあるのが必須ということなのです。

自我(マインド)は思考群なので、外側から別の思考を入れてあげるだけで、それがマインドを圧倒するくらいの強いものであれば、すぐに取り憑くことができるのです。

もしも自分のマインドの部分に乗っ取られて冷静さを失うなら、それは霊に取り憑かれる現象と近いのではないでしょうか?

取り憑いてくる霊の問題というよりも、乗っ取られやすいマインドの状態で生きていることの方が問題なのではないかと思います。

もちろん、イタコさんのようにそれを仕事にしている場合はまた別ですが。

観照者=意識

この宇宙が創られる前からずっとあり続けていたのは意識であって、ただそれだけが唯一の実存だったのです。

そして、その完全さが破られてこの宇宙という現象界が生まれることになったのですが、それでも意識だけはその背景としてずっと在り続けるのです。

その間にあなたが生まれ、私が生まれ、私たちが経験するありとあらゆる事象が起きては消えていくのです。

だから、osho は「体験されることは全てみな幻なのだと覚えていればいい」というのです。

どれほど素晴らしくても、体験の代わりに観照者自体に焦点を合わせなさい、というのです。

そしていずれはこの現象界で起きたあらゆる事象が消えて、後に残るのはずっと在り続けていた意識だけなのです。

私たち一人ひとりの意識はそんな唯一の意識の一部なのです。日々観照することを継続することで、自我から離れて本質に近づくことができるのですね。

慈悲深さへの素朴な疑問

私の中でずっと以前から持ち続けている一つの疑問があるのですが、それがまだ解決しないで残ったままになっています。

それは、覚醒して自我が消滅してしまった人は、その人の人生そのものから抜けてしまうのにも関わらず、非常に慈悲深くなるということです。

人生という物語から足を洗ってしまったら、つまりその瞬間瞬間をただ在り続けている存在になるということです。

物語性が消えてしまうのですから、そうなるしかないわけです。ところが、慈悲深さというのは、物語の中でしか使い道がないように思うのです。

ただ起きることが起きているだけであるなら、そこにどうやって慈悲深さを使うことができるのか、これが疑問なのです。

それなのに、真に覚醒してしまった人は私が知る限りにおいてはみんなとても慈悲深く、哀れを救おうとするのです。

この疑問に対する答えというのはきっとないのでしょうね。そうなってしまうのだからそうするしかないというのが、唯一の答えなのでしょう。

ぐっすり眠りこけて悪夢をみている人を、ただの夢だよと言って起こしてあげようとする、ただそういうことなのかもしれませんね。

自分の単純な存在を楽しむ

肉体を持って生きている個人としての私、つまりこの自我はある時間にある場所を占有して生きています。

いついかなる状態であれ、その時間とその場所を特定できるのですが、それと同時に全体性としての自分はそのどちらにも関わっていないのです。

自分自身や周囲の空間にしっかりと意識を向け続けていられると、全体性の感覚がやってきます。

それは何処というのを特定できないし、時間的な流れも消えてしまいます。自我であると同時に全体性を感じることは、難しいことではないのです。

問題はその両者の比率かもしれません。自我の感覚よりも全体性の感覚の方が上回ってくれると、至福感もそれに連れて増えていきます。

それはいっさい何の理由もなく、自分の単純な存在を楽しんでいるような感覚と表現できるかもしれません。

私の自我は貪欲なので、その全体性の感覚を一緒になって楽しんでいるのですから不思議ですね。

全体性でもいいし、真の自己でもいいし、自分の本質でも何でも言葉は構わないのですが、それは卑小な自我をただ見守ってくれているようです。

そして私の本質はあなたの本質と一つものです。なぜなら、宇宙で唯一のものだからですね。宇宙が消滅しても、それだけはいつも在り続けるのですね。

期待のない状態→至福

幸福も不幸もどちらも自我のもの。至福は自我には分からない。自我が静止しているときにやってくるものだからです。

幸不幸は、必ずそうなる理由があるものです。私は、今◯◯だから幸せだとか、◯◯なので不幸に違いないという感じで。

ところが至福に関してはどんな理由もないのです。至福というのは、理由もなく内側が満ち足りている状態を指します。

物語としての理由はないのですが、物語の外には至福がやってくるための条件というのはあるのです。

それは、今ここ、この瞬間瞬間にあるということです。期待がないということ。期待がないということは、未来へ向かう空間がないということです。

だから結局のところ、期待がない状態であるなら自然と至福がやってきてくれることになるということです。

これは非常にシンプルな道理ですが、それが自我にはできないのです。自我は過去と未来への空間が必要だからです。

その双方への広がりがないと、閉塞感に包まれて窒息してしまいそうになるのです。それが自我の本性です。

自我との距離を感じられるようになれば、過去へもそして未来へも行かずに今この瞬間にいて悠々としていられるはず。

期待がなくなると、それと共にこうあるべきというルールや正しさも消えていってくれます。これが生きる極意かもしれないですね。

虚空を見る

今日も何を書くことになるのかなあと思って、しばし虚空を見ていました。何処を見るでもなく、ただジッとしてるアレです。

この状態は目を閉じて行う瞑想とはまた異なる感覚になれるので、自分としてはかなり好みのやり方なのです。

すると<全体>から守られているという感覚がやってきて、優しい良い気持ちになれたのです。この状態では、一時的ですが自我が小さくなっているのでしょうね。

私たちの本質は愛そのものなのですが、普段の生活では自我が出しゃばっているので、愛を感じたり使ったりすることができないのですね。

ちなみにほとんどの人が自我として生きているのですが、自我の出しゃばり具合によって愛が使える量も変わるのです。

例えば自我が10割、つまり自我が完全に人生を仕切っているなら、愛は使えません。自我が9割なら、1割だけ愛が表出します。

自我が5割なら愛も5割です。覚醒してしまえば自我は無くなるので、愛が10割となって本質のまま生きるようになるのです。

覚醒してしまった人は例外ですが、一般的には自我と愛の割合はその時そのときによって変動するのです。

虚空を眺めていていい気持ちになったのは、その瞬間自我が静かになって愛の割合が多くなったからだと思っています。

<全体>と繋がる感覚は愛の感覚なのだろうと思いますね。身体の内側がなんだか暖かく感じてきて、非常に心地よい感じになります。

虚空を眺める以外にも色々な方法があると思いますので、短い時間でもいいので自我を大人しくさせていられる時間を作るといいですね。