ゴールデンウィーク

今年のGWは4月30日と、5月6、7日をお休みにしてしまうとなんと11連休になるのですね。私が会社員でしたら当然そうしてたと思います。

勿論仕事によってはそういうことができない職種や会社もあると思いますが、私が10年前まで勤めていた会社ではそういうことができました。

なぜなるべく多くの日数の連休を取ろうとするかと言えば、仕事がキツイし会社にはなるべく行きたくないと思っていたからに違いありません。

生活していくためには、仕事をしなければならないのは当然かもしれませんが、経済的なことだけでなく自分の人生というものに大きな不安を持っていたのだとも思います。

だからこそ、それほどに行きたくなくて休んでいたい会社を辞めずに働き続けようとしていたわけです。

会社員の頃はお休みこそ我が命のような感覚がありました。ですからたまの休みともなると、誰にも邪魔されずに自分の身も心も休息させてあげたいのです。

しかしよく考えてみると、仕事とは離れたプライベートな時間があり、その時に楽しむことができると思うからこそ頑張って仕事をしているはずなのに、休日はただ休息のために費やすのでは本末転倒ですね。

会社員の生活から離れた今は、あまり休日というものが必要なくなってしまいました。それは仕事をしている時とプライベートな時間との境界が曖昧になっているからだと思います。

どちらも場所も同じだし、心の中で思っていることも同じなので、区別することが難しいのです。勿論、仕事は一人ではなくクライアントさんや受講するみなさんとご一緒ですし、プライベートは概ね一人です。

それでも実は自分以外の人たちというのは、自分の内面の大切な部分だという思いがあるので、あまり違いがないのかもしれません。

仕事と自分独りでいるときとの唯一の違いは、まだまだ心の中の防衛が多少なりとも働くという一点だけかもしれません。

これがもっともっと取れていったら、本当にすべてがプライベートという状態になってしまうのかなと想像して楽しんでいます。

ということで、このゴールデンウィークも予約が入れば仕事をさせていただきます。

問題は問題ではない その2

昨日は、表面的な問題と思えることは、実は本当の問題の結果であるというお話しをしました。結果をいくら改善する努力をしても、元の原因を見出さねば何の解決にもならないのです。

そのことについて、また別の観点から見ていくことにします。私は若い頃からずっとクルマの渋滞がとても苦手でした。

特に高速道路での渋滞は逃げ道もないですし、高い高速料金を払った上でのいつ果てるともないノロノロ運転を強いられるのは大問題と憤慨していました。

道路の設計がなってないからだとか、連休などの民族大移動がいけないんだとか、こんなときに旅行に行こうと言い出す家族が悪いとか、もうそれは様々な問題点を見つけようとしていました。

昨日の論理で考えると、渋滞にはまるという表面的な問題を見るのではなくて、目には見えない心の中の原因を見るということでした。

確かに心の奥には渋滞に遭遇させるさまざまな原因が考えられるのですが、それを一つひとつ見ていくよりももっと手っ取り早い解決法があるのです。

それは、問題を問題として捉えてしまう心そのものを問題と見るということです。つまり、自分が渋滞に巻き込まれてもそれを問題視しなければいいのです。

それは渋滞という事態を許すという心の行為によって解決していけるのです。よくよく考えてみると、どんなひどい渋滞にはまってしまったとしても明日からまた普通通りの生活があるだけです。

そこで憤慨したり、イライラするだけ自分が自分を苦しめているだけだということに気づいたのです。事態を許すという気持ちになれると、ス~ッと気分が楽になるのです。

本当にそういう気持ちになれると、今度は渋滞に巻き込まれたときにまたそれを許すという練習ができると密かに喜ぶくらいにまでなりました。

自分の気持ちをその状態に保つことができると、何を目にしても、どんな状況に遭遇しようと問題とは思わないでやり過ごすことができるようになるのです。みなさんもいろいろな状況で試してみて下さい。

問題は問題ではない

私達はよく、「問題は何?」とか、「これが問題なのだ」などと言って、解決すべき事柄をそのように表現しますね。

例えば、子供が学校に行くのをいやがって、とうとう不登校になってしまって困っていますという相談を受ける場合があるのです。

そのような場合、勿論表面的な問題は子供が学校に行かないということなのですが、私はそのことを問題視するのをやめて下さいとお伝えします。

その理由は問題のように見えているものは、実は本当の問題が原因となって起きている結果でしかないからなのです。

つまり、結果をいくら問題だと思って解決しようとしても、それは本当の問題の解決には決してならないということです。

仮にその表面的な問題が形としては解決されたとしても、原因となる事柄が全く解決されてなければ、その原因は遠からずまた別の何かの結果を起こすことになるのです。

目の前で起きていること、発生している事態、そういった表面的なことを問題だと思わないという習慣をつけることです。

そうしておいて、そうした事態の原因となるものは一体何なのかということについて、落ち着いてじっくりと考えてみるのです。

大抵本当の原因は目には見えないところにあります。それは心の中にあるからです。不登校の子供の心の中に、なんらかのその原因が隠されているのです。

そして、本当の原因を理解することができたら、内在していた大きな問題を解決するチャンスにつながりますし、そうなったら今まで問題だと思っていたことが、ありがたい導きだと悟ることができるのです。

記憶のコントロール

誰にでも経験があると思いますが、私達は自分にとって都合の悪いような記憶を忘れがちになるものです。勿論本当に忘れているわけではないのですが、覚えておくことを嫌がる自分がそうさせるのです。

こうした記憶のコントロールは単に忘れさせるというだけではなくて、記憶をいいように改ざんしてしまうことも含まれています。

都合のいいことはいつまでも覚えておいて、折に触れてそれを人に話したりしますし、場合によってはニュアンスを変えて記憶し直してしまったりもするのです。

本人の自覚としては、自分の記憶は基本的に正しいものだとの認識があるものですから、相手に記憶違いだと指摘されてしまうと怒りが出てくることもあります。

自分を被害者の立場に置いておきたい人は、自分が加害者であったときの記憶は薄れさせておいて、被害に遭ったときのことを強調していつまでも覚えています。

そうやって無意識レベルの記憶のコントロールをされてしまうために、人は公平な目で自分を見ることができなくなってしまうのです。

誰かに自分のことを受け止めてもらいたいという気持ちが強い人は、今までに誰かに受け止めてもらったことがあったとしても、そのことを記憶から消してしまうのです。

その結果、本人は朝目が覚めるとまた自分は誰にも受け止めてはもらってないという飢餓的な心境からスタートすることになるのです。

そうやって、今日も人に分かって欲しいという訴えを続けることになるのです。でもまた、明日になるとそのことを忘れさせられてしまうために、また初めからわかって欲しい人生を開始しなければならないのです。

人生から学べてないと感じている人は、どこかで記憶のコントロールが働いていると思ったほうがいいかもしれません。

自分の記憶など全くあてにならないというところから、もう一度自分の人生を見つめてみることは大切なことだと思います。

逃げ水

みなさんは、「逃げ水」という現象をご存知でしょうか?これは蜃気楼の一種なのですが、今日たまたま空いた時間にクルマを運転している時に何度か見かけました。

強い日射で道路が熱せられると、前方に水たまりが出現したように見えるものです。近づくと先へ先へと逃げていく、これが「逃げ水」という現象です。

地表付近の空気が熱せられることにより空気の屈折率が変わり、上のほうの空気と異なる屈折率となるので一種のレンズとなり、遠くの景色が道路の上に見えるらしいです。

夏の風物詩なのですが、今日は久しぶりによく晴れて、日中道路の温度が上がったから見えたのだと思いますが、私は幼い頃からよくクルマに乗っている時に目撃していました。

前方の道路の路面が濡れているようにキラキラ光ってとてもきれいなので、好きな人は多いかもしれませんね。

本当は何もないところに、あたかも何かがあるかのように見える現象なわけですが、肉眼というものはとても騙されやすいものだという一つのいい例かもしれないです。

そういった蜃気楼というものは、科学的に簡単に説明がつくのですが、実は我々の眼というのは自分が見たいものを見たいように見ているということなのです。

本当はそこには何もないのにあるように見える、あるいはそこには本当は何かがあるにも係わらず、何も見えないという現象も起こします。

更には、我々が肉眼で見るからこそ、そこに何かが在るというようにも考えられるのです。つまり、物体がそこに存在するということは、見るという知覚があるからだということです。

もっと言えば、知覚は自分が体験したいものを体験するためのメカニズムであると言えるのです。いずれにしても、控えめに言っても私達は自分の感覚をかなり都合よく使っているということですね。

知覚とはそういうものですので、あまり過信しないことです。でも、「逃げ水」のような面白い現象を見せてくれたりもするので、それを多いに楽しめばいいのかもしれません。

「負け知らず」の人

みなさんは、「負け知らず」な人と聞いたらどんな人を想像するでしょうか?才能が豊かで何をしてもいつも人より劣ることがない人とか、いつも勝負に勝つ人とかかもしれません。

喧嘩に強い人や、とにかく弱々しくはないイメージがすぐに浮かぶと思います。しかし、本当の「負け知らず」な人というのは、そういったイメージの逆の場合がほとんどなのです。

例えば、子供の頃に親のことが怖くてビクビクしていて、自己表現することもできずにいるような子は、か弱い子と思うかもしれませんが、実は最強なのです。

学校でいじめっ子にいつもいじめられて、みんなの輪の中にも入れず独りで惨めにひっそりとしているような子が、本当は「負け知らず」な子なのです。

なぜそういった、最も弱そうな子が一番の「負け知らず」かというと、その子は決して白旗をあげてはいないからです。

欲しいものがあっても決して買ってと言わない子は、そういう辛い状態にも耐えることができるということです。それは最強とは思いませんか?

負け知らずな人は、得体の知れない怖い存在に追い掛け回されるような夢を見るかもしれません。なぜなら、負けを認めずに逃げ回っていられるからです。

白旗をあげる人は、すぐに逃げるのをやめてもうどうにでもして下さいと腹をくくるはずなのです。絶対に負けないという人だけがいつまでも逃げ回るわけです。

子供のころから頑固で表面では弱々しくしているものの、心の奥では負けを認めない人、そういう人が「負け知らず」な人なのです。

「負け知らず」な人とは、限りなく自分を防衛し続けることのできる人のことです。自己表現をしないのも、おとなしくして耐えているのも、みんなそういう人であるわけです。

弱い犬ほどよく吠えるということわざがあるように、本当に弱いものはよくわめいたり、自己表現がさかんにできる人なのです。

自分が気が小さくて言いたいことが言えないと嘆いている自覚のある人、そういうあなたこそ実は「負け知らず」な最強の人だと気づく必要があります。

そして、すぐに白旗をあげてまいりましたと言える人ほど、生きていてダメージは少ないし、幸せを手に入れやすいということを覚えておいて欲しいと思います。

無駄な時間

学校を卒業して就職した年に、その職場の標語のようなものを教え込まれたことがありました。それは「ムリ」、「ムダ」、「ムラ」、という三つの「ム」をなくせ!というものでした。

確かに仕事場でムリをすると危険が伴いますし、気分のムラは精神上よくありませんし、ムダは効率を低下させることにつながりますね。

しかし、プライベートな時間においては、無駄な時間というものがあってもいいというふうにみなさん思っているはずです。

仕事や勉強などで疲れた心身を、ゆったりとした時間を過ごす事でリフレッシュすることはいいことですね。それは一概に無駄とは言えないかもしれません。

私は、もう長い事のんびりとした時間を過ごす癖がついてしまっています。特に、夕食時にダラダラと長い時間お酒を飲んでいたり、テレビを見て大笑いしていたり、ネットで気になる情報を読んでいたりします。

そういう余暇の過ごし方を特には無駄な時間だとも思っていませんでした。しかし、心のどこかでは他にやることがあるのにと言う声も聞こえたりしていました。

とはいうものの、そういうことで自分を責めることはほとんどなかったのですが、どういうわけかここに来て急にそういうダラダラとした時間を費やすことに魅力がなくなってきたのです。

何となく無駄だなあという感覚だったり、あまり必要ないかも知れないなあという感覚がやってきています。長い間の習慣となってしまっていただけで、本当は必要ないのかもしれません。

そういった時間を自分が本当にしたいと思っていることに当てることができると、やっぱり気持ちがいいのです。

人はあらためて一大決意などしなくても、時期が来ると自然に変化していくものなのかもしれません。でもまだまだ未練は残していますが…。

特別でありたい自分

少し前に「特別な自分」というブログの中で、誰もが自分のことを特別だと思っているということを書きました。

特別視するあまりに、自分を客観視することができなくなってしまい、不要な緊張を起こしてしまったりするということをお話ししました。

この特別さというものを私達はどう思っているのでしょうか?少し掘り下げて考えて見ると、自分は特別だと言う事と、自分は特別でありたいということとは違うように感じます。

つまり、本当に特別だと思っているのなら、特別でありたいとは殊更思わないはずなのです。しかし、他人と違う服装をしてみたり、目立つクルマを所有したり、個性を発揮しようとするのはそのままでは特別さが薄れてしまうという恐れを持っているということです。

本当は自分が特別だとは自信を持って思ってはいないのではないかと勘ぐってしまいたくなります。そして、自分の心の中をよく観察してみると、特別でありたいという気持ちを強く持っていると分かります。

きっとこれは万人に共通の気持ちだろうと推察しています。ということは、心の底では特別ではないということを分かっているのかもしれません。

その秘密を伏せておいて、特別な自分になりたい心の部分が「からだ」を作り、その「からだ」こそが自分であると思い込ませたのです。

そういった目的で「からだ」を作ったために、「からだ」は他とは違う個別性を持つことになったということなのではないかと思っています。

自分を特別な存在に仕立てるために、私達は「からだ」を用いて他との比較において優劣をつけたり、勝敗を決めて特別さをより鮮明に証明することに躍起になっているのです。

自分の普段の毎日の生活を思い出して、より明確な特別さを求めていない行動というものが果たしてあるのかどうか考えて見て下さい。

いかに自分が特別さを必死になって求めているか気がつくはずです。その頑張り方は尋常ではないのです。勿論、その理由は特別ではないという秘密を隠しもっているからなのだと思います。

「からだ」と「心」

私達は自分のことを「からだ」と「心」というふうに見ています。そして、それらは次のように分けることができるのです。

「からだ」 -見える部分 —— 肉体
      -見えない部分 —- 頭脳、能力、気質、性格

「心」   -自分を「からだ」だと思っている部分
       -本当の自己を知っている部分

ここで気をつけなければいけないのは、目には直接見えない「からだ」の部分である頭脳や気質などを「心」と勘違いしがちなことです。

その人の個性として捉えられるものはすべて、「からだ」の機能であるDNAにその設計図が入っているので、区分けとしては「からだ」であると言えるのです。

そしてその「からだ」を自分だと思っている心の部分で我々は生きているために、頭脳や気質などは「心」だと勘違いしているのです。

つまり、「からだ」はDNAによる個別性を持っていると思われている部分であり、「心」はその反対に個別性を持たない部分であると言えるのです。

ちなみに、自分を「からだ」だと信じている「心」の部分をエゴと呼び、真実の自己を知っている「心」の部分を愛と呼べると思います。

そして残念ながら、我々はほとんどがエゴの部分で自覚しているために、すべての人の「心」が同じものであって個別性はないということが分からないのです。

何度も繰り返しますが、「心」そのものには何の違いもありません。ただ、一つひとつの「心」が自分は「からだ」だと信じている部分を持ち、その「からだ」には個別性があるために「心」そのものも個別性があると思い込んでいるということです。

どの「心」もそのもの自体は何の違いもないということは、すべての「心」は一つであるということになるのです。それこそが愛なのです。

笑い声が好き

私はお笑いが大好きで、いつも大口を開けて大声でわっははわっははと笑っています。その割には、自分の笑い声というのがどんなものかはあまり把握できていません。

最近私は人の笑い声が大好きなんだということを発見しました。何となくは気づいていましたが、意識して聞いて見たらそのことがはっきり分かったのです。

先日近所を歩いている時に、幼い女の子が前を歩くお母さんをよそに立ち止まって、ものすごく愉快そうに笑っているのを見ました。

その笑い声が何と表現したらいいか分からないほど、心地いい響きだったのです。思わずその姿と声に見とれてしまったほどです。

自分の子供達が幼かった頃の笑い顔や笑い声を今も記憶していて、時々思い出したりもしています。そう言うときにはとても暖かな気持ちになれるのです。

笑い声にもいろいろな種類のものがあるのでしょうけれど、笑っている本人が腹の底から愉快で楽しくて出している声なら、きっと誰の笑い声でも素敵なんだろうと思います。

笑うかどには福来たる、というコトワザがあるくらい、笑っていればとてもいい気持ちになれるものですね。だからこそ、笑い声が好きなのだと思います。

そう言う意味では、屈託のない笑い声が一番好きかもしれません。戒律の厳しいどこかの国では、女性が歯を見せて笑うことはみっともないこととされていたりします。

今の日本ではそんなことはないですから、誰もが何も恥じることなく心の底から大笑いできる世の中であればいいなと思います。

私の前で笑ってくれる人がいると、私はとてもいい気持ちにさせてもらえるので即感謝してしまうくらいです。みなさん、沢山笑って下さいね。