救われる言葉

以下の osho の言葉を繰り返し落とし込むと、何とも救われた気持ちになるのは私だけではないはずです。

人は何処へも行く必要がない、
ただ思い出すだけでいい。
為されるべきことは何もない–ただ知るだけでいい。
そして、知ることは到達することだ。
私たちが知る必要があるのは–私とは誰かということ、
これを知ることが、神性へと到達することだ。

自分の中をゆっくり見回してみると、自分は何も成していない、と言って咎めるような情けないような気持ちでいる部分があるのがわかります。

それはなかなか根深くて、人生の初期の頃からきっとあるのだろうなと。普段は紛れてその存在には気づけないのですが、今はかなり気づけますね。

それが持つ焦りのような感覚が、上の osho の言葉によって静かにさせられるような感覚があるのです。

それは自分の本質には全く無自覚で、人生が全てであると信じ込んでいるようです。自分の価値を見出そうと躍起になっているのです。

自我そのものが消えない限り、それも消えることなくずっとあるのでしょう。osho の言葉がもっともっと自分の中に定着していけばいいのでしょうね。