あなたは思考ではない

あなたがゆったりと寛いでいる時、温かい湯舟に浸かってのんびりしている、そのような時には、身体の緊張がほぐれて、思考も緩んでいるはずなのです。

それとは逆に、緊張していたり困っていたり、このままじゃダメだとか、何とかしなければといった状態になって、苦悩している時には、思考はフル回転しているはずなのです。

そうなんです、思考はあなたが望むような状態では不必要となり、望まないような状況のときこそ思考が活躍するということなのです。

つまり、満たされたいと願っている割には、そうならないとしたら、思考が邪魔をしているからなのです。思考は、それ自体を存続するために、あなたを望ましくない状態へと連れて行こうとするのです。

思考はあなたが主人としてそれを使う側である限りは、便利なツールなのですが、思考がそれ自体のためにあなたを巻き込むようになったなら、あなたの敵だと考えることです。

そのことに気づいていますか?もしも思考を止めようとしても、思考が主人であるあなたの言うことを聞かずに、すぐにさまざまな雑念を送ってくるようなら、思考は有害な状態です。

あなたは思考の奴隷と化していると気づく必要があるのです。そして、もっとも困った状態は、思考と自分自身の区別がつかなくなってしまうこと。

言葉を変えれば、意識と思考の違いが分からない状態のまま生きているなら、常に思考こそが自分なのだと思い込んでいると言えますね。

思考はあなたではありません。あなたは意識そのもの。思考が雲だとすれば、意識は青空だと思えばいいのです。青空が消滅することはありません。

来たり去ったりする一過性のものは、雲という思考なのです。暗雲が立ち込めて、青空を覆い隠してしまっているなら、自分を思考だと感違いするのも当然かもしれません。

普段から、あなたの内面を占拠している思考に、注意を向けておくことです。その注意を向ける主体が自分だと気づくようになるまで。

我慢は抑圧を生む

今日は、我慢すると必ずそのツケが廻って来るというお話しです。

ひとたび我慢をすると、マインドはほぼ自動的に我慢をさせた側と、我慢をさせられた側とに分裂してしまうのです。

何故なら、我慢をさせた側からすれば、我慢をさせられた側にその苦痛をすべて放り投げてしまって、もろとも抑圧してしまえば、自分は苦しまずに済むからです。

そうやって、その後ももっと自分に我慢をさせることで、うまく自己防衛が出来、それによって自分を安心させたいのです。

これがマインドのからくり。あなたのマインドの中で自動的に行われている抑圧のメカニズムです。だから我慢は抑圧を作り出すのです。

もしもあなたが我慢した結果やってくる苦痛から逃げることなく、全一に感じ尽くすなら抑圧は起きないので、ツケが溜まることもありません。

ただ、全一に感じられる人は、元々理不尽な我慢を自分に強いることもないはずですね。全一に生きるとは、自分に正直に生きることだからです。

我慢させられた側は、抑圧されている間に怒りのエネルギーを着々と溜めてゆき、いずれは何らかの形で反逆に打って出ることになるわけで、これがツケなのです。

もしも人類から抑圧というメカニズムが消え去ったなら、惨たらしい戦争の歴史に終止符を打つことになるでしょうね。

家族制度なんていらない!

家族があって、国があって、そういうものが私たちの人生の基盤となっているのは事実です。基盤だからとても大切なかけがえのないものと感じるのは当然のこと。

けれども、反感を持たれることを覚悟の上で敢えて言うのですが、私は個人的に家族という制度に疑問を持っています。その延長上にある国に対してもです。

子供が親を選んで生まれて来るという話しがあるのは知っていますが、一度そのことを脇に置いて考えてみると、現実にはあまりにも過酷で逃げようのない家庭というものがあるのです。

家族という閉ざされた空間の中で、幼い子供がどのように扱われているのか、その本当のところは決して外側からは見ることができないのです。

だから、子供がどれほどの苦しみの中にいるのかも分かってあげることもできないし、救いの手を差し伸べることも相当に難しいことになってしまうのです。

象は群れを成して生活しているそうですが、その中の一匹が小象を産むと、メスの象が集団で子育てをするそうです。そこに子育ての理想の形を見い出せると感じるのです。

そこに家族というものは存在しません。子供はどれが自分の親なのか、また親もどの象が自分の子なのかは認識しているのですが、そこに家族のような結びつきはないのです。

そもそも、結婚という制度を廃止しなければなりません。結婚は、移ろいやすい人の気持ちに対するリスク回避のシステムのようなもの。

国家という第三者が二人の関係を保証するのですから、おかしな話しではあるのです。二人の関係性はあくまでも二人だけのものであって、それが未来にどうなるのかは分かりません。

結婚は安心を得るための制度であって、それが家族という制度へと繋がっていくということを思えば、結婚とは何と野蛮な制度なんだろうと思うのです。

家族ができると、子供はそこから逃れることができなくなるのです。どんな親であれ、マインドは病んでいます。なぜなら、彼らも同じように病んだ親が作った家族の中で育てられたからです。

親は決して悪者ではありませんが、病んだ親はどうにも始末が悪いのです。家族ではなく、コミュニティの中で子供を共有すれば、子供は偏った親の影響を受けずに済むのです。

暴言と思われても仕方ないのですが、長いこと多くのクライアントさんとのセッションを通して、自然と気が付くとこんなことを感じるようになったのです。

結婚、家族、国、この制度がなくならない限り、人類が愛に溢れて生きることはできないのではないか。抑圧のない自然な生き方ができないなら、人類に未来はないのかもしれません。

自分を信頼できない心の状態

親の言うことが何となく変だなと感じているものの、それでもやっぱりそう感じてしまう自分の方がおかしいのかもしれないと、そうやって自分を疑ってしまうことはありませんか?

子供をコントロールしようとする親に育てられてしまうと、何かと親から押し付けられてしまうのです。人間は本能的に自由を好む性質があるので、押し付けられると不満を感じるのです。

その押し付けは、したくないことをするように言われたり、逆にしたいことをしないように言われたり、あるいは親の正しさを押し付けられたりするのです。

幼いころは、それでも親の言いなりになってしまうのですが、ある程度知恵がついてくると、何だか親の押し付けて来る正しさに違和感を覚えるようになるのです。

けれども、その時にはもうすでに親は正しくて、自分は間違っているという洗脳が進んでしまっているために、冒頭書いたようにやっぱり自分の方が間違っているのかもと思ってしまうというわけです。

親との会話において、自分の方が間違っているのかもと感じることがあるとしたら、それは間違いなく親からの正しさの押し付けを経験してきた結果だと理解することです。

なぜなら、真っ当な親に育てられたなら、彼らはあなたに親の正しさを押し付ける代わりに、あなた自身が自分の正しさはこうだと言えるように仕向けてくれるはずだからです。

その場合には、自分の正しさに自信が持てないということにはならないはずなのです。自分がおかしいのかもと感じるのなら、自分を信頼できてない証拠です。

その状態のままでは、どう頑張ったところで人生を喜びを持って生きることはできなくなってしまうでしょうね。自分を信頼できるように、癒しを進めて行く必要があるということです。

喜びの三つの側面

タントラ曰く…

喜びには三つの側面がある

一つは快感。快感は肉体のもの

二つ目は幸福。幸福はマインドのもの

三つ目は至福。至福は霊的(スピリチュアル)なもの

 

どれも大切ですね。肉体を軽んじる必要はまったくないと思うし、ただ快感は不快感とペアでやってくるということを知っておくことです。

そして幸福も同じようにして、不幸と常に隣り合わせです。肉体とマインドの喜びについては、どちらも二元性の世界だけあって、快不快、幸不幸のように裏表があるのです。

一方で、至福だけは非二元なのです。至福は永遠であり、それは真理の一つの属性なのですね。

不安も安心もなくただ在る

未来のことを思い悩んで、不安の中に入ってしまうということは、程度の差こそあるものの誰でも少なからず経験していることですね。

その不安を安心に変えたいという強い欲望のために、大切な現在を破壊してしまうということに、もっとはっきりと気づく必要があるのです。

現在というのは、唯一の生が在る場所なのですが、思考の中にしか存在しない未来へとエネルギーを費やしてしまうのですから、どれだけ損をしていることか。

その思考は大抵が堂々巡りを続けるだけで、どこへも導いてはくれないのです。そうやって、貴重な現在という奇跡を見失ってしまうということです。

感覚を繊細な状態のままに保つことができれば、肉体と感覚を持って、この生を生きているというのは本当に奇跡的なことだと感じるはず。

その時思考は緩慢になっていて、過去も未来もマインドに入って来る余地がないのです。その奇跡の中で思う存分、生の面白さを味わえばいいのです。

ところが、未来への思考に翻弄されてしまえば、神の恵みである現在を台無しにしてしまうことになるのです。清々しい現在があるからこそ、それがいずれは未来にももたらされるのです。

未来への安心のために、現在を犠牲にしているという自覚があるなら、人生を棒に振ってしまうことになる可能性大です。

生とは根本的には不確定なものであり、それに対して安心を求めるのなら、決して不安から脱出することはできません。不安は不安のままにしておく勇気を持つこと。

不安から逃げずに、さりとてそれと闘わずにいることができれば、それまで気づけなかった現在という奇跡が周りに充満していたことを悟るのです。

不安も安心もないところにただ在る自己を発見できるはず!

義務感か愛か

人の行為というのは、それがしたいことだからするのか、義務としてするのか大きく二通りがあると思います。

もしもあなたが、義務として何かをするのなら、必ずその代償を求めることになるということに気づくことです。

逆に、そうしたいからするというなら、どんな見返りも求めるはずがないのです。見返りを求めるのなら、それは取り引き、そこには愛はないと気づくことです。

もしもあなたが、親に義務感から育てられたとしたら、必ず怒りを溜めることになるはずです。なぜなら、そこには愛がないと分かってしまうからです。

義務感で子供を育ててしまうと、これだけのことをしてあげたのだからという親になってしまうのです。

子供の側からすれば、そんなことはどうでもいいことです。自分はただ分かって欲しいだけだったのにと思うはずなのです。

人は、義務で生きるのをやめねばなりません。義務ではなく、愛で行動を起こすことです。愛はどんな見返りも求めないからです。だからこそ、結果がどうであれ不満になることがないのです。

自分が義務から行動しているのか、愛からなのか、いつも気づいていることが大切なことですね。

人間の可能性は無限

私たち人間というのは、本当に素晴らしい可能性を秘めているのです。その可能性は、無限に広がっていると言っても過言ではありません。

たとえば、猫はどこまでいっても猫でしかありません。賢い猫、それほど賢くない猫という違いはあるかもしれませんが、猫がサルになったり、人間へと変化することはありません。

ところが、人間だけが場合によっては動物以下の存在に成り下がることもあり得るし、神になることもあるのです。それほどの可能性の幅があるということ。

その昔、大人たちが自分たちの子供らを、みんなの見ている前で、神への生贄として火あぶりにしたこともありました。

こんな酷いことができるのは、人間だけです。どんな動物にもそれほどの酷い仕打ちなどできるはずもありませんね。歴史上ずっと、戦争をし続けているのも人間だけです。

地獄に落ちる可能性は、他の動物には決してないのです。我々人間だけが地獄へ行ける切符を持っていると言えるでしょうね。

一方で、仏陀やキリスト、あるいは多くの覚った禅僧などのように、真実と一つになってしまった、つまり神の領域へと行ってしまった人たちもいるのです。

これほどの幅をもった生き物は、人間以外にいるはずもありません。そういう意味で、人間というのは何と素晴らしい存在なのだろうと思うのです。

神へと進化するのか、動物以下になるのか、それは私たち一人ひとりの生き方に依るのです。そこには、無限とも言えるポテンシャルがあるのですね。

親へのわだかまりから解放される

私たちが本当に癒されるとき、それは幼い時の自分の親から解放されるときなのです。え?、親のことなどもうとっくの昔にどうでもよくなってしまっているよ、という人もいますね。

けれども、そこにはひょっとすると分かりずらい落とし穴があるかもしれません。というのも、本当に親に対してのあらゆるわだかまりが消えてしまうことは、なかなかないからです。

私たちは、表面意識では親を卒業したと感じているものです。たしかに親がいないと生きていけないと感じている大人は少ないでしょう。

ところが、あなたの心の中にはインナーチャイルドがいます。誰の心にもいます。その子の本当の気持ちを全部分かって生活している人がどれだけいることか。

実は多くの人は、インナーチャイルドがいることすら感知していません。知っていたとしても、その子の本心を知っていて、受け止めてあげられている人は本当に少ないのです。

たとえば、「ずいぶん前から私は親については完全に諦めてしまっていて、どんな期待ももう持ってはいません。」という人がいます。

でもその気持ちが100%であれば、人生が生き辛く感じることはないはずなのです。その人のインナーチャイルドの隠された本心では、まだまだ決してあきらめてなどいないのです。

そのことを知ってあげることが癒しの第一ステップと言ってもいいかもしれません。その上で、その気持ちがなぜ残っているのかを見てあげるのです。

そして理想的には、その子の悲しみ、怒り、不安、淋しさなどを大人の自分が全力で味わってあげること。それが出来て初めて、すべてのわだかまりから解放されるのです。

そうなってようやく、親への抵抗感が消えて、あるがままの自分を出して生きていくことができるようになるのです。それが癒しの道ですね。