身体への謝罪と感謝

自我特有の焦りや後悔のようなものに飲み込まれてしまうと、意識的であろうとしてもそのパワーに圧倒されて、いつものようにリラックスすることが難しくなりますね。

そんな時に、ふと思ったことがあってそれを見ていたら、不意に気持ちが落ち着いてラクになったということがありました。

それは、物理的な身体への想いです。まず自分自身は身体ではないというのが必要です。身体も自分の一部だと思い込んでいると、少し難しいことになると思います。

自分というのは自我のことであり、それは目には見えない精神的な何かであって、物理的で目に見える身体とは別物ですね。

まずはそこをはっきりさせること。身体とは長い付き合いではあるけれど、自分自身ではないということ。

その上で、このような連想がやってきたのです。身体のあらゆる臓器、臓物、そして骨や筋肉や皮膚など。

もっといえば、身体を作っている数十兆個の細胞の一つひとつを民衆だととらえて、その上に君臨する将軍が自我である自分。

もしも民衆である身体から何らかのサイン(これは通常具合の悪さや病気などとして表現されるのですが)があれば、将軍である自分が間違ったことをしていると知ることです。

将軍でも大統領でも総理大臣でも何でもいいのですが、見た目は偉そうだし民衆とはランクが違うように思われがちですが、実際は人民のために存在しているわけです。

その代表のような存在が、人民のことを忘れて、あるいは人民から高額な年貢を徴収して、自分の私利私欲を貪り続けていたら、それは百姓一揆のような暴動が起きるはずです。

それが、大きな病気であったりするのです。こうしたことに気づいて、自分はこの身体のためにできるだけのことをしてあげなければならない。

このような気づきがやってきた時に、ものすごく気持ちが穏やかになったのです。身体に謝罪して、身体に感謝をしつつ生きる。

口の中の欲望を優先したり、自我の欲望によるストレスで苦しんだりすれば、それは全て身体への負荷となって身体を傷つけ続けてしまうということ。

物理的な身体と精神的なマインド、今更ですがこの二つを対等に扱うことがとても必要なことなのですね。