慈悲深さへの素朴な疑問

私の中でずっと以前から持ち続けている一つの疑問があるのですが、それがまだ解決しないで残ったままになっています。

それは、覚醒して自我が消滅してしまった人は、その人の人生そのものから抜けてしまうのにも関わらず、非常に慈悲深くなるということです。

人生という物語から足を洗ってしまったら、つまりその瞬間瞬間をただ在り続けている存在になるということです。

物語性が消えてしまうのですから、そうなるしかないわけです。ところが、慈悲深さというのは、物語の中でしか使い道がないように思うのです。

ただ起きることが起きているだけであるなら、そこにどうやって慈悲深さを使うことができるのか、これが疑問なのです。

それなのに、真に覚醒してしまった人は私が知る限りにおいてはみんなとても慈悲深く、哀れを救おうとするのです。

この疑問に対する答えというのはきっとないのでしょうね。そうなってしまうのだからそうするしかないというのが、唯一の答えなのでしょう。

ぐっすり眠りこけて悪夢をみている人を、ただの夢だよと言って起こしてあげようとする、ただそういうことなのかもしれませんね。

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