心の中は非常識

世の中には常識的な人、非常識な人、その中間くらいの人などさまざまな人たちがいます。そして一般的には、常識的な人が好まれる傾向にありますね。

また大抵の人が自分のことを健全な心を持った人物でありたいと願っているはずです。健全さとは他の言葉を使って表現すれば、善悪のうちの善であるということです。

その善という中に常識的ということも含まれているのです。しかし、表面的にその人が善人であろうと常識的な人であろうと、心の中全体を見渡してみたらそれはもうそんな分け方はできないということが分かるはずです。

私達の心のほとんどの部分は自分を守りたいという意識の集まりから出来上がっています。そして、その目的のためならなりふり構わないというくらいに必死に自己防衛しようとします。

ある意味それこそ命がけで自分を守ろうとするのです。例えて言えば、戦禍の中で生きるか死ぬかという状態であるようなものなのです。

自分がいつ銃弾に当たって死ぬかもしれないと思うような状態では、自分を守ろうとして常軌を逸した行動をとってしまうことがあるかもしれません。

常識的であろうとか、善人であろうとか、そんな穏やかな気持ちはどこかへ追いやられてしまって、生き延びるための鬼と化すのです。

私達の心の奥底にある意識の多くがそのような環境にいるのと同じような感覚で自己防衛のために日夜活動しようとしています。

つまりその結果、心の中の自覚できない部分は非常識だと言うことになるのです。そういった心の部分をある程度表面化してもいいと思うのか、絶対に見せてはならないとするのか、そうした違いが人から見て善人であったり悪人であったりという違いとなるだけなのです。

私達はそういう意味では、どんな人物であろうとも心の中を一皮剥けば防衛のために戦闘態勢であったりして、とても穏やかな常識人ではないということです。

大切なことはそういう自分をできるだけ受け入れて認めていくことです。そうすることによって、罪悪感や抑圧が少なくなってより力を抜いて楽に生きていくことができるようになるのです。