モグラ叩き

ゲームセンターなどに昔からある「モグラ叩き」というゲームがありますね。沢山のモグラがランダムに飛び出してくるのをできるだけタイミングよくハンマーで叩くというものです。

このゲームは反射神経を競うものですが、同時にハンマーで思い切り叩くという要素があることから、日頃のストレスの発散をも兼ねているのではないかと密かに思っています。

私達はこのゲームと同じような事を、実は自分の心の中で日常的にやっているのです。モグラに相当するのは心の中に沢山ある意識の断片です。

それら心の中のモグラは、自分にとって都合の悪いものなので、表に顔を出されたくないために心のハンマーで常に叩いて心の奥に戻してしまうのです。

そういった都合の悪いモグラとは、怒りなどの感情だったり、ダメな自分だったり、ありとあらゆる認めたくない自分の断片たちなのです。

戻された心のモグラたちは、また頃合を見つけては表に飛び出してこようとします。そんなことを延々と繰り返しているということです。

モグラ叩きゲームは時間がくると自動的に終了となるのですが、心の中でのモグラ叩きはそのままでは終わるということがありません。

叩くことに疲れてしまって放ってしまうこともありますが、その時にはそのモグラが表にしっかりと出てきてしまい、自分はそれに乗っ取られてしまうこともあります。

心の中でのこのゲームをやめる方法は一つしかありません。それは、一つひとつのモグラを叩くことをやめるということです。

勿論叩かなければモグラは出てきたままになりますが、それをそのままにするのではなく、しっかり見てケアしてあげるのです。モグラを裁かないようにするのです。

そうすることで初めてそのモグラたちは、自分が受け入れてもらえたという気持ちになっていき、しまいには訴えることをやめて静かになってくれるのです。

あなたは自分の心の中にいる沢山のモグラたちをしっかり見てあげることができるでしょうか?初めはきっと辛いことだと感じるでしょうね。ずっと叩いて潜らせて見ないようにしてきたものなのですから。

でも少しずつでも一匹二匹とそのモグラたちに光を当ててあげると、心の闇の中でうごめいていたモグラたちは、やがて消滅していくことになるのです。

結果が原因を誘起する

昨日は、逃げれば逃げるほど恐怖は増すというお話しをしました。怖いから逃げるのが原因と結果の因果関係なのですが、結果である逃げる行為が原因であった怖いという状態を誘起するということでした。

実はこの原因が結果を誘起するというのは、このほかの様々なことにも適用されることなのです。普通の元気な精神状態の時に、わざと悲しいときに自分が泣くときのまねをしているだけで本当に悲しくなってきたりします。

以前ブログかコラムにも書いたことがあるのですが、気分が落ち込んでいたときに、この気持ちを何とかしようと思ってクルマの中で大笑いをしてみたことがありました。

すると、しばらく続けているうちに楽しい愉快な気持ちに変化することができたのです。何も笑えるようなことなどなかったのですが、笑うという行為によって実際には笑う原因がなくてもお笑い番組を見てゲラゲラ笑っているときのような気持ちになりました。

なぜこのようなことが起きるのかは専門家に聞いてみれば、きっと何らかの科学的な説明をしてもらえると思います。

自分なりに考えたことは、からだや心の条件反射的なものなのではないかと思っています。つまり、普段、可笑しいと思うときには笑うという行動をしているため、それが条件付けされてしまうということです。

そして、その条件付けされたものが、原因と結果という因果関係であるだけでなく片方が起きればもう片方も誘起されるという結果を生むのだと思います。

このことをうまく利用することで様々なことに有効活用できるのではないかと思っています。例えば相手をもっと好きになりたいと思うのであれば、もっと好きになった自分ならきっとこうするだろうという事をすることによって、相手を思う気持ちが強くなるはずです。

求めるよりも与える人生にしていきたいと思うのでしたら、心が伴わずともなるべく与える自分の行動をし続けることで、与える心が誘起されるはずです。

逃げるだけ恐怖は増す

子供の頃に次のようなことを経験したことがありました。暗い夜道を一人で歩いていると、なんだか背後に不穏な違和感を感じ出して、急に怖くなってきたのです。

そのときに、立ち止まって後ろを振り返って確認する勇気がないため、思い切って急に走り出したら、さっきよりもものすごい恐怖を感じてしまって無我夢中で家まで走り続けたのでした。

みなさんはこういった経験をしたことはないでしょうか?この体験には、恐怖というものの特性が現れています。

それは簡単に言うと、恐怖は逃げ出せば減るどころか増すことになるということです。自分が逃げているという事実を体感すると、思い切り逃げていればいるほどそれだけ怖いのだとの認識をより強く持ってしまうことになるのです。

つまり、怖いから逃げるという行為に及ぶと考えるのが通常の原因と結果の関係ですが、逃げるという行為によって、逆に恐怖が誘導されて出てくるということです。

上の例では、元々怖いと感じていたところに、逃げるという行為によって、更に恐怖を上乗せしてしまったということです。

ところが、勇気を持って恐怖と向き合おうとすると、その瞬間は確かに怖いのですが次第に恐怖は少なくなる可能性が高いのです。

なぜなら、恐怖の要素として得体が知れないとか理解できないということが含まれているからなのです。

分からない状態はそれだけで怖いのです。幽霊などが恐怖を感じさせるのもそのためなのです。ですから、向き合ってしまうと対象を理解することになるので恐怖が減ってくれるのです。

この原理は心の中についても同じことが言えます。恐怖から逃げてそれを心の奥に抑圧している間はその恐怖は減ることはありません。

勇気を持って抑圧しているものと向き合ってしまうと、その恐怖の正体がばれてしまうので怖さは半減してしまうということです。

心を癒していくとは恐怖を手放していくということですので、どうしてもどこかでそれと向き合う必要があるということなのです。

気が重くなるかもしれませんが、しかし向き合ってしまえば実は逃げてるときよりも恐怖は減ってくれるというありがたい事実があるということです。

特別な自分

誰にでも自分にとって特別と思える人がいるものですね。それは、両親であったり、兄弟であったり、親友やお世話になった人、恋人などのパートナーや子供など、さまざまです。

しかし、その人が自分にとってどんなに特別な存在であろうとも、特別さにおいては他に絶対にかなわない人が一人います。それが自分なのです。

私達は、日頃自分というものにあまり強い関心を持っていないようにして生活しているかもしれませんが、本当はこれ以上関心を持っている存在は自分をおいて他にはいません。

人は生まれながらにして自分のことを特別扱いしています。幼児のうちは、この世界がすべて自分と区別できない状態で生きています。

そして自分が親とは違う別々の存在だと気付いたあとも、親にとって自分は一番の存在でありたいと願っています。それは特別でありたいと思っているからです。

自分という特別さは他のどんな存在と比較しても格別のものなのです。誰でも自分のことは別格扱いをしています。

例えば、自分を嫌いと思っている人は、その本心は世界中の誰よりも大嫌いと思っているのです。それは勿論他に嫌っている人とは格が違うからです。

また、誰よりも自分のことが好きと思っている人もいます。どんなにあこがれているスーパースターがいたとしても、自分への思いの足元にも及びません。

これがエゴの正体なのです。いいにつけ悪いにつけ、自分は他人とは別格なのです。実は様々な苦悩というのは、この特別でありたいという気持ちがベースにあるのです。

自分が特別だからこそ、他人から傷つけられることに格別に神経質になってしまい、それは過剰とも思える自己防衛をまねくために、やたらと神経をすり減らすことになるのです。

それは様々な神経症を発症することにもつながってしまいます。本当は、自分は大勢の中のただの一人に過ぎないのですが、そうは思いたくないために他人が自分を特別視すると思い込むのです。

自分はいつも緊張していて、人の中にいることが苦痛だと感じることがあるのなら、この特別だと思っている自分の意識を見つめてみることです。

自分と言う存在を人の目から客観的に見ることができると、それほど厳重に自分を守る必要もないのだということに気づいて、とても楽な気持ちになれると思います。

心を丸ごと見る

日頃クライアントさんのお話しをお聞きしていると、いろいろなことに気づかされます。セラピストというのは、できるだけ丸ごとクライアントさんを理解しようとするものです。

そのためには、クライアントさん自身が自覚している事柄だけではなく、無自覚なことまでも含めて分かろうと努めるのです。

無自覚な事というのは勿論ご本人の潜在意識や無意識といった、通常の意識の下に隠された部分のことを指します。

例えば、朝身体が重くて起きられないで困っているとしたら、起きたくないという気持ちがあるのだなと理解します。

最初から単刀直入にそのことをご本人にお伝えすることは少ないとは思いますが、セラピストの心の中ではそのように解釈するのです。

結婚したいのに、なかなか相手が見つからなくて焦ってしまって、ということでしたら、結婚したくないという気持ちがあるのだなと理解します。

可愛い子供に優しく接したいと思っているのに、時々激しく怒りをぶつけてしまって後悔する、と言う場合であれば、怒りたい気持ちを強く持っているというように見るのです。

つまり、できなくて困っているという場合は、したくないという気持ちが隠されているし、どうしてもしてしまうという場合は、そうしたいという気持ちを隠しもっているということになります。

どうしてこんなことが言えるのかと不思議に感じられるかもしれませんが、人の心というのはそういうものなのです。

勿論ご本人がウソをついているということではありません。自覚している表面意識と意識下で思っていることは正反対である場合が多いのです。

一つの心の上と下で違うことを望んでいるために、困った事態となるということです。心のどの部分でも望んでいないようなことは、決して起きません。

こうした見方を使えば、日常的な自分自身の無自覚な心の部分についても知ることができますので、是非試してみて下さい。隠されていた本心に気づくことができるかもしれません。
.

恋愛のパターン

以前、「恋愛は心の窓」というコラムを書いたことがありました。自分が経験してきた恋愛をよく観察すれば、自分の心の奥にしまわれた秘密が分かるというものです。

恋愛がうまく行かないという悩みでセッションに来られる方はとても少ないです。きっとそれは、元々恋愛がすべてうまく行くなどということはないし、そうした悩みは誰もが抱えるごく普通のことだという認識があるからでしょう。

確かに10代の頃の恋愛で悩むことはごくごく当たり前のことですし、そういう経験が人を大人へと成長させるのだというくらいの感覚を誰もが持っているからですね。

しかし、20代、30代と恋愛の経験が増えても、相手がいろいろ変わっているというのにどうも同じような恋愛ばかりを繰り返してしまっているとしたら、心の問題を疑う必要があります。

それこそが恋愛のパターンであるわけです。こうしたパターンには本当に沢山の種類があります。例えば、一番好きな人とはお付き合いができずに、いつも二番手ばかりと恋愛をする。

あるいは、相手からお付き合いを申し込まれての恋愛ばかりで、自分が好きだと思う人とは付き合うことができない。

そのほかにも、女性の場合でしたら年の離れたお父さんのような男性とばかり結果として付き合ってしまっているとか、不倫関係になることが多い。

一人の人と長く付き合うことがなく、半年もしないうちに他の人に気持ちが移ってしまう。一度に多くの人と付き合ってしまう、いわゆる二股三股あるいはそれ以上となってしまう。

相手がストーカーのような人だったり、暴力や依存症などの一般的には相手としては敬遠するような人を自然と選んでしまうということもあります。

こうしたことは、大抵がパターン化されて繰り返す傾向が強いのです。それはすべて、心の奥深くにしまわれた幼い頃からの問題が顕在化していると言って間違いありません。

ただの恋愛の悩みだと思って軽く扱っていると、人生そのものが大打撃を受けることにもなりかねません。是非、心の癒しの必要性に気がついて一日も早くセッションを利用されることをお勧めします。

理性的な自分と情動的な自分

昨日は、ダイエットを目的として食事制限しようとする意識と食べてしまいたいという意識の間の葛藤を例にとって、能動的な選択の重要性についてお話ししました。

このとき、食事制限しようとする理性的な自分と食べてしまいたいと思う情動的な自分では、理性的な自分が正しくて、情動的な自分は幼稚でダメな自分と思ってしまいがちですね。

しかし、実はこのどちらの自分も与える心ではないのです。つまり双方ともに求める心であるということができます。

食べてしまいたいという気持ちは、確かに求める心であるというのは分かりやすいのですが、食べないようにとしている理性的な自分がなぜ求める心なのかは分かりにくいと思います。

それはなぜダイエットをしたいと思っているのかという根本的な理由を探っていく事で理解できるはずです。健康上の問題は例外として、大抵の場合はダイエットによって他人からの評価を上げたいという気持ちがベースにあるはずです。

それはつまり、他人からのいい評価を求める心であるという事がいえますね。決して与える心ではありません。

結局、理性的であろうと情動的あるいは感情的であろうと、その違いにはあまりこだわる必要はないのです。なぜなら、大切なことは与える心か求める心かという一点にあるからです。

そして、与える心になれるのは、昨日も触れた唯一中立な意識だけなのです。昨日は、心の中にいる中立な意識だけが本来の選択をすることができるという説明をしました。

この意識、この中立な心だけが食べるのを控えるか、食べてしまうかという直接的な選択をするだけではなく、もっと大切な求めるのか与えるのかの選択をすることができるのです。

人は与えることによってのみ心の平安を得られ、幸せな状態になることができます。与えることは、必ず与えられるからです。

逆に求める心は一過性の安心を得ることはできますが、その意識の元になっているのは欠乏感や恐怖なのです。

理性的であろうと、情動的であろうとどちらも大して違いはありません。そこに注意を向ける必要もありません。与えるという選択こそが幸せへの鍵なのですから。

能動的な選択

葛藤という言葉があるように、私達の心の中には、互いに真反対とも言える意識が一歩も譲らないようにして、まるで戦闘態勢になっていることがあります。

自分の心がある事柄に関してたった一つの意識だけであれば何の問題もないのですが、なかなかそうは簡単にはいきません。

例えばダイエットをしようと決意して、大好きなケーキを食べないようにしようとする意識があれば、その反対に目の前にあるケーキを食べてしまいたいという意識もありますね。

その二つの意識はそれぞれに、もっともな理由があってその気持ちを主張しているわけですが、全く相容れない主張であるため本人は苦しむことになります。

ケーキを食べずに我慢しようとする意識が理性的であるとするなら、大好きなケーキを我慢せずに食べてしまいたいという意識は情動的なわけです。

こうした葛藤が心の中で互いににらみ合って、相手を打ち負かして自分の主張を通そうと頑張るわけです。

そして、どちらの主張が通るかは、その時のパワーの強さで決まってしまいます。つまり、より強力に訴える方が自分自身を乗っ取ることで、自分がどうするかが決まるわけです。

乗っ取るという表現は少し過激な感じもするかもしれませんが、力づくで自分を奪い取るわけですから、どちらでもない中立な自分の立場からすると紛れもなく乗っ取られたということになってしまいます。

それは能動的に自分の行動を選択するというよりは、受動的にあるいは強引に決められてしまうという表現の方が近いのです。

あたかも能動的に自分が選択したかのように見えて、その実は強引にどちらかに決められてしまったということです。禁を破って食べてしまった時にはよりそうした感覚になるはずです。

どちらを選ぶにしても、能動的にあるいは理性的に選択することができると、自分を責めたりすることがなくなります。

そのためには、中立な心が双方の主張を充分に受け入れることです。特に、情動的になっている意識の主張は時間をかけて受け止めてあげることです。

それに成功すると、その訴えるパワーをある程度平静化することができるのです。そうすることによって、どちらが勝つかということではなく、中立の心が穏やかに選択することができるのです。

自分の心に葛藤が生じているときには、この方法によってその葛藤を鎮めると同時に能動的に選択することができるようになるのです。

機会があれば是非試してみて下さい。上手にそれをするためには何度も練習をして習慣にする必要があります。懲りずに訓練を続けることですね。

内的世界と外的世界

私達は目覚めている時、つまり意識を持って生活している間は自分の外側に何事かが起きているということを把握しながら、自分の心の反応をも感じています。

自分という存在の外側を外的世界と呼び、誰にも分からない自分だけの心の中のことを内的世界と呼ぶことにします。

私はこの仕事をするようになって、外的世界で何が起きているかということよりも、内的世界のことにいつも意識を向けるように自然となってしまいました。

その理由は、外的世界と内的世界の一番大きな違いについて考えてみれば容易に理解していただけるはずです。

それは外的世界というのは、何かが現象として起こり、我々はそこで何か問題となることを認識すると、それを解決しようとするのです。

その解決方法としては、人一倍努力してみたり人のアドバイスに従ってみたりしますね。そうして、最終的に物理的に解決することこそが目的となるのです。

それに比べて、内的世界というのは現象として何かが起こるということはなく、目で見ることも耳で聞くこともできない世界です。

心の世界では、何か問題となることがあったとしても、それを直接自分以外の人が認識することができないわけです。

したがって解決と言っても、それはもっぱら問題を深く認識して、それを受け入れるということになるのです。

そして結局、外的世界の問題を解決したからといって、内的世界の問題がなくなるわけではありません。

しかし逆に内的世界の問題を解決することができたら、外的世界で何が起ころうとも問題とはならくなってしまうのです。

つまり、内的世界をいつも意識に上げて、そこから目を背けずにすべてを受け入れることでしか本当には問題を解決することはできないということです。

外的世界がどうなっていようと、そこに翻弄されている限り、何も根本的な解決にはならないことを忘れずに、常に自分の心と対話することが大切なのです。

シミュレーションの世界

吉祥寺のセッションルームからそれほど遠くない距離に調布飛行場があります。昼間、時々セスナが吉祥寺上空を旋回してたりするのですが、きっとその飛行場から飛び立って練習しているのだと思います。

子供の頃から何かを操縦することに興味を持っていて、勿論クルマの運転が好きで、ヘリコプターや飛行機も運転できたらいいなと思っていました。

そんなおり、その飛行場の中のある場所で、飛行機のフライトシミュレーターを体験できることを知り、先日行って来ました。

ホンモノのセスナの操縦席そっくりに作られたシミュレーターの中に入って、操縦桿を握ると、目の前に並ぶ沢山の計器類にちょっと気後れしてしまいました。

パイロットの人に飛行機の計器類や操縦方法をそこそこ詳しく説明してもらったあと、いざ離陸です。そのシミュレーターでは、その飛行場を飛び立って羽田飛行場の滑走路に着陸するというものでした。

エンジンをかけると、全身にその振動がとてもリアルに伝わってきます。大型の画面が目の前に三つあって、そこに映る景色もホンモノそっくりです。

操縦桿を握る手にやや汗をかきながらも、なんとか離陸に成功しほっとしたのもつかの間、機体を水平に安定させるのにも苦労しました。

離陸して少しすると東京タワーが見えてきます。それを目指して飛行すると、すぐに右前方に羽田飛行場が小さく見えてきます。

それを目標に右に旋回して、そのまま真っ直ぐに羽田の滑走路を目指して少しずつ高度を下げていきます。パイロットの人の指示に従ってなんとか着陸して、機体を停止させて終了しました。

長く生きていると、こんな楽しい経験もできるのですね。今はジャンボジェット機のパイロットの方々も日常的にシミュレーターを利用しているそうです。

バーチャルな世界では、リアルな体験が危険を伴わずにできるので、本当に楽しいものです。奇跡のコースによると、この現実という世界も実は幻想だということなので、それを信じることができたら、何も怖れることなく楽しめることになりますね。

そうできたら恐怖がなくなり、生きることを心から楽しめるようになって争いごとが消えてしまうのでしょうね。