子供らしさと子供っぽさの違い

人は成長して立派な人物になっていくものだと考えがちですが、その成長という言葉の本当の意味は何でしょうか?

それは言ってみれば、社会にまみれて積み上げてきたホコリを払うことこそが真の成長なのです。だから本当は、成長という言葉で表現するのは少々間違っているわけです。

例えばあの天才ピカソは、歳を重ねてようやく、子供のように描くことができるようになったと言ったとか言わなかったとか…。

立派な人物とは、偏ったエゴの見方に違いありません。それこそが、エゴ(思考)が作った二元性の世界でのことなのです。

二元性なので、立派かそうでないか、社会に貢献してるかそうでないか、価値があるかそうでないか、そういった分離がベースとなってしまうのです。

そのどちらでもない非二元に戻ること、つまり自己防衛から遠ざかって、ただ元々の無邪気さ、無防備な心を取り戻すことさえできればいいのですが、それが一番難しいのです。

そして子供らしさと子供っぽさとの違いにも気づくことです。子供っぽいのは無意識的な無邪気さのことなのです。

一方子供らしさとは、意識的であってかつ子供のように無邪気なことであると言えます。それが真実に一番近いということですね。

違うことは素晴らしい

地球上にいる70億の人達の誰もが、それぞれに固有の遺伝子を持っていて、全く異なる環境での異なる経験をしています。

互いに異なるということを真正面から認識することは、決して悪いことではなくて、逆にそれはとても必要なことなのですね。

なぜなら、正直にあるがままを受け入れることによってのみ、人は不平不満がなくなるからです。違いがあるということは、元々素晴らしいことです。

それは例えば、私たちの身体を作っている60兆個の細胞について見れば、爪になってくれた細胞も、内臓の細胞も、あるいは眼球の細胞もすべて違いががあるからこそ、身体として成り立つわけです。

けれども、私たちが互いにその違いを判断するようになれば、そこからあらゆる問題が発生してくるのです。そこに不満や希望などが生じるようになるからです。

自分はあの人よりも才能に恵まれていないとか、育った環境があの人と違いすぎる等々。優越感と同じだけの劣等感や不満がやってきます。

こうした判断の根っこにあるものとは、自分は1人の個人として生きているという思いからやってくる防衛心なのですね。

内側の奥底にある全体性に気づくことができるなら、そうした防衛は影を潜めてしまい、どんな判断もしなくなってしまうはずなのです。

そうなったら、不満もなくなるし、同時にどんな欲望も消えてしまうでしょうね。

エゴから離れていく

何であれ自分の力でやり遂げたと思うようなものは、基本的にはエゴの力を強めるものだと考えておいた方がいいようです。

というのも、エゴは自分の手柄だと思えばそれだけ元気になるはずだからです。そして実は、エゴというのは、ネガティブなことでも同じように元気になるのです。

たとえば、自分が何かの間違いを犯したと思ったり、できなかった過去の自分を後悔したりしても、同じようにして力を強めるのです。

つまり、「自分が」やり遂げた、「自分が」失敗した、「自分が」あなたを愛している、述語が何であろうと構わないのです。

結局、「自分が」というところが強調されればされるほど、エゴは力を蓄えるということを覚えておくことです。

自分の手柄を喜ぼうが、自分の過去を悔もうが、どっちにせよエゴは勢力をつけていくことができるということですね。

であれば、エゴから距離を取るには自分の手柄(達成できた、勝負に勝ったなど…)や、自分の後悔(失敗した、できなかった、負けたなど…)に頓着しなくなること。

そして究極的には、そういったエゴを何とかしようとするエゴをただ見てあげることで、それから離れていくことになるのですね。

気づきがすべて

ただひとつの罪、それは気づきのなさであり、ただひとつの美徳、それは気づきだ。なんであれしていることをやりながら、その目撃者にとどまるなら、ただちにそのしていることの質が変わる。

By osho

ただ観照だけが在る!

 

瞑想について一言。心静かにジッとすることと、ボーっとすることとは全く違うということ。理想的な瞑想状態とは、次のようなものだと思えばいいのです。

それは、緊張のないリラックスした状態でありながら、かつあらゆることに可能な限り気づいている状態でもあるということ。

すべての知覚、あらゆる感情、気分、気持ち、身体からくる感覚など、どんなことも一つも逃さないように、全方位の気づきを持っていること。

その気づきこそが覚醒ということなのです。目を閉じて、身体から切り離された状態になっても、感覚はただそこに在るのです。

そのとき、自分はただすべてを観照するだけとなるのです。気づいている状態では、決して同一化することはないので、ただ観照するだけとなるのですね。

そして究極的には観照するものがすべて消えてゆき、観照だけがただ在るのです。観照されるすべての現象は、現象化される前に戻るのです。

 

エゴが瞑想を妨害するわけ

深い瞑想状態では、マインドから離れることになるのですが、そうだとすると人間の死も、マインドから離れるという点においては両者は一致するのです。

深い瞑想状態は、身体がありながらもマインドから離れることだし、死は身体の死と同時にマインドから離れるという違いがあるだけです。

ということは、深い瞑想状態を何度も経験している人は、人間としての死の経験を死ぬまえに経験していることにもなるのです。

だからこそ、瞑想者は死を殊更恐れることがなくなるのですね。マインドから離れることに、死の前に慣れてしまうからなのです。

そういう意味では、実際瞑想とは一時的に死ぬことだとも言えるのです。勿論肉体は生きているので、戻ってくることになるのですが…。

そして瞑想とは別に、マインドから離れるだけでなくて、そのマインドが二度と活躍しなくなってしまえば、それこそが覚醒するということなのです。

マインドの中に棲んでいるエゴはそれをとても恐れているわけです。それこそがエゴの死を意味するからですね。だからこそ瞑想の妨害をいつもしてくるのです。

なかなか深い瞑想ができないなと感じているなら、エゴが死にもの狂いで妨害しているに違いないということを覚えておけば、エゴも可愛く見えてきますね。

機能するマインド

当り前のことですが、今この瞬間に対して期待することはできません。期待したり望んだり、希望することはそのすべてが未来に向けてのことです。

この単純な理屈を忘れてしまわなければ、マインドから離れていくことができるのです。マインドとは、過去を思い出すことと、それをベースに未来への願望を思い描くことが仕事なのです。

過去も未来も存在してはいないのに、マインドはそこにばかり常にエネルギーを向け続けているのです。マインドの中の防衛に携わっている部分がその中心となっています。

一方マインドの中にも、何かの仕事を効率的に果たすために過去のデータを思い出すということはあるのですが、それは防衛のためではありません。

機能的に働くために必要となることをただ実践するマインドの部分なのです。この部分に関しては何の問題もありはしないのです。

なぜなら、今この瞬間のためだけに過去を思い出すことをするからです。マインドのこの部分は、未来に対してどんな期待も希望も願望も持ってはいません。

それはただするべきことをするために機能しているマインドだからです。エゴが落ちても、この部分だけは肉体と共に残るのです。

だから人はマインドから離れて光明を得たとしても、その後も今まで通り人生を続けていくことになるのです。ただ、過去を悔やみ、未来を憂うマインドが消滅しているのですね。

エゴから離れるために意識的でいる

私たちは、誰でもより優れた能力を身につけて、より良い自分、より完成された高い人格を得たいと思っているものです。そして、そうなるべく頑張るのです。

けれどもその目論みは失敗に終わります。なぜなら、エゴがエゴを改善しようとしているに過ぎないからです。元々エゴは決して悪者ではありません。

ただし、エゴを天使にすることはできないし、あるがままの自分を認めることができないことこそが、問題の本質なのですから。

最も大切なことは、エゴを改善しようとすることではなくて、エゴから離れることなのです。この違いをしっかり理解しなければなりません。

例えば、「私はつい他人に対して否定的な見方をしてしまう、そんな自分を改善したい。」と思うのであれば、それを次のように変えていくのです。

それは、誰かに対して否定的な見方をしている思考に気づいたら、「今それを採用しないようにする」そう宣言するだけでいいのです。

これは改善とはまったく次元が異なることに気づいて下さい。ただし、これができるようになるためには、自分の思考、自分の反応に対して気づいていてあげる必要があるのです。

それが意識的でいるということです。それができなければ、採用、不採用の前に丸ごとその思考に飲み込まれてしまうはずです。

自分がより快適な気持ちで過ごすために、○○と言う考え、○○という気持ちは採用しない、ということを練習することをお勧めします。

他人から見られることの不可能性

私たちの不安がどこから来るかと言うと、自分と同じように他人を評価する目を持った誰かに見られているという感覚からやってくるのです。

身体のどこかを見られても、それほど反応をすることはないのですが、目を見られたときだけ心の奥まで見透かされているような心許ない感覚になるのです。

目は心の窓というだけあって、自分の心の中をそこから覗かれてしまうという恐れがあるのでしょうね。他人にじ~っと目を見られたら、いたたまれない感じがするのはそうしたことが原因なのです。

けれども、本当の自分は肉体ではないのなら、つまり肉体との同化を解除することができるなら、そのときには他人から見られる客体としての自分はいなくなるのです。

そのことがどれほど自分を気楽にしてくれるのか、想像しただけで嬉しくなってしまいます。身体の内側に自分がいるという、この間違った感覚が邪魔なのです。

意識としての自己の本質は、決して客体になることはできないなら、他人から見られるということが完全に不可能なこととなるわけです。

そしてもう一つ、自分が身体の内側にいないのなら、一体どこからこの世界を見ているのかを検証する必要があるのです。

それについては、自分の外側に世界があるという間違った見方を捨てて、自己の本質が現象化したそれ自体にただ気づいていると分かればいいのです。

そうなったら、もう自分も自分を見つめてくる他人も誰もいないというところに行きつくのです。それは途方もなく穏やかな静寂の世界になるでしょうね。

自己探究をするのはエゴではない

人はどのくらいの割合で探究を始めるのでしょうか?何パーセントの人が自己探究に興味を持つのでしょうか?探究のきっかけは、きっと人生に困ったからなのでしょう。

大して困らなければ、そのままでずっと生きていけばいいのですから、面倒くさい自己探究などにエネルギーを向けるはずもないのです。

自己探究とは、探究者を探究するということですが、その探究者とは個人としての「私」というエゴのことです。エゴがエゴの本質(それがあれば)を見出そうとするわけです。

そしていずれは、エゴは架空のものであり「私」は存在しなかったと気づくという筋書きなのですね。けれども、探究を始めたエゴがそれ自体の不在に気づくことが本当にできるでしょうか?

それは絶対に不可能なことですね。ということは、探究を始めたのは本当はエゴではなく、私たちの本質こそが探究を続けたと考えた方がいいようです。

それなら辻褄が合うのです。そしてそれ自体がその本質に気づいた時点で探究は終わるというわけです。それ自体がこの現象界を見まわして、そのすべてがそれ自体だと気づくのです。

そうやって、このお遊びは終焉を迎えるのです。私たち人間は、そんなお遊びにちょうどいい道具として使われているのだと思えるのです。

だからどんな罪悪感も、どんな達成感もお門違いなのです。