絶対的な安心感

ごく普通の平凡な人生を生きてきて、それは今もそのままずっと変わらないのですが、どういうわけか自分の本質に気付こうとする人生になったのです。

会社員を辞めたことが一つのきっかけになったことは確かだと思うのですが、それでも自分のことが不思議で仕方なく思える時がたまにあるのです。

幼少期の家庭環境はごく一般的だったし、学生時代も社会人になってからもこれといった特徴があったわけではないのです。

やはり人の内側を深く覗いている間に、何かしら気づきがあったのかもしれないですね。どんなクライアントさんに対しても共通する何かがあると。

それは自分自身とも同じもので、それは絶対的に救われているというどこからくるのかは分からない確信のようなもの。

なぜか、この現実というのが夢を見ていることとダブってくるような感覚。目覚めたら、な〜んだそうだったのかという安心感。

それをもっと自分でも知りたくて、さらにそれを多くの人とも共有できるはずだと思っていて、できれば誰もがその絶対的な安心感に気づけるはずだと。

これもどこかで分かっていることなのですが、私自身の気づきの深さに比例して、気付く人が増えていくのだろうなと。

全体性を分かり合える人

「人生観」という言葉は一般的なものですし、一度や二度自分の人生観はどんなものだろうと考えたことがある人は多いかもしれません。

そしてもう一つ、「国家観」という言葉もあります。今、自民党の総裁選の真っ只中であって、ニュースを見ていると候補者の方々の国家観が問われていたりします。

それを見ていて、ああ自分にはこれといった、人に誇れるような国家観など微塵もないなあというのが本音なのです。

とはいうものの、自分のことは高い棚に上げておいて、しっかりとした国家観を持った候補者が総裁になり、結果として総理大臣になって欲しいとは思うのです。

それでは、人生観も国家観も持ち合わせていない自分には、一体何があるのだろうと思ったところ、ちょっと分かりました。

それは、ノーマインド(全体性)に帰するということです。こうしたことを分かり合える人なら、政党などに拘らないのです。

これをどんな言葉で表現すればいいのかは分かりません。宗教という言葉も自分にはそぐわないような気がします。

あなたが大切にしているモノ、一緒にいたいと感じる人とは何を共有できたらいいなと思っているのか、一度しっかりと見つめてみてもいいと思いますね。

大人は子供で出来ている

私がこれまでにお会いしたどの方であっても、その人のマインドの中には確実に子供の頃のその人が棲んでいると知ることになりました。

内側にひっそりと潜んでいることもあれば、すごく活動的に暴れ回っている子もいたりと、それはもうさまざまです。

こうした内なる子供のことをインナーチャイルドと呼んだりするのですが、それは概念的なものではなく、エネルギーとして実在しているのです。

といっても、身体があるわけではないので、直接目に見えるものではありませんが、声が聞こえることもあるし、その子の感情が丸々表出してくることもあるのです。

もしもその子が恐怖などから身を守るために作り出した信念を持っているなら、それは大人になってから作り出した信念など、比べようもないくらいに堅いものなのです。

そのため、大人になってから持つことになった理性などでは、とても太刀打ちできるようなものではないくらい強力なものとなるのです。

幼虫がサナギになって、そこから更に脱皮して成虫になっていくようには、単純に私たちは子供が脱皮して大人になっていくわけではないということ。

なぜなら、私たちには自我(マインド)があるからです。それはいつでも過去と強く繋がっているからです。

過去はもう過ぎ去ったことなので、全て無視して明るい未来に向かって生きていけばいいのだという、うわべだけの良さげな言葉に騙されないことです。

あなたのマインドは子供のままの部分が多分に含まれているからです。そのことを忘れずに、自分を見つめてみることですね。

自我は「ここ」に到達できない

自我というのは、いつもいつもほっつき歩きたがっているものです。だからこそ、重罪を犯したものへの見せしめとして、狭い独房というのが用意されています。

薄暗い独房に何年も閉じ込められていることをイメージしただけで、気が遠くなるほど堪え難い気持ちになりますね。

それは、自我がじっとしていることがとても苦手だからなのです。だからこそ、自我は本質的には瞑想が苦手なのです。

物理的に一箇所にじっとしているとしても、マインドの中ではあっちに行ったり、こっちにフラフラしてみたりをずっと繰り返しているのです。

自我は、「ここ」にいられない存在なのです。言い換えれば、自我は「ここ」には到達することができません。

もしも「ここ」に行き着いてしまったとしたら、自我はもたずに崩壊してしまうはず。それをまず理解することです。

そしてその真逆ですが、私たちの本質は常に「ここ」に在るのです。「ここ」というのは場所のことではなく、全体性のことです。

今あなたが目の前のものを見ているとき、あなたの本質は「ここ」から見ているのですが、あなたの自我は肉体のある場所から見ていると思い込んでいるのです。

その違いをいつも気づいていられるように、何度も繰り返して練習することが大切ですね。

自分を守り続けたいという思い

いつも感じていることではあるのですが、セラピストというのは本当に無力だなあということです。

クライアントさんの協力がなければ、それこそ何もできないのですから。クライアントさんは、常に恐怖と戦っているのです。

セラピストが、その恐怖を外してあげることができればいいのですが、それもなかなかどうして難しいのです。

そうした恐怖というのは、実は思考によって作り上げられたものなので、大丈夫だからそこを見てみましょうとお願いするのですが、それはこちらの勝手な言い分でしかありません。

最終的にできることは何かというと、とても弱腰に聞こえるかもしれませんが、信頼することしかできないのです。

信頼というのは、どんなことであれ起きることを受け入れることなのです。自我にとってはとても難しいことですが、一瞬でも自我が静かであるときにそれを感じられるのです。

何がどうなろうと大丈夫。私たちは初めの初めから救われているのだからという地点に着地できたら、それは人生から戦いが消えていくことを意味するのです。

違う言い方をするなら、自分を守り続けたいという幼いインナーチャイルドの思いが、少しずつ薄れていくことに繋がるのだと思います。

答えを持ち歩かない

ネットのニュースを見ると、今は自民党総裁選の真っ只中ということもあって、立候補した方々の質疑応答を幾度となく見ることになりました。

それで思ったのですが、彼らはどんな質問が来てもいいように、前もって準備をしていてこの質問にはこう答えようと予め決めているのだろうと分かるのです。

それはそうでしょうね。国民の前で答えに窮してしまった姿を見せてしまったら、落選してしまう可能性が高くなってしまいます。

それと比べるのはどうかと思うのですが、クライアントさんとのセッションにおいては、実は何も決め事がない状態でスタートするのです。

ですので、その日のクライアントさんの状態次第でどんな内容のセッションになるのかがその瞬間ごとに決まっていく感じなのです。

だからセッションの終わり近くなって、必ずこのような結論で締め括ることになるなんてこともないのです。

私自身がどういう内容のセッションになるのか、全くわからない状態で進行していくのですから。

実は今自分はこんなことを口走っているけど、それはどうなんだろう?と思っていたりもするのです。これはクライアントさんには言わないですが。

同じ質問をされたとしても、クライアントさんによっては全く違うことを説明していたりすることはよくあるのです。

答えを持ち歩かないということを心がけている方が、きっと自分のエゴの影響が少なくなるのかなと思っていたりします。

闇と戦わず光を当てる

明るいの反対は暗いですし、光の反対は影ですね。では光と影(闇)のどちらが実在かといえば、当然光です。

光の不在である闇を何とかしようとするなら、光を当てればいいわけです。闇そのものをどうにかしようと思っても、どうにもならないのです。

これと同じようなことがマインドにも言えるのです。私たちはマインドの中に闇の部分を持っています。

自分はダメだとか、自分は惨めだとか、そういった自己否定の思いはマインドの闇の部分として捉えることができます。

その闇を何とかしようとして、価値ある人間、役に立つ人間になろうとしたり、高評価を得られる存在になろうとして頑張るのです。

これこそがマインドの闇を何とかしようとする悪あがきなのです。闇は存在しません。そこに光を当ててしまえば、闇は消滅してしまうのです。

光を当てるとは、マインドの隅々までしっかり見てあげるということです。全部見えてしまえば、自ずと闇は消えてしまうのです。

それをするのが、癒しなのです。闇と戦うことを金輪際やめてしまうこと。代わりに、光を当ててあげればいいのですね。

「ここ」と「そこ」の違い

この生において一番大切なことは、自分は身体ではないとはっきり知ることです。身体との同一化が外れたら、痛みからも解放されるはずだからです。

痛みが消えてなくなるということを言っているのではありませんが、自分が身体の痛みを感じているという解釈と、身体のそこに痛みがあるということとではまるで違うのです。

osho の弟子の歯医者さんが、osho の歯の治療をする際に麻酔をかけなくていいよと言われて、きっととまどったことでしょうね。

実際、麻酔なしで歯の治療を受けているときに、osho はその痛みがどんなものかを感じながら笑っていたそうです。

これは何もosho が無類の我慢強さを誇る人間だということではないのです。全くそうではなく、ただ身体との同一化がなければそうなるということです。

私は少々変わった少年だったので、その頃からずっと身体の苦痛というのは一体全体何なのだろうと思い続けてきた記憶があるのです。

けれども、身体との同一化を外すだけでそんな疑問も消えてしまうのだというところまでは気づけませんでした。

あなたの身体はそこにあるけれど、あなたはそこにはいないのです。さあどこか?それは一人称のあなたが知っている「ここ」です。痛みは「そこ」にあるのです。

「ここ」が私たちの本質

このブログでは、できるだけ意識的であれということを繰り返しお伝えしていますが、この意識的であるということをもう少し具体的に説明してみようと思います。

意識的であるとは、あなたが目の前にいる人を見ている時、あるいは通りがかった家の庭に咲いている花を見ている時、どこからそれを見ているのかに気づいていること。

目の前にいる誰かとお話をしているときに、その人を「ここ」から見ているということに気づいているということです。

「ここ」というのは、自分自身からの距離がゼロの場所を指します。肉体は自分からの距離がまだあるのです。

「ここ」から、綺麗に咲いている花を見ているのです。普通なら綺麗な花にばかり注目が行ってしまいがちですね。

けれども、それと同等かそれ以上に「ここ」に気づいていることなのです。なぜ「ここ」という表現を使うかというと、「私」を排除するためです。

一般的には、「私」がその花を見ているのですが、「ここ」からその花を見ているに変えるのです。「ここ」こそが私たちの本質だからです。

それは位置のことではないのです。なぜなら、「ここ」というのはあなたがどこで何をしていようと一切変わることなく「ここ」だからです。

マインドは戦いを糧にする

マインドというのは、すぐに戦いに誘われやすいのです。少しの間、ゆっくりゆったりできていると思っても、そのすぐ後には戦いが餌をぶら下げてやってくるのです。

そして必ずやその戦いへの誘いは危ないのです。あなたは自分の人生を生きるエネルギーを犠牲にすることになるのです。

戦い出したら最後、それは必ず自己犠牲の餌食になってしまい、人生そのものを浪費して、大切な人生を無駄にしてしまうのです。

このマインドの誘いには、本当に注意しなければなりません。誘われるという表現を使いましたが、言い方を変えるとマインドが戦いを引っ張ってくるとも言えます。

戦いの相手というのは、それこそあらゆるものが充てがわれるのです。それはひどい仕打ちをする人かもしれないし、病気かもしれません。

自分が何か困って、どうにか対処しなければならないと考えるものなら、何であれ戦いのターゲットとなるのです。

痛みを我慢するのも戦いだし、自己表現を抑えるのも戦いなのです。恥ずかしさや罪悪感から逃げ続けるのも戦いの一つです。

はっきり言いましょう。マインドは戦いを糧にして存続しようとしているのです。少しも幸せになろうなどとは思っていません。

このことを忘れないことです。そして戦いの中に入っていこうとする自分に気づいていてあげることができれば、いずれは少しずつ足を洗っていくことになるはずです。