思考でも感覚でもなく…

私たちの思考というのは、「○○について」なのです。どんな思考であっても、何かについて考えていたり、イメージしたりするだけで、すべてが間接的な働きでしかあり得ないということです。

ということは、思考すればするほど、実在から離れて行ってしまうということです。絶えず思考の中でグルグルしている人は、最も実在から遠ざかってしまっている人だということです。

実在から離れて、どうやって生きていくつもりなのでしょうか?結局自分にとって都合のいい作り物の世界で生きていることになるのです。

辛い現実よりも、たとえ夢の中であっても束の間の幸せを感じられるというわけですね。それに比べて、○○を直接感じて、味わうということは実在に相当に近いと言えますね。

○○について感じるのではなく、○○を直接感じるのですから、思考と比べれば格段に実在に近づいています。

但し、それが実在そのものではないことは明らかです。思考することも、感じることもターゲットが必要だからです。

実在はただ実在しているのです。真理は、思考でもなく感覚でもありません。実在をターゲットにすることはできません。

ただ実在とともに在るということ。自分でも何となくそのことを知っている気がするのは、単なるエゴトリップなのでしょうか?

瞬間瞬間を全一に味わう

私たちの身体のあらゆる場所から、絶えず様々な感覚がやってきているわけですが、それが痛みだったり暑さ寒さだったり、痒みや快感などもありますね。

そういった身体からの感覚を感じているのが自分なのであって、その感覚自体が自分だと思っている人はいないはずです。

それなのに、不思議なことにあまりに強い痛みや不快感が身体や内臓からやってくると、自分がその痛みそのものであるかのようになってしまいます。

なぜ、痛みその他の不快感と自分をはっきりと分離することができないのでしょうか?どのような場合でも、自分とやってくる感覚を分離することができるなら、ただその感覚を見ていることができるはず。

絶えることなくやってくる思考に巻き込まれているのが自分であって、自分自身は思考ではないと知っているはずですね。

それなら、どんな思考がやってきているのかを見ることができるはずです。ただ見ることができるなら、思考に巻き込まれることはなくなるのです。

感覚でもなく、思考でもないとすると、自分とは一体何なのでしょう?自分には気持ちがあるし、感情もやってくるし、あるいは気分というのもありますね。

それらすべてが自分ではないことも明確であり、やってきては去っていくそれらをじっと見ててあげることができるはずです。

そうやって、いつも自分にやってきては去っていく様々な感覚、思考、感情、気持ち、気分、こういったものをただただ見る、という練習をすることによって、より意識的な状態でいられるようになるのです。

そして、そのどれでもない自分とは何か?をとことん追求していくこと。その結果、身体の外にも内にも誰もいなかったと気づくことになるのでしょうね。

それなら、人生なんてものもないということになります。それなら、人生を殊更深刻に受け止める必要もなくなって、やってくる瞬間瞬間を全一に味わうだけでいいんじゃないの?となるのです。

意識的であるというチャレンジ

自分にとって、最も難しいと同時にチャレンジし甲斐のあることは、普段から思考に費やしてきたエネルギーを、意識的であることに向けるということです。

不安や孤独感から自分を守って、是が非でも安心しようとすると、必ずと言っていいほど思考過多に陥ることになるのです。そうなると、思考を止めることはできなくなってしまいます。

常に堂々巡りの思考に乗っ取られて、それはまるで思考の奴隷状態のようです。分かってはいるけれど、そこから抜け出せずにいる人を沢山見てきました。

私自身も時として、そのような状態になってしまう経験を幾度となくしています。だからこそ、瞑想が大事であるとしてお勧めしてきたのです。

ただし、その気になって瞑想をして、その時には思考を緩めることができるようになったとしても、意識も同時に希薄になっていくのでは、元も子もありません。

本当に大切なことは、思考を止めることではなく、意識的であるということだからです。思考が止まればいいのでしたら、赤ちゃんや動物に戻ればいいだけです。

けれども、それでは一番大切な意識を失ってしまうことになってしまいます。誰だって幼い無邪気な頃は、それほど思考過多ではなかったはず。

子供の無邪気さは何とも愛しいものですが、ただそれだけであって、そこには明確な意識がないのです。自らの意識に気づいていること。

そうなれば、瞑想をして思考を止めようとせずとも、自然に思考をツールとして見れるようになるのです。意識的であるというチャレンジが、自分のライフワークとなって久しいのですが、なかなか思うような結果が出ていないのが本音です(汗)。

意志の力は邪魔になる

私たちのマインドは、何かをすることが得意であって、何もしないでいるということがとても苦手です。○○して下さいと言われたら、何とかしようとするものの、何もしないで下さいと言われたら、途方にくれるのです。

それがマインドの特徴ですね。今日もまたマインドの話しなのですが、なぜマインドのことばかり書くのかというと、マインドと自分の同化を見抜くためです。

マインドのことを深く深く理解することができれば、自己をマインドと同化しているということに気づかされるはずだからです。

マインドは、意志の力を使って何かをするようにできていますが、残念ながら本当に大切なことは意志の力ではどうにもならないのです。

そればかりか、意思の力はかえって逆効果になるのです。意志の力で寝ようと強く思えば思うほど、寝付けなくなるということは、誰もが何度となく経験していることですね。

リラックスするということ、あるいは今のままの自分にくつろぐということも、意志の力ではどうにもなりません。反対に、その力を抜くことでしか実現しないことです。

女性が赤ちゃんを出産する時間帯の9割は、夜とか明け方だという話しを聴いたことがあります。それは母体が比較的リラックスしている時間帯だからなのでしょう。

日中は、子供を産むということに思考が向くため、知らず知らずのうちに意志の力を使おうとしてしまうのです。そうすると、かえって赤ちゃんが出て来る道を狭くしてしまうのです。

意志力というものがとても大事だという教育を受けてきた私たちにとって、こうした事実は何となく腑に落ちない気持ちになるかもしれません。

けれども、意志力はマインドのものです。マインドが静かになって、意志を使わずに向うからやってくる大切なものを受け容れる準備ができれば、それこそが存在の赴く方向へと進ませてくれるのです。

物語を排除してこの世界を眺める

私たち人間は、物語が大好きなのだということは、以前から幾度となく繰り返してこのブログでも書いてきました。

だから、お金を払ってでも映画を観に行ったり、テレビでドラマを観たりするわけです。けれども、本当はただ好き、などというものではないのです。

物語がなければ生きては行けないということです。私たちの身体は空気がなければすぐに死んでしまうのに、普段は空気の中で暮らしているということも忘れてしまいます。

それと同じように、私たちのマインドにとっては物語は絶対に必要不可欠なものなのです。マインドは物語の住人なのです。

そのくせ、常に物語の中で暮らしていることにも気づかずにいるのです。自分の人生を単なる物語だと感じている人は少ないはず。

夢の中の登場人物は、夢から覚めれば消えてしまうのと同じように、物語の住人であるマインドも物語が消えるなら、マインド自身も消えてしまうということです。

自分の人生も、人類の歴史も、すべてが物語なのです。それもマインドがでっち上げたものです。実在してはいません。マインドの中、思考の中にしか存在しないものです。

すべての物語を排除した上で、この世界を眺めてみたら、一体どのように見えるのでしょうか?その時初めて、あるがままの世界の姿を目にすることになるのですね。

深く沈黙すれば見えてくる

私たちが現実と言っているものは、実はあるがままのこの世界ではなくて、物語のことを意味しているのです。地球上に誰もいなければ、それを現実とは表現しないはずですから。

だから現実とは、何がしかの物語のことを指すのです。現実は無数の物語で溢れかえっていますが、どの物語も夢の成分と同じもので出来ているのです。

それは思考です。思考が現実という物語と夢をでっち上げている張本人なのです。思考がなくなれば、夢を見ることはなくなるし、我々の現実も消えてしまうはず。

このことは以前から知っていたのですが、今日そんなことをボーっと見ていたら、びっくり仰天するような気づきに見舞われました。

気づいたといっても、気づいたことは以前から知っていたことなのに、より深く理解することでそれは驚きとなるのですね。そして、物凄く楽にもなったのです。

気楽になるのは本当にいいことです。まず腹が立たなくなりますね。それから、困ってもそれを何とかしようという危機感が消えてしまいます。

その気づきから半日経って、少し当り前になってきてしまったのですが、それでもじっくり感じてみようとすれば、それはまたやってきてくれます。

そう、あなたもあなたの人生も夢と同じもので出来ている。残念ながら実在しないものです。もしもあなたが、今このブログを読んでいるとしても、それは実在しないのです。

ただそれが起きている。それを言葉にしてしまえば、そこから物語が紡ぎ出されてしまうのです。深く沈黙したときに、このことがおのずと理解されるはずなのです。

osho の本を味わう

私は毎朝、osho の本を読むのが日課となっています。とは言うものの、義務で読んでいるわけではないので、勿論読まない日もあります。

ただ好きで読んでいるだけですから、同じことを誰かに勧めようとは殊更思っていません。個人的には、読んでいて楽しいし、嬉しいし、愉快だし、とても気持ちいいのです。

新しい何かを学ぶということでは毛頭ないし、彼の流れるような言い回しをちょっとうざい(笑)と感じるときもあるけれど、それも含めて読んでいるだけで意識が明確になるのです。

osho の本を読んでいて、もっとも大切だと感じることは、彼が何を言っているかではなくて、何を言わんとしているかを聴くようにしているということ。

この二つのことは、似ているようでいて全く違うことです。発せられた言葉をそのまま理解しようとせずに、行間を味わうということです。

論理的な理解の仕方をしようとすれば、必ず彼を疑う羽目になるでしょうね。彼に論理は通用しません。なぜなら、彼そのものが真理であるからです。

真理とは、我々の思考ごときが取り扱う論理を遥かに超越しているのです。だから、真理(存在)はどこまでも神秘なのですね。

そしてどうにもこうにも、他の誰かの本を読むことがとても難しくなってしまいました。単に読む気がしないというだけでなく、頭が回らないのです。読んでいてもすぐに疲れてしまう。

osho の本は、きっと読んでいるのではなく、ただ彼を味わっているだけなのかもしれません。

夢から醒める

久しぶりにちょっと嫌な夢を見ました。夢の中の自分は、子供の部分と大人の部分が同居している感じで、なぜかみんなの前でヴァイオリンを弾かなければならないのです。

実際に小学生の頃にヴァイオリンを習っていたことがあるのですが、大人の自分はもう何十年も弾いたことがないし、弾けるはずもないのです。

そんな状態で、演奏する当日がやってきてしまって、心の底から練習していなかったことを激しく後悔するのですが、もうどうしようもない後戻りできない状態になったのです。

演奏会場への道を歩いている間に、隣にいる友人にうまく弾けないはずといった言い訳をしているのですが、もうすべてが万事休す。

そしてこのままだと、自分が恥をかくだけでは済まない、大勢の人たちに大変な迷惑をかけてしまう、断崖絶壁に追い詰められたと思ったのです。

その時、あることがひらめいたのです。「そうだ、これは夢だったと!!」夢であって欲しいではなくて、夢だということを思い出したという感じです。

それであっけなく、本当に夢から醒めたのです。朝6時くらいだったのですが、ああこれだと!とうとうできたという感慨がありましたね。

これ、実はいつかできるようになりたいと願っていたものだったのです。目覚めているこの現実の中にいて、常にこの現実、この物語は夢なのだと自覚してきたことが、とうとう潜在意識にまで浸透してくれたと。

本当にそうなら嬉しいのですが、実際はまだ分かりません。それでも、これからも常に常に自分が置かれている状態が、思考の中の物語の一部に過ぎない、つまりは夢と違わないということを意識し続けるということ。

いつかは、この現実という夢からも醒める日がやってくることを祈って…。

もしも思考がなくなったら?

もしもあなたのマインドに巣食っている大量の思考がなくなったとしたら、一体この世界はどのようになるのかということを類推してみたいと思います。

あくまでも類推しかできないのは、完全に思考がなくなった状態が続いた経験が私にはないからです。それでも分かっていることを繋ぎあわせれば、ある程度の予測はつくはず。

思考が消えると同時に、思考がでっち上げているすべての物語が消失してしまうはずです。その物語には、あなたの人生と言う物語も勿論含まれています。

そして、その人生と言う物語の主人公として活躍している個人としての自分も消えてしまうのです。この私がここにいるという感覚は、とてもリアルです。

けれども、どれだけリアルであってもそれは思考の産物なのです。それは経験上知っています。夢の中であっても、相当にリアルな感覚があることは、誰でも知っていることですね。

リアルに感じるということと、真にリアルであるということはとてつもない開きがあるということです。思考が消え、物語が消え、自分が消えると、同時に時間も消えます。

それも経験上知っています。不思議ですが、思考が落ちると、時間というものがないということをアリアリと分かっている、そんな状態におかれるのです。

で結果、この世界はどのように見えるのか、個というものが消えるのですべてが繋がって一つものであるということが明白になるのでしょう。

どれもこれもが全体の一部としてただ在るということ。一枚の絵のように、その絵の中に何が描かれていようと一枚のキャンパスとして在るということです。

自分がいないのですから、自分を守って安心しようとする力も消えてしまうでしょう。つまり、精神的に無防備な状態になるということです。

あらゆる心理的な投影がなくなって、この世界をただあるがままに体験し続けるということになって、言葉にできないキラキラしたエネルギーに満たされる感覚になるかもしれませんね。

無思考、無心、無選択

久しぶりに、osho の講話から…

————————-
マインドとは外的世界で活動するための機能だ。だから、ずっと後方にある自己の中心には到達できない。マインドは後ろ向きに進めない。

バックギアがないのだ。だから前にしか進めない。マインドというものは、山であれ、星であれ、どこへでも持っていけるが、自己の存在には持っていけない。

もし自己の存在に赴きたければ、マインドを去ることだ。そして一人で進むことだ。静かに、何の想念もなく、内に入ることだ。

無心の出現によって、自分の内側に、自由、歓喜、永遠が爆発する。一度でもそれを知れば、あなたに春が到来する。

永遠なる花々が何千も咲き乱れる。<存在>の神秘の扉をすべて開け放つマスターキーは、今からあなたの手中にある。

だがそれはマインドや思考とは何の関係もない。無思考、無心、無選択ーーただひたすら静かに、自分自身に根づき、喜び楽しむ。

めくるめく体験に歓喜し、大いなる祝福とともに、宇宙全体へと広がっていく。これこそ私の知っている唯一の宗教だ。それ以外の宗教はすべてまやかしだ。
——————–