尊敬と畏敬の違いは?

子供の頃に尊敬する人は誰ですか?と聞かれて、歴史上の偉人を名をあげたり、場合によっては自分の親だと言う人がいたりしたのですが、私はずっと誰もいないと言うしかありませんでした。

誰もいないというより、もっと正確に言えば、尊敬するという意味が本当のところ分かっていなかったのかもしれません。誰だろうかと、探すようなこともありませんでしたね。

そしてそれは、この歳になるまでずっと変わらずなのです。生まれてから一度も誰かを尊敬したことがないのです。勿論、あの人は凄いなとか、羨ましいとかは普通に思うのですが…。

尊敬となると、どういうわけかマインドが閉じてしまう感じがするのです。最近思うに、尊敬の中には嫉妬の部分も多分に含まれているために、見て見ぬふりをしているのかもしれません。

自分に正直に向き合えば、嫉妬の部分は沢山あるのですが、人物丸ごとを嫉妬するということはやはりないようです。能力とか、一部の何か外見など…。

それで分かったのですが、尊敬ということになると、その人物全体がターゲットになるように思っているらしく、そうなると該当者はいないということになるのです。

一方で尊敬とは似て非なるものに、「畏敬」というのがありますが、それはありたがいことに一人だけ該当者がいます。では、尊敬と畏敬の違いは何か?

畏敬する人に対しては、自分と比較することがないために、嫉妬というものが起こり得ないのです。尊敬の場合には、もしかしたらいつかは競争して勝つことができるかもしれないと思うのでしょうね。

だから尊敬には嫉妬が含まれるわけです。尊敬は、もしも何かが起きたら終わってしまうこともあるかもしれませんが、畏敬に関しては間違いなく永遠だと分かります。

「親は絶対」という思い込み

クライアントさんとセッションでお話しをしていて気づくのですが、子供の頃に「親は絶対」という感覚を持って生活していたという場合が意外にも多いのです。

まっさらなマインドの状態で生まれてくる赤ちゃんが、一体どういうわけでこの「親は絶対」という考えを持つようになるのでしょうか?

確かに、親がいなければ子供はどうすることもできないし、親に見捨てられたら生きてはいけないのも事実ですが、だからと言って誰でもが「親は絶対」を持つわけでもありません。

この「親は絶対」というのは、もう少し分かりやすい言葉で補足するなら、「親はいつも正しい、親の言うことを聞いておけば間違いない」のようなものですね。

そのように親のことを見るようになってしまう一つの要因として、それを親自身から教わったということが可能性としてあるかもしれません。

けれども、子供もバカではありませんので、ただそう言われたからといって、いつまでもそれを信じていられるはずもないのです。

クライアントさんによっては、ある程度の年齢になってもまだ「親は絶対」を持ち続けていたという場合もあるくらいですから、別の要因を考えてみる必要がありそうです。

他にどんな要因が考えられるか?実はその考えを作ったのは、親というよりも子供自身だったと考えることもできるのです。その理由は、自分を危険な目に遭わないようにさせる目的で。

つまり、親に逆らって自分の正直な気持ちを言うことが危険だと感じていたとすれば、逆らうような気持ちがそもそも浮かんでこないようにさせればいいわけです。

だからこそ、一度「親は絶対」を作ってしまえば、自動的に親の言いなりになる自分でいられるということですね。自分でこしらえたこのような命がけの思い込みを一旦作ってしまうと、後で解除するのが大変です。

自分一人で解除するのが難しいと感じる場合には、専門家の力を借りる必要があるかもしれません。お心当たりがあるなら、セッションを受けてみることをお勧めします。

E-girls / Dance Dance Dance がいい!

昔懐かしいノリのいい楽曲を見つけて、年甲斐もなく今嵌っています。
きっと、それなりに有名なんだろうけど、私はつい数日前に知りました。

すごくノスタルジーを感じて…

歌詞もいいんだな、「感じるままに」とか、「自分らしく、ありのままに…」とか、「ルールなんてない、最高にFree」等々。

なぜ人は自由でいたいと思うか知ってる?それは何かに束縛されてるから。

一度も束縛された事がなければ、自由など求めないし、自由の意味すら理解しないはず。

今日はこんなブログです!たまには息抜き。

E-girls / Dance Dance Dance

 

相手の内面を見透かす

誰だって、他人から否定されたら嫌な気持ちになるものです。できることなら、肯定的に扱われることを常に期待しているのが本当のところですね。

ただし、否定されることをどの程度嫌がっているのか、どのくらい不安になったり恐怖を感じたりするのかという度合いについては、人それぞれなのです。

あまりに、否定されることを恐れてしまうなら、その人は自己表現を抑えるようになったり、辛いので人と接するのを控えるようになってしまうはずです。

そうなったら、専門家の力を借りて、内面の癒しをする必要があるでしょうね。けれども、そんなに極端に落ち込んだりはしないけど、ダメージをもっと小さくしたいと感じている人は沢山いるはずです。

そんなときには、次のようにして自分を否定した相手の内面を見透かすことです。相手が自分を否定するのは、その内容の如何に関わらず、自分にはまったく関係ないことだと分かるまで…。

相手があなたを否定する本当(唯一)の理由は、その人自身が自分のことを肯定したいという思いが強いからなのです。

「お前がダメだ!」と言うとき、それを言っている当の本人はダメではないが言外に含まれていることに気づくことです。それが自分を肯定することになるということ。

ではなぜ、相手はあなたを否定することで、自分を肯定したいのでしょうか?それは、その人の深いところで自分を否定しているからに違いありません。

ということは、誰かがあなたを否定したとき、その誰かの中で自己否定を払拭しようとしているということであって、あなた自身とは何の関係もないということに気づけばいいのです。

真実にはどんな物語もない

誰だって自分の人生がもっとこうなったらいいのになあと、願いを込めてイメージするのですが、そういうのを夢物語などと言ったりしますね。

特に、実現するのが不可能に近ければ近いほど、夢物語と言われるようです。それと対比されるのが、現実の自分の人生という物語です。

現実の人生で起こるストーリーは、都合の悪いことや悲しいことなどもフンダンに盛り込まれていたりして、夢物語とは大分違ったものであるでしょうね。

けれども、実はどちらにも共通していること、それは物語であるということです。そして、物語とはそれが空想であろうと、現実であろうと、いずれにしてもあなたのマインドの中にあるということ。

そこを見抜くことです。どんな物語であろうと、それは実在するものではありません。あなたのマインドの中にある思考によってでっち上げられたものだということです。

起きていることは、私たちの思考とは全く無関係にただ起きているのですが、マインドが思考を使ってそれを物語として捉える性質があるということ。

真実という実存には、どんな物語性もありません。なぜなら、真理は思考の外側に在るからです。思考の外から世界を見るとき、そこには在るがままのものが、ただ在るがままにあるだけなのですね。

期待せずに待つって難しい

誰でも経験がある事だと思いますが、何かを思い出そうとして喉まで出かかっているのに、どんなに頑張ってもどうしても思い出せずに悶絶するのです。

自分がそれを知っているという事ははっきり分かっているのに、思い出そうと頑張れば頑張るほど思い出せないのです。

そんな時、一度その事を忘れて全く違う事を考えたりしたりしているうちに、ふと思い出せずにいた事が頭に浮かんできたりするのですね。

その理由は、リラックスすることで、思い出そうとして起こしていた緊張がなくなったからなのでしょう。緊張すればするほど、頭の働きがブロックされるということです。

同じようにして、自分の本質を思い出したいと強く願えば願うほど、思い出すことは難しくなってしまうのです。

要するに、期待せずにリラックスして待つという事なのですが、それが一番難しい事なのですね。私たちのエゴは、真にリラックスすることが苦手だからです。

思い出したいという欲望もなくなりそうもありません。

在るがままで在ること

今日もシンプルに…

本当に大事なことは

あなたがあなた自身でいるということ

それ以上に美しいことはない

他の誰かのようになろうとしたり

もっと別の理想の存在を目指したりせず

ただありのままのあなたでい続けること

それ以外にない

以上

どんな目的も持たない

この連休の最中、ユニクロで安売りをしているというのを聞いて、珍しくチャンスだと思って、空き時間に事務所の近くにある大型店舗へと行ってみたのです。

そうしたら、店の中が大変な人出で賑わっていて、内心一刻も早くここから出たいと叫んでいる自分を受け止めながらも、頑張って目指していた品物をゲット。

今度は、レジに並ぶ長蛇の列の最後部へと、何も考えないようにしてただただ瞑想状態。こんな時にも普段の瞑想が役に立つんですね。

案外早く自分の番がやってきて、至近距離で金切声をあげる幼い子のことも、何とかかわしながらも逃げるようにして、お店を後にしたのでした。

人波の中を泳ぐように進んで行くだけで、人酔いするのですね。やっぱり慣れないことは控えたほうがいいのかもしれないと本気で思ったのです。

一つだけ収穫があったのは、大の苦手だったレジ待ちのときに、早く済ませたいという気持ちを持たずに、ただそこにいることができたこと。

未来に対してどんな目的も持たないようにすることができれば、瞬時に楽になることができるのですね。

これを瞑想と呼ぶ必要もない

最近ほんの少しかもしれませんが、瞑想のやり方や心構えなどに変化が出てきたようなのです。表現が難しいのですが、敢えて言えば心構えがなくなったような…。

今思い返すと、かなり気負いのようなものがあったのだなあと思うのです。言うのも気恥ずかしいのですが、目的意識がバリバリだったということ。

それがちょっとずつだけど、減って来て敢えて目的があるとすれば、その目的が落ちてしまうように淡々と、それとなくその状態を維持するというのか。

ほんの少しの目的のようなものも逃さずに、それを脇へ置いてしまう。今までにもいろいろな瞑想への取り組みにおける微妙な変化は経験してきたのですが、今回のは大きいかもしれません。

目を閉じる必要が一段となくなってきてしまいました。というか、目を閉じていても開いていても、どちらでも構わないということ。

あらゆるルール的なものが排除され、できるだけ目的を持たずに、それとなくただここに在るという状態。それを瞑想と呼ぶ必要もないかもしれませんね。

私は座禅というものを知らないのですが、伏し目がちで行うということだけ聞いたことがあるのですが、瞑想というよりもそっちに近いのかも。

それとなく心がけているのは、「個人が瞑想をする」というイメージから、なるべく離れるようにするということ。全体がただそれを起こしている、それを深く深く浸透させる感じ。

個人である自分を解き放つ

普段私たちは、身体と同化することによって、自分の身体へとエネルギーを凝縮しているのです。それこそが、自分という個人はここにいるという感覚を作っているのです。

そのエネルギーの凝縮は、何か辛いことがあったり、苦悩を感じていたり、怒りや悲しみなどのネガティブな感情を持つときにより強力になるのです。

つまり、深刻になって人生を悲観すればするほど、凝縮が強まることによって、より個人としての自分が明確になるということです。

逆に、ゆったりとくつろいで、気持ちにゆとりがあって、穏やかであるなら、そして悦びや歓喜の中でそれを謳歌しているときには、エネルギーの凝縮は弱まることになるのです。

つまり、個人としての自分の境界は曖昧なものになるということです。こうしたことは自動的に起きることですが、それを逆手にとって、実験をしてみるのです。

たとえば、特別に何かがあったということがなくても、意識的に自分という個人であることを維持するのをやめてみるのです。

個人にまとまろうとすることを自らやめてみるのです。ちなみに、過去の体験を思い出そうとすると、個人へと戻されるし、未来のことを思い描いても、個人が復活してしまいます。

代わりに、今この瞬間にじっとしていられれば、個人に収縮せずに済むはずです。それはまるで中心のない、広がった雲のようなイメージかもしれません。

その感覚に慣れて来ると、どれだけ普段の生活そのものが、自分は個人だということを色濃く強調することになってしまうかが分かってきます。

エネルギーの収縮に気づいたら、すかさず意識を今に戻して、個人としてのスペースが虚空に変わるようにそれとなく意識するのです。

興味があったら是非検証してみて下さい。自分という個人が希薄になることで、幸不幸を超えた何かに気づかせてもらえるかもしれません。