存在を意識する

私たち自我にとって興味の対象となるものは、目標だったり、価値だったり、あるいは達成や意味といったものです。

それは社会がそれを要求するからでもあります。誰も声高に存在について話すことはありません。なぜなら、存在には興味を持てないからです。

存在を目標にすることもできないし、存在の価値を高めることもできません。あるいは存在はすでに達成されているし、そこにどんな意味づけもできないのです。

幼い子供が立派に成長していく姿を親は楽しみにしているのですが、子供の存在にはどんな成長もあり得ないのです。

ところが存在をしっかり意識できるかどうかで、人生は大きく変わってしまいます。自分自身の存在や他人の存在に意識が向くのであれば、自我の策略に巻き込まれ難くなるからです。

忙しい毎日を生きている最中でも、存在を意識することを忘れずにいられるなら、物語の内容に右往左往せずにいられるかもしれません。

思考がぐるぐる動き回っている間は、存在に気づかなくなるし、逆に瞑想状態になればなるほど、存在が際立ってくるのです。

また純粋な愛ほど対象は存在に向かうのです。だから存在の認識がなければ、そこに愛はないということになるはずです。

このブログの内容がいまいちピンとこなくても大丈夫。その場合でも、存在ってなんだろう?と日頃から疑問を持ち続けることです。

いずれは、ああこんなにシンプルなことだったんだなと気づくことになるはずです。

無意識は憑依されやすくなる

今日もoshoの言葉を引用させてください。

『醒めていなさい。〈行為〉と〈行動〉の違いを感じとるのだ。そして〈行動〉があなたをとらえたとき。-実際のところ、それは憑依と呼ばれるべきだ。』

実は、このoshoの言葉は以前から知ってはいたのですが、最後の憑依云々のところがちょっとオーバーに感じていたのです。

ところが、最近の母親の言動を見ていて、なるほどと思わされたのです。確かにあれは憑依というにふさわしいかもなと。

もしもあなたが醒めていれば、つまりは充分に意識的であれば、〈行動〉に囚われてしまうことはないと言っているのです。

その上で、逆に無意識状態であればあるほど、〈行動〉にあなたは乗っ取られてしまうのです。それを憑依されたと表現しているのです。

夜寝てすぐに目が覚めると、母親は不安と心配の権化のような状態になってしまいます。自分で作った夢に占領されているなと。

けれども、無意識状態において不安や心配のエネルギーを持っていると、その隙をついて浮遊していたそっくりのエネルギーが憑依するとも言えるのです。

実際、暗視状態の監視カメラに映るたくさんのオーブは、母親から出てくるのか、あるいは外からやってくるのか、その判断は難しいのです。

もしもあなたが、何かの不安や心配事に占領されているなと自覚するなら、その時には憑依されていると思ってもいいのかもしれません。

その場合には、場所を変えるなり、何か違うことに意識を向けるなりして気分転換を心がけてみることです。考えてみたところで、何も解決などしないのですからね。

全ては無へ帰還する

物事は大抵が、上手く行ったりつまずいたり、また上手くいったかと思ったらすぐにつまずいたりの繰り返しなのですね。

もうすぐルシッドのホームページのリニューアル作業が終わりを迎えようとしています。様々な選択肢がある中で、最も安易な方法に落ち着いたのです。

そしてプロの手腕を借りずにやるという選択をしてから、どれほどのプチ成功と失敗を繰り返してきたことか、思い出すと笑えます。

もちろん、その都度笑うどころか顔面が引きつってしまうようなことも何度もあり、当初の選択を間違えたと落胆するわけです。

まだ最後の大仕事である、載せ替えるという難題が待っているのですが、きっとそれも上手くいったりつまずいたりを繰り返していくんだろうなと。

そして終わってみれば、なんていう事はない、どうでもいいような内容だと気づくのです。人生全般についても同じことが言えますね。

色々な失敗やもう立ち直れないと思うようなことがあったとしても、物語は淡々と続いていくのです。そして必ずいつかは終わりを迎えます。

それで何一つ残るものはなし。それが救いですね。なんて気持ちのいい終わり方ができるのでしょう。全てが無に帰還するのです。

母親の中に棲んでいる小さな女の子

最近このブログで、老いて短期記憶がなくなってしまった母親のことをときどき書くようになったのですが、今日もその関連のことです。

どういうわけか、夜寝てから朝起きるまでの間に何度も何度も目が覚めて、その度にトイレに行ったり台所に行ったりするようになったのです。

なんだか家の中を徘徊しているような感じです。どんな薬を服用させても、一向に効果が出ないので困ったなと。

足腰が弱ってきていて、家の中の移動も手摺り伝いにしか歩くことができなくなっているので、夜中の行動が気になっているのです。

実際に何度も転んだり、尻餅をついて立てなくなったりしているので、心配で監視カメラを設置して夜の行動を見るようにしていたのです。

そんな中、母親から不安で仕方がないのは一人で暮らしているからだと言われてしまい、二階には私たち夫婦がいるのですが、一階は私独りだと。

それで私は一階の元父親の部屋に引っ越しをすることにしたのです。何かあったらすぐに行ってあげられるし、何よりもこれで独り暮らしじゃないよと言えます。

実際昨夜は、私のところにいつもの不安を持ってやってきてくれました。夜は人格が違うので、小さな子供に対峙するような感じになります。

不安と心配の中身を聞いてあげて、こちらからは安心の材料を伝えてあげることで、安心して眠りに戻ってくれるのです。

これまで隠されてきた母親の潜在意識の中にいた幼い女の子の人格が、今頃になって出てきてくれているんだなと思うと、ちょっと愛しい感じもしますね。

頭の中のおしゃべり

あなたの頭の中でずっとおしゃべりが続いているのでしたら、あなたがずっと眠っているということを意味します。

もちろん目を開けて、日々の活動をしながらも眠っているということです。夢はあなたの思考でできているからです。

多くの場合、その眠り(夢)の中で恐怖が襲ってきたり、不安に苛まされたりするわけですが、本人だけがそれが現実だと信じているのです。

夢の中でもがき苦しんで、脂汗をかいてゼイゼイいっていても、一向に気付く気配すらありません。それもみんな頭の中のおしゃべりのせいなのです。

何であれ、頭の中のおしゃべりが静かになってくれないことには、クリアな目でこの世界を見ることができない状態でいるのです。

一時的でもいいので頭の中を空っぽにするためには、いくつか方法がありますが、お好みの方法を探してみることです。

例えば、広々とした大自然の中で少しの時間を過ごしてみるとか、静かな場所で短い時間でもいいので瞑想をしてみる等々。

兎にも角にも、騒々しい頭の中を空っぽにすることができれば、それだけで自動的に目が覚めてくるのです。是非試してみてください。

身体との同一化は外れない

私たちの本質は身体などではないということを、情報として、また知識として知っているという人は珍しくはないでしょう。

特に、スピリチュアルを標榜する人たちにとっては、そんなことは当たり前だということになっていると思います。

けれども、そのことに真に目覚めてしまった人は少ないのではないでしょうか?知識として知っていることと、それを体現することとは月とスッポンほどの違いがあります。

その証拠に、自分の今日1日の出来事を思い返した時に、記憶に残っているのは自分の身体が活躍している場面ばかりではないでしょうか?

だとするなら、身体との同一化は全く消えてはいなかったということです。もしも身体との同一化が取れたらどうなるのか?

少なくとも、身体にまつわる痛みや苦しみというものから解放されるでしょうね。もちろん、それがなくなるというのではなく、それがただあるという状態になるのでしょう。

肉体的な病気もなくなるわけではないですが、当事者意識からは解放されるので真の救いがやってくるはずですね。

ではなぜ、私たちにとって身体との同一化が外れることは難しいことなのか?それはきっと、自我の存続が関わっているからなのです。

自我の正体は、思考の集まりなので実態がありません。だから、必ず何かとの同一化を保っていなければ、もたないということです。

だからこそ、身体との同一化はなくならないのです。万が一同一化が外れた暁には、自我も解体されて自然に覚醒することになるのでしょうね。

野生に戻ること

癒しという観点から見た時には、社会的な常識あるいは社会的な正しさというものが、とてもその邪魔になってしまうことがあるのです。

例えば、親を大事にしなければいけない、親を尊敬しなければいけない、親の言うことはありがたく聞かなければならない。

20歳になったらもう誰のせいにすることもできない。こういった一見すると正しいような、まことしやかな教えは沢山ありますね。

社会全体がそういうことを言っているし、親自体あるいは親戚縁者のような取り巻きなども、そうしたことを親切ごかしに言ってくるのです。

けれども、そんなものは癒しが進んだ暁にはどうにでもなるものです。そんなことよりは、自分の奥深くにある正直で素直な気持ちを大切にすることです。

素の自分と向き合うことでしか、自分を癒すことはできません。誰かに言われた、どこかで聞いた人格者然とした言葉に耳を傾けないことです。

自然に帰ること、野生に戻ること。それでも心配はご無用です。もうあなたから社会性をとってしまうことなど、到底できないのですから。

安心して、思う存分自由な自分を表現させてあげることです。そうして初めて、あなたの本当の姿がこの世に出てきてくれるのですから。

それはそれは気持ちのいい清々しいものですよ。

意識の海の中へ溶けていく

朝目覚めた時に、なんだか嫌な夢を見ていたなあと思うことがありますね。その状態というのは、もうすでに夢と現実を天秤にかけて、現実が勝った後なのです。

私の経験ですが、夢から現実へと遷移するのがとてもスローな時があって、その場合には本当にグラデーションのようにゆっくりと変化するのです。

いずれの場合であっても、現実が夢に負け続けるということはありません。少し時間はかかったとしても、いつかは現実に目覚めることができます。

けれども、現実の記憶が希薄であったりほとんどなかったとしたら、その時は目覚めた後もずっと夢の中に居続けるしかなくなるのです。

私たちが肉体の死を迎える時にも、これと同じようなことが起きるのではないかと考えています。この現実の世界でずっと無意識的に生きてきた人は、死後もずっと自分の本質に目覚めることができないのです。

そのうちには、マインドのエネルギーが行き場を探して、誰かの子宮の中へと入っていき、また無意識状態のままで新たな人生を迎えるのです。

言ってみれば、新たな夢(人生)の始まりです。一方で、日頃から充分に意識的であった人は、死後すぐに自分の本質である意識に戻るはずです。

そしてひとりでに全体性(意識の海の中)へと溶けていき、もう二度とこの現実という夢には戻らなくなるのでしょうね。

無意識が思考を招く

人は充分に意識的であることができるなら、思考を寄せ付けずにいられるようになるのです。思考は無意識の隙を見てあなたの中に侵入するからです。

思考の中で最も根源的なものの一つは、自分は惨めだというものです。そして惨めさというのは、自分の存在が危ぶまれると感じさせるものです。

だから全力でそれを隠そうとするのです。もしも惨めさをそのままに受け止めるなら、それは悲しみという感情として表現されるでしょう。

けれども、大抵の場合は正面切って惨めさを見つめることをする代わりに、あるもので覆い隠そうとするのです。そのあるものとは、怒りの感情なのです。

ところが、その怒りそのものをまた抑圧してしまうという防衛が働くこともあって、その場合には、惨めさと悲しみと怒りを全部ひっくるめて隠してしまうのです。

怒りを抑圧する場合、怒りとその元になった物語(思考)を絡ませて、恨みや復讐心、あるいは呪うようなものへと変化させることもあります。

そうなると、純粋に怒りを味わうことが難しくなるはずです。なんだかややこしい話しになってきましたが、ことの発端は無意識でいたという点です。

だからなるべく意識的であるようにして、あちこちに浮遊しているゴミのような思考を中に入らせないようにすることです。

これまで蓄積してきてしまった感情は、思考と分離する形でしっかり味わって消費すること。そして、これからは意識的であるように心がけることが一番大切なことですね。

比べてしまう習慣

私たちは物心がついた頃には、もうすでに他人と競うということを覚えさせられるのです。子供の時に大の苦手だった幼稚園の運動会。

あの駆けっこが、大人から見れば何と可愛らしくて、またいじらしい姿なのかと思うのでしょうけれど、本人としては必至なわけです。

小学校に入れば、自ずと勉強の成績で順位づけらしきものがもう既に始まっていて、図工などの教科で作らされる様々な作品も友達と競わされる。

優秀作品には何かの賞が与えられて、廊下や教室の後ろに張り出されたりするのです。親もそういう目で子供を評価するのが当たり前。

だから大人になった頃には、もう充分過ぎるほど他人と競うということが性根に組み込まれてしまうのです。その結果、いつも自分と人を比較する習慣が出来上がるのです。

その一方で、比較することは良くない事だとかなんとか、まことしやかなことを言われて憤慨しても、もう手遅れというものです。

他人と自分を比べて一喜一憂するクセはあなたのせいではありません。誰もが大なり小なり幼少の頃から社会や大人たちによって組み込まれてしまったのです。

私たちにできることは、比較してしまう自分を否定せずに優しく見守ってあげることです。とにかく負けて落ちこぼれないように必死なだけなのですから。