「お約束」なしで成立するもの

関西の人というのは、普通に誰かがボケたらすかさずツッコミを入れると聞いたことがありますが、本当なんでしょうね。

そういうのって、お約束なんて言ったりします。つまり、誰かがボケたら、共通認識として誰かがツッコミを入れる。

この「お約束」というものがなければ、こうした掛け合いのようなものは成立しないわけですが、そうしたことで実は社会全体が成り立っているとも言えるのです。

例えば、「所有」という概念、これも共通の認識を通して成立するものであって、これは俺のものだと一人で頑張っていても、誰にも認めてもらえなければ何の意味もありません。

人と人との関わり合いの中で成立させているものとは、みんなこの「お約束」がそのベースとなっているわけです。

「価値」というものも実はお約束で成り立っているものです。紙幣やダイアモンドなどの価値も絶対的なものではないのです。

日頃私たちが大切だと思っているもののほとんどは、このお約束によってその価値を維持しているのです。

で、ここからが大切なことなのですが、お約束というのは当然のことですが、実在しているものではないということです。

そして、そのお約束や共通認識というものがなくても成立するもの、それこそが真理ということになるのでしょうね。

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1周回って…

「1周回って…」という言葉がありますね。どういう時に使うかというと、例えば流行が繰り返すときなど。

太めのズボンが流行ったかと思ったら、ピチピチのスキニーのような物が流行って、またしばらくすると、太いのが流行る。

流行の最先端を行っていたものが、しばらくすると時代遅れになって非常にダサイと思われるようになるのです。

けれども、新しい世代に代替わりすると、それがまたカッコいいと思われるようになってという具合です。

これは私が勝手に考えていることですが、私たち人間もこれから1周回って右脳に回帰していくようになるのかなと。

元々は、右脳が優位で長い間生きていた人類が、次第に左脳が発達するようになって、文明が発達したのです。

それがあまりにも極端に左脳偏重になってしまった結果、また自然に右脳優位へと戻っていくのかなと。

他の表現を使うと、無邪気な子供であったあなたが、立派な自我になってあらゆるバカバカしい防衛を繰り広げてきたのです。

それが、究極まで行ったことで、1周回ってまた純粋な子供のような存在へと戻っていくことになるのだろうなと思っています。

この1周は非常に価値のある体験だったとも言えるのではないかなと。

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人間が進化するとどうなる?

私たち人間が、この地球では一番進化した動物であることは確かです。異論がある人はあまりいないと思っています。

最も原始的な動物というのは、起きていることにただ反応するだけの動物です。例えば、カエルを例に考えてみます。

カエルは、エサとなるハエなどが目の前にやってきたら、長い舌を出してパクっと食べるのです。

あるいは、天敵である鳥などの影が見えたら危険を察知して、池などに飛び込んで身を守ろうとするのです。

こうしたことは、そうしようとしてしているわけではなく、ただの反応が起きているだけなのです。

クルマで言えば、自動運転のようなものです。障害物が見つかればそれを避けて、安全な場所を選んで走行するわけです。

では、カエルとワンちゃんとの違いは何でしょうか?犬は、ただ反応するだけではなくて、自ら考えて行動を決めることができます。

賢い犬になると、こうしたら飼い主さんに喜ばれるだろうと予想して、行動するなんてこともできるのです。

ただ周囲で起きることに反応するだけのカエルとは違うことは明白です。けれども、彼らは自分がそうしているという自覚がありません。

つまり、そこが私たち人間と一番異なるところです。人間もただ反応するだけではなく、自分で考えながら行動を決めることができます。

そればかりか、そうしているという自覚を持っているのです。つまり、犬が無意識であるのに対して、人間は意識的であることができるのです。

カエル→犬→人間、という進化を遂げたと考えてもいいと思います。では、人間が進化するとどうなるのでしょうか?

それは、犬が人間のことを理解できないのと同じように、人間もその先の進化を予想することは難しいでしょうね。

でも敢えて間違いを恐れずに表現すると、人間を超えると意識が完全に目覚めた状態になるのかなと。

そうなると、ようやく高次元の世界を理解できるようになるのかもしれないと感じていますが、どうなのでしょうね。

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人は見たいものを見る

私たちはこの世界を見たいように見ている、ということに気づいているでしょうか?自分に都合のいいフィルターを自動的に通して見ているということです。

私の体験をまずお話しします。何かすごく嬉しいことがあって、気持ちが高揚しているような時には、街行く人々がみんな軽やかに感じるのです。

誰もが明るくて、悪い人間がいないかのように感じたりするわけです。もちろんそれほど長続きするわけではないですが。

また、逆に嫌なことがあって、心が荒んでいるような時には、世界全体が灰色がかって見えたりしますね。

あるいは、何かに怒っているような場合には、誰もが敵のような気がしてしまい、自分のことなど誰にも分かってもらえないという気になるのです。

こういう状態を心理学的には「投影」と呼ぶのですが、まさに自分のマインドの中に映写機があって、それがマインドの内容を外側の世界に映して見ている状態というわけです。

もしも宝くじで何億円も当たったら、多少理不尽なことが起きたとしても、それを寛容に笑って済ませる自信があります。

それはマインドの中身がゆとり満載となっている状態を外側へ投影するのですから、全てが薔薇色に見えてしまうわけです。

さて、あなたは今日世界をどのように見ることができましたか?それがあなたの心の中の状態を表していることになりますね。

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時間をかけて変化を待つ

私たちの心(マインド)というのは、理性では分かっていたとしても、絶対に認めたくないということがありますね。

例えば、絶対的に正しいと思って信じ込んできたものをベースに生きてきた、あるいはそれにすがりついて生きてきたとして。

それはもう凄まじい努力と汗と涙と苦しみを伴う生き方だったのですが、その正しさに従う以外に生きる道がなかったのです。

間違った自分には決してなりたくない、そう固く誓えばそうなりますよね。他の生き方など、到底できなくなるわけです。

さあそうなったあるとき、その正しさって間違ってますよと言われたとして、冷静に考えてみたら確かに正しくない感じがしてきた。

けれども、ああ間違っていたんだなと簡単にその間違いを認めることができるでしょうか?イヤイヤできるはずがないのです。

なぜなら、これまでの血と汗と我慢と苦悩の全てが無駄になると思ったら、おいそれとその間違いを認めるわけにはいかないからです。

そんな時、人は理屈では間違いだったと分かるけれど、心がそれを許さないという感覚になるのだと思います。

それを認めた瞬間に、歯を食いしばって耐え忍んできた自分が死ぬことになると感じるからですね。

この場合どうしたらいいかというと、「時間をかける」これしかありません。そして、ゆっくりと心が変化していくのを待つことですね。

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このブログは自分のためにある

実は動画のネタって、これまでずっと書き続けてきたこのブログを主に参考にすることが多いのです。

気がついたら、このブログ書き出して丸十五年以上が経過していましたね。ざっとその数、5,500投稿です。

自分でもびっくりしてしまう数だなと。一つ投稿するのに、仮に平均で15分かかるとすると、この十五年で1,375時間費やしたことになります。

ちょっとすごくないですか?これは、本当に自慢でも何でもなく素直に驚いているわけです。それを1日も欠かさずアップするって。

どれほど急な用事のない人生なんだろうかと。誰だって、今日はちょっと書く時間がなくてアップできなかった、という日がありそうなものです。

書き続けてこれた要因はいくつかあると思うのですが、その一つは何と言っても誰かに強いられて書いてるわけではないということ。

自分が好きで暇に任せて書いているだけなのです。そこには微塵も頑張ったり苦労したりすることがないというのが大きい。

あるいは、書いている内容が自分にとって一番気に入っていることだからというのも大きいですね。

興味のないことを書こうとしたら、きっとすぐに終わってしまうはずだから。とにかく、このブログを書くのにエネルギーを使わない。

そしてたまに過去のブログを読んでみて、ああいいこと書いてるなあと 笑。自画自賛とはこのことですね。

何事であれ大切なことは、自分がやりたいことをやりたいようにやる。これが一番自然だし、自由な感じがしますね。

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知らない方がいいこともある

家を建て替えるプロセスが進行中なのですが、これまでは家の基礎部分に取り掛かっていたのが、今日から「上棟」と言って実際に目に見える家を建て始めたのです。

最近は、全てを工場で作ってきてしまい、それをクレーンで吊っては組み立てるを繰り返すことで、あっという間に作られていきます。

面白いから見た方がいいですよと営業の人に言われたので、朝一から間近で見ていたのですが、もう大工さんは失業するかもと思いました。

狭い路地に巨大なクレーン車がセットされている姿を見るだけでも、隣の家や電線やらをかいくぐっての作業がハラハラもの。

見ていると、つい大丈夫なのかと心配になってしまうので、私は早々に引き上げて帰ってきてしまいました。

私の性分としては、プロセスを見て楽しむというよりも、知らないうちにプロが作り上げてくれるのをただ待つ。

そして無事出来上がったら、安心して見に行く。そっちの人間なのかなと。情報が多ければいいというわけでもないなと。

知らない方が気が楽ということもあるということですね。それにしても、着々と作業を進めていく様を見ていると感心してしまいます。

自分には当然ですがそんなことはできないし、みんな凄いなと。応対してくださる態度も大人だし。

昔の偉そうな棟梁のような人なんていないのですね。時代が変わったといえばそれまでですがね。

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知らないことは清々しい

以下のoshoの言葉から、「無知の知」という言葉を思い出しますね。

『ほんとうに真実を知りたいと思う人に求められる第一の誠実さは、”自分自身で知っているもの”と”ただ受け売りで知っているもの”をはっきり見分けることだ。そして借りものは何であれ投げ捨てるのだ!それはすべてがらくただ。他の誰かの体験に知識の上でよく通じるよりも自ら無知であるほうがよい。』

自分自身で知っているものと、ただ受け売りで知っているものとを見分けるにはどうすればいいのでしょう?

かつてガガーリンが宇宙へ行って「地球は青かった」と言ったことは知っていますが、我々は地球が本当に青く見えることは知りません。

あるいは、この絆創膏は優れものだよと言われたら、ああそうなんだと思って、受け売りの知識を得たことにはなります。

けれども、自分で何度もその絆創膏を実際に使ってみて、確かに優れものだなと納得するなら、それは自分自身で知ったことになるのでしょうね。

こうして見てみると、外部からやってきた情報として知っているということと、自分の体験として知っているということの違いなのかなと。

だとすると、学者さんには失礼なことになってしまいますが、どれほどたくさんの文献を読んだとしても、その知識は受け売りの類になってしまいそうです。

とはいえ、この世界で役に立つことは大いにあるのでしょうね。そしてもう一つ、自分は何も知らないという状態にもなれるのです。

それは、記憶へのアクセスをやめてしまうことで体験することができます。それを面白がる心の余裕があるといいですね。

何も知らないということに気づくのは、とても興味深いことですし、清々しい気持ちにもなりますね。

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宗教を間違えるな!

宗教というと、それだけで毛嫌いする人が多いと思いますが、それは組織宗教ばかりが目だっているからだと思っています。

組織化された宗教団体というのは、本当の宗教とは全く関係ないことに気づいた方がいいと思うのです。

真の宗教とは、完全に個人的なものであってみんなで何かをするというものではないのです。団体に入信するとかではありません。

誰かに言われたことをしっかり守るというのでもないのです。なぜなら、個人的なものだからですね。

そのことに気づくことができれば、宗教への偏見は消えていくと思います。私自身は、ピラミッド型になっているものは、すべて敬遠しています。

団体の誰かのためにという変な目的が生じたなら、もうそれは宗教ではないと理解できればいいのです。

戒律とか、ルールとか、そういうものを大事にするのも非常に苦手です。これをしてはいけない、これをやったら地獄に落ちる等々。

理由は簡単です。人間は、ありのままの自分自身でいること、より自然でより自由であることこそが、宗教そのものなのだと思うからです。

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自我が薄れる瞬間、全てがどうでもよくなる

セラピストとしてクライアントさんと向き合ってきた20数年間、いつも自分の存在価値にしっかり気づくことが大切と思ってきました。

自分という存在が、紙っぺらのように薄い感じがしたら、それは不安だし心許ないのは当然のことです。

その状態で自己肯定しろっと言っても無理があります。だから、どんな手段を使ってでも自分の存在価値に気づいて下さいと言ってきたのです。

そのことに間違いはないのですが、自分がよく瞑想をするようになったからなのかは分かりませんが、自分自身の感覚に変化が起きています。

それは、自分の価値などに興味がなくなったというのか、自分が生きた証などもまったく不要な感じがするのです。

自分というのをイメージすると、消えて無くなってしまうか、あるいは全体かのどちらかになってしまいそうです。

消えてなくなる側で言えば、存在の価値も存在の意味も消えて、つまりいてもいなくてもいいくらいの存在かなと。

逆に全体の側で言えば、何から何まで全てが自分自身という感覚というのか。人生で起こることのすべてが自分の内側で起きている感じ。

個人としての自己が薄れて、どんな期待も目的も消えて、ただ静かに在るだけのような感覚が近い感じがします。

とはいえ、また明日外出して人と会うといつもの自我に逆戻りしてしまうのでしょうけれどね。

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