高血圧も様々

先日、家の近くのお医者さんに行って血液検査をしてもらったところ、少し心配していた肝臓は正常で、代わりに腎臓と膵臓が弱っていると言われました。

生活習慣を見直さねばと思ったのですが、帰宅してからもう少し突っ込んだ話しを聞きたかったし、検査結果も貰い損ねたなと。

特に不親切なお医者さんではないとは思うのですが、この際だから専門医のところへ行って詳しく診てもらおうと思い、また別のクリニックへ行ったのです。

血液検査の結果はまだ出ていないのですが、意外にも血圧が高いとのことでした。自分でもアレ〜という感じで、そういえば最近全く血圧を測ってなかったなと。

私くらいの年齢になったら、血圧くらいは毎日測っておいた方がいいのです。それで、一つ新しい血圧計を新調したのですが、その取説の中に面白いことが書いてありました。

それは、「白衣高血圧」というのと、「仮面高血圧」という言葉です。白衣高血圧とは、診察室や医療現場で測定した血圧が高くても、家庭などで測定すると正常域血圧になる人のこと。

そんな人もいるだろうとは思っていたのですが、まさか自分がそれだったとは。自宅で測定したら、クリニックでの値よりもだいぶ低い血圧になったのです。

理由はいろいろあるのでしょうけれど、最近のストレスと久しぶりの測定でちょっと緊張があったのかも。それにしても興味深いですね。正式な名称として認知されているわけですから。

それとは逆に、仮面高血圧というのは、診察室や医療現場では正常な血圧を示すのに、それ以外では高血圧であるというケースです。

原因は知りませんが、人間はいろいろなことを起こすものです。医療の現場ではどちらもしっかり認知されているということです。

身体を労わる時期がやってきているようなので、しばらくは身体にまつわることも書いていくことになるかもしれません。

何かに従事していたい

この一ヶ月くらいの間、セラピストになってからはほとんど体験したことのないような、大きなものではないもののずっと続く気持ちの悪いストレスの中にいました。

それがつい先日のこと、あれっと思うくらいに酷いものになって、そのストレスの中で静かに喘いでいました。

もちろん、他人がその内容を聞いたら、なんでそんなことでと思われてしまうかもしれませんが、私の苦手な状況だったのでしょうね。

状況的にはまだ変わっていないのですが、すぐに落ち着きを取り戻すことができたので良かったのですが、今思うとそんな嫌な状況でも自我にとっては活躍の場でもあるのです。

活躍の場といっても、その全てが内面で起こることなので、誰にも伝わらない種類のものなので、そういう意味では本当にバカバカしい限り。

いずれにしても、愉快な体験、悲しい体験、今回のようなストレスフルな体験も含めて、自我はそれを糧に生きるのです。

来る日も来る日も辛気臭く瞑想ばかりやっていたら、自我はやきが回ったようになってウンザリしてしまうでしょう。

自我は従事することが必要なのです。例えそれが辛く苦しいストレスフルなことであっても。そのことは忘れずにいるようにしたいものですね。

身体への謝罪と感謝

自我特有の焦りや後悔のようなものに飲み込まれてしまうと、意識的であろうとしてもそのパワーに圧倒されて、いつものようにリラックスすることが難しくなりますね。

そんな時に、ふと思ったことがあってそれを見ていたら、不意に気持ちが落ち着いてラクになったということがありました。

それは、物理的な身体への想いです。まず自分自身は身体ではないというのが必要です。身体も自分の一部だと思い込んでいると、少し難しいことになると思います。

自分というのは自我のことであり、それは目には見えない精神的な何かであって、物理的で目に見える身体とは別物ですね。

まずはそこをはっきりさせること。身体とは長い付き合いではあるけれど、自分自身ではないということ。

その上で、このような連想がやってきたのです。身体のあらゆる臓器、臓物、そして骨や筋肉や皮膚など。

もっといえば、身体を作っている数十兆個の細胞の一つひとつを民衆だととらえて、その上に君臨する将軍が自我である自分。

もしも民衆である身体から何らかのサイン(これは通常具合の悪さや病気などとして表現されるのですが)があれば、将軍である自分が間違ったことをしていると知ることです。

将軍でも大統領でも総理大臣でも何でもいいのですが、見た目は偉そうだし民衆とはランクが違うように思われがちですが、実際は人民のために存在しているわけです。

その代表のような存在が、人民のことを忘れて、あるいは人民から高額な年貢を徴収して、自分の私利私欲を貪り続けていたら、それは百姓一揆のような暴動が起きるはずです。

それが、大きな病気であったりするのです。こうしたことに気づいて、自分はこの身体のためにできるだけのことをしてあげなければならない。

このような気づきがやってきた時に、ものすごく気持ちが穏やかになったのです。身体に謝罪して、身体に感謝をしつつ生きる。

口の中の欲望を優先したり、自我の欲望によるストレスで苦しんだりすれば、それは全て身体への負荷となって身体を傷つけ続けてしまうということ。

物理的な身体と精神的なマインド、今更ですがこの二つを対等に扱うことがとても必要なことなのですね。

自我のパワーは凄まじい

自我というのは、闘いになったら活性化されるし、何か慌てたり焦ったりしても凄く活性化されて、そのエネルギーが自分を覆い尽くしてしまいます。

極端な例を挙げると、いつか買っておいた宝くじがあったことに気がついて、当選結果を調べてみたところ、なんと一等6億円が当たっていてびっくり。ウォー!!

慌てて有効期限を見てみたら、なんと今日まで。今日中に受け取りに行かなければ時効となってしまいます。6億円がパーになる。この状況で、慌てない人はいないはずですね。

急いで支度をして出かけようとしたら、これまで経験したことのないような、脚がつった状態になってとても歩けなくなってしまったとしたら。

悪いことは重なるとよく言いますから、全く起きないという話でもないのです。私はこれをかなりマイルドにしたような状況が今日起きていました。

自分が頑張ってもどうにもならないもどかしさや、間に合わなかったらどうしようという焦りなどが重なってしまい、一日中嫌な感覚の中にいました。

できる限りは自分の内側を意識するように努めてはいたのですが、いつものように気分がパッと晴れてくれることはありませんでしたね。

今は落ち着きを取り戻して、ゆったりとした気持ちでこのブログを書いていますが、自我に振り回されたらまだまだ太刀打ちできるものではないですね。

状況はまだ続いているのですが、こういった経験を生かしてより深く内側を見つめることができるようになるといいなと思っています。

内外面の豊かさ

私たちの本質である純粋な意識というのは、別の表現を使うと全体性ということになります。全体性ですから、あらゆる全てということで、全く過不足がないのです。

自我の視点からすれば、それは途方もない無尽蔵の豊かさと見えても不思議ではありません。何から何までが自分自身なのですから。

ところが自我の立場からすると、それはとても都合が悪いのです。自我は個別性であり個人として独立していると思いたいからです。

だから全体性を完全に隠してしまう必要があるのです。その上で、個として存続しなければならないので、当然のこととして孤独と不安がのしかかってくるのです。

そればかりか、全体性には有り得ない欠乏感もおまけについてくるわけです。これを覚えておいてください。自我=孤独+不安+欠乏感。

自我である限り、これがなくなることは原理的に不可能なのです。もちろん、抑圧して分からなくしてしまうことはありますが。

自我としては、自分が抱えている欠乏感を外側の世界から何かを獲得することで補おうとするのです。それが、私たちのあらゆる欲望です。

ところが、外側から獲得したものを内側に取り込むことはできません。あくまでもそれは外側の世界のもの。

だから獲得によって欠乏感を満たすことは不可能なのです。このことは、もうすでに気づいている人も多いのではないかと。

もちろん外側から入手したもので、快適に便利に生活することは悪いことではありませんが、同時に、自分の内側は本当は無尽蔵に豊かであることに気づく必要があるのです。

外面の物理的な豊かさと内面の豊かさが、共に揃っていることがとても大切なのではないかと思っています。

なぜ感謝が苦手だったのか?

ことあるごとに自然と「ありがとう!」の言葉が出てくる人がいるかと思うと、私のように感謝することになんらかの引っ掛かりを持っている人もいます。

なぜだろうと考察してみたのですが、どうやら私の場合ですが、幼い頃のヒーロー願望が邪魔をしているのかなと。

幼い頃、特に男の子というのはなぜかヒーローものに憧れるのです。そして、ヒーローが感謝の言葉を口にしているのを見たことがありません。

逆に、悪い奴らにやられて泣いている弱くて情けない人の方が、ヒーローに助けられてヒーローに感謝をするのです。

つまり、弱虫が感謝をする側で、ヒーローは感謝をされる側なのです。そうなってくると、ヒーロー願望の男の子が感謝の言葉を口にするはずがありません。

ヒーローは助けを請うてはいけないのです。助けてもらってしまったらヒーローではなくなってしまい、ありがとう!を言わねばならない。

男の子がこんなふうに単純に決めつけてしまっても不思議ではないですね。一度こうなると、誰かに感謝しろと言われても聞く耳を持たなくなってしまうのです。

大人の自分がヒーロー願望のインナーチャイルドの影響を強く受けてしまって、感謝の気持ちを遠のけてきたと思うと、少し恥ずかしいのと笑えます。

これからは、自我の私は感謝の道を爆進してみようと思っています。その様子を静かに見守る本当の自分も同時に感じつつ。

マインドは静かな方がいい

身近に霊能者というのか、透視能力者というのか、いわゆる超能力系の人がいるのですが、時々へ〜と思うことを言ってきたりします。

仕事でその能力を使う時には、きっと自分をニュートラルな状態にして、つまりは自我を鎮静化させた状態で行うのだと勝手に思っています。

そうなると、プライベートの時には自我に邪魔されて、本人の期待や希望が優先されてしまうので、正確な情報を見ることが難しくなるのかなあと。

その人が、何かの拍子に唐突に⚪︎⚪︎になるんじゃない?などと言うときは、なんで分かるのと思うくらい的中率が高くなるのです。

こちらから、これはどうなっているの?と期待を込めて質問してしまうと、その場ではきっとこちらの希望を叶えてあげたいが強くなって、邪魔されてしまうのでしょうね。

だから超能力系の人の能力を引き出そうとする時には、お伺いをたてるこちら側のマインドもなるべくフラットな状態にしておく必要があるということですね。

慣れてきたということもあるのですが、その人の言葉がマインドから出たものなのか、あるいはどこからかやってきたものなのかが少し分かるようになりました。

ただやっぱり、どっちなんだろうと微妙なタッチのことがあって、こればかりはこちら側のマインドの状態にも責任があるんだろうなと思っています。

いずれにしても、自我(マインド)が悪者ということではないですが、とにかくマインドは静かである方が何かとうまくいくようですね。

感謝が自我を緩める

よく聞く言葉ですが、感謝が大事、感謝をしなさい、感謝ができない人間はろくなことにならない等々。そうか、感謝をしなければと思ったことがある人も多いのではないかと。

私自身は、以前このブログでもお伝えしたことがあったと思うのですが、とにかく感謝とは縁遠い生き方をしてきていたのです。

癒しの過程で、あるとき全部が感謝だったと知らされる強烈な体験をしたことがあって、それ以前と以後では、もう同じ人間ではないと感じたことがありました。

とはいえ、日頃からあまり感謝を感じながら生活しているというわけでもないなという自覚がずっと続いているのも事実です。

ところが今日、あることに気づいたのです。それは、なぜ感謝がいいのかというと、それは防衛が緩むからだと。

当たり前と言えば当たり前のことなのですが、でもそれが自分の中で明確になったのです。だったら話しは別です。

自我は防衛することで成り立っているので、防衛を小さくすることができればそれだけ自我も小さくなっていくわけです。

つまり、日頃から感謝の方向に意識を向けていれば、そのまま自我を小さくすることにつながっていくということ。

なんでこんな簡単なことにもっと早く気づけなかったのかなと。きっと、気づきたくないというマインドがあるのでしょうね。それが邪魔していたのだなと。

さて、感謝の目で周囲を見回してみたところ、ああ確かにあらゆる事柄、現象、出来事、とにかく全てに感謝の念を感じるのです。

これはもっと早くからやっていればよかった。ただし、感謝しなければと自分に強いるのは絶対に御法度です。

なぜなら、強いることは自分との闘いになってしまって、それこそ逆に自我を強化してしまう恐れがあるからです。

自我を小さくする積極的な方法として、感謝を多用するのは理にかなっていると思いますので、ご興味があれば是非実践してみてください。

マインドを闘いの場にしない

マインドの中で闘うことは賢い行為とは言えないのです。その理由は、その闘う対象との太い関係が作られてしまうからです。

例えば、自分は意思が弱くてすぐに誘惑や欲望に負けてしまうので、欲望と闘って自分の理想を貫こうとする人がいます。

自分を戒めて強くなろうというわけです。けれども闘えば、欲望も活性化することになって仮に今回勝つことができたとしても、次は負けるかもしれません。

欲望を悪者扱いしないことです。欲望を禁止しようとか、理性が勝つ!のような生き方は闘いの人生になってしまいます。

闘わずにただ見守るだけにするのです。欲望はただそこにあるだけで、それは善でも悪でもないということ。

正しさについても同じことが言えます。自分はこうでなければならない、こうあるべきという正しさを死守しようとすれば、そこには闘いが生まれてしまうのです。

闘わずにあるがままの自分を見守るのです。それを徹底してやっていけば、自ずと自己嫌悪や罪悪感なども小さくなっていくのです。

自分のマインドを闘いの場にしないことです。マインドの隅々まで見守り続けることが、唯一の解決方法だと気づくことですね。

思考が現実を創る

思考が現実を創るという話しは、ああ聞いたことがあるという程度の人はたくさんいるかもしれませんが、本当にそうだと分かっている人は少ないかもしれませんね。

あまりにも非科学的だし、じゃあなんで望まないことがたくさん身の上に起きてしまうの?という疑問がいつもあるからです。

だから確かにそういうことはあるかもしれないとは思っていても、それが100%では決してないだろうくらいに思って、真剣に向き合うにはバカバカしいと感じているのです。

以前このブログで書いたことがあると思うのですが、この原理を理解するためには空間というのは一体何なのだろう?というところから紐解いていく必要があるのです。

それが思考が現実を創るということとどう関係があるのか、ものすごく簡単な説明をしていきたいと思います。

まず初めに、空間には何もないと思われていますが、実際には分子や原子がウヨウヨあるのです。私たちが真空と思っていたとしても、そこには必ず素粒子が存在します。

そして、その素粒子は何もないところから発生しては消えていくということを高速で繰り返しているのだそうです。

つまり、何もない空間というのは実はあらゆるモノの根っこである素粒子を生み出す元で満ち満ちているということ。

そしてここからが本題なのですが、私たちの思考のエネルギーはその素粒子を生み出す大元(無)に直接影響を与えることができるのだと。

思考とは正反対のことが起きるのは、私たちの無意識下の思考がそれを求めているからなのです。だから、自分は金持ちだと思っても、潜在意識では貧乏だと強く思えばそうなってしまうのです。

どちらのパワーが強いかで、結果が出てしまうということですね。もしもあなたが裕福になりたいのなら、それを強くイメージするのです。イメージは思考からやってくるので。

それと同時に、不要な思考をたくさん持っている潜在意識をなるべく癒して、そのパワーを小さくしてあげることも必要ですね。

今日は自我の欲望の話しではあるのですが、自我として生きている以上無視するわけにも行かないので、書いてみました。

私自身も私の自我にもう少し自分の願いを叶えさせてあげたいなと思っていますので、思考を操って色々実験してみようと思っています。