本物がいい

動物には本能としての様々な感情が備わっています。それが人間ともなると、喜怒哀楽のようにかなり複雑に進化していますね。

喜びや感動、楽しいなどのポジティブなものから、不安、恐怖、悲しみ、孤独、怒りなどのネガティブと言われるものまであります。

一般的には、ネガティブな感情というのは人迷惑だし、できれば表現しないでいる方がいいということになっています。

けれども、だからと言ってポジティブな嬉しいとか楽しいの表現としての笑顔が本物でないとしたら、きっと気持ちの良いものではなくなってしまいます。

偽物の笑顔、作った笑いに比べたら、本気の、本物の怒りの方が余程いいのです。腹の底から湧き出るものは純粋だからです。

防衛の手段として、自分の自然な感情を抑圧して、代わりに作り込んだ偽物の感情表現をし続けていると、必ずそのツケがいずれやってきます。

作り物は自己犠牲を伴うからです。無理をして自分も相手も騙すので、相当なエネルギーを浪費してしまうのです。

ポジティブであろうとネガティブであろうと、より自然にあるがままの感情を感じてあげれるようになれば、人生は自動的に変化し出すはずですね。

傍観者でいる

順を追って見てみると、まず初めに自我が発生し、それとともに分離という不可能な概念を作り出すのです。個という概念が分離を作るのですね。

その分離感が、不安や孤独感といった原理的にどうしようもない感情を作り出すことに繋がります。

それは、自分は惨めだという思いと重なるのですが、そこから脱出しようとすることで欲望が生まれるのです。

そしてその欲望がある限り、自我は安泰となるのです。欲望はそれを使えば使うほど、私たちをその本質から離れさせようとするのです。

そんなこんなで、自分が本当は何者なのかということなどすっかり忘れてしまい、目の前にやってくる出来事と戦い続けることになるのです。

欲望は起きてくることを、それ自身にとって都合の良いことと、都合の悪いことに仕分けします。

その結果、都合の悪いことが起きたと判断した時には、冷静さを欠いてより一層戦いの中へと入っていくことになります。

そんなことを繰り返しているうちに、人生は終焉を迎えることになるのです。少しオーバーに聞こえたかもしれませんが、これが現実です。

さてどうしたらいいのか?できることは特にありません。ただ傍観者でいることを練習するしかないですね。

焦りと心配

購入したばかりのスマホがフィッシング詐欺に遭い、完全に使えなくなってしまったトラブルを経験して、気づいたことがあります。

それは焦りと心配が人の波動をものすごく下げることになるということ。ここのところ、自分で対処しようとすればするほど、ドツボにハマるという体験をしました。

そうなると、早く何とか手を打たねばという焦りと、この先どのようになってしまうのかという心配が、怒涛のようにやってきました。

その焦りと心配のせいで、普段の何倍もの思考が押し寄せてきて、多少なりとも正気を失わせるのです。

普段なら間違わないような判断も狂わされてしまいます。夜寝る前に思考から離れようとして、静かな空間の中にいるようにしても、15分もすると思考が忍び込むのです。

そしていつもだったら遭遇しないような、全く別のトラブルも同時にやってきた時に、ああこれ自分のまとってる波動がかなり低下してるなと気づくのです。

自分が頑張れば何とかなることは楽ですが、自分ではどうすることもできない事態になると、焦りと不安がやってきて思考に巻き込まれるのです。

今は新しいスマホを購入して一段落していますが、また事態が進むごとに何かしらの問題がやってくるように思います。

その度に、自我は自分を思考で絡め取りたくてウズウズしているんだなと思って、できるだけ静かな見物人でいられるようにしようと思います。

起きることが起きる

人間というのは欲深いものなので、自分の人生にどんなことが起こって欲しいか、どんなことが起こって欲しくないのかをいつも気にしています。

本当は何が起きたとしても、それも自分の生の一部だと理解することができれば、何の問題もないのでしょうけれど。

とはいうものの、今実はトホホ…の状態になっておりまして。3週間近く前にアップルIDをフィッシングされたことから端を発して、中々とんでもない状態になっていまして。

そのせいで、これを書いているちょっと前からケータイの電話が使えなくなってしまいました。結構辛い。

それとこれは直接クライアントさんにも影響が出てしまうかもしれませんが、メールの送受信ができるのが、自宅のみとなってしまっています。

家を出てから帰宅するまで、オフィスにいる間も含めてメールが使えません。ケータイとしての機能が全滅です。

ご迷惑をおかけしてしまうかもしれませんが、本当にごめんなさい!と、このブログを書いていて、少し気持ちが穏やかになってきました。

それにしても、買って1ヶ月も経ってないのに、新しいのを買うしかないなんて…。ここはじっくりと、マインドを見つめる作業を続けたいと思います。

その瞬間にとどまる

よほど具合の悪い人でない限り、私たちは毎日どこかに出かけます。家の中にいるにしても、あっちに行ったりそっちに行ったりするのです。

そうやって身体は、止めどなく動き続けるのですが、私たちの心、内面はと言えば、もっともっと常にどこかをほっつき歩いているのです。

昨日に戻ってみたり、今日これからのことに向かってみたり、果ては何十年も昔に戻ったり、明日やはるか未来へも行くのです。

ちょっと立ち止まって見てみればすぐに分かるのですが、それはもう強迫的な感じさえしてしまいます。

なぜ私たちはじっとしていることができないのでしょうか?少なくとも、もう少しゆったりとペースを緩めることくらいはできるはず。

osho がよく言うのですが、その瞬間にとどまるようにしてごらん、と。そうすると、ほっつき歩く理由が分かって来ます。

それは私たちの心が乞食のように飢えているからです。欠乏感の塊のようなものなので、ここにこうしていては満たされないと思うのでしょう。

だからあっちへ行ったりこっちへ来たりしながら、なんとかしてその足りないという感覚を払拭しようとするのです。

かつてサラリーマンだった頃、海外に出張しているときに「パンハンドラー」という言葉を教えてもらったことがあります。

要するに物乞いのことです。あっちへふらふら、そっちへふらふらしながら、食べ物や何かを求めるのです。

時にはじっとしてその瞬間にとどまり、自分自身の内側が本当に欠乏しているのかどうかを、見てみるのも良いかも知れませんね。

「慣れる」ことの罠

自我の能力の一つとして、「慣れる」というのがあります。同じことを繰り返しているうちに、次第にそのことに慣れてくるのです。

慣れてしまうと、私たちはそれについて非常に安易にやり遂げることができるようになる、いわゆる朝飯前状態になるのです。

そのおかげで、さらに難易度の高いものへと挑戦をしていくことができるのです。それが自我の大好きな成長することなのです。

ところが慣れることで、自動的に無意識的になっていくという面があるのです。なぜなら、しっかりと注意していなくてもできてしまうからです。

意識的であり続けることが私たちにとってこれほど難しいのは、この「慣れ」という現象があるのも事実なのです。

また、ひとたび慣れてしまうと感動が薄くなっていくということもあるのです。それが当たり前になってしまうので、喜びや驚きが消えていくのです。

当然感謝の気持ちも薄らいでいくでしょうね。当たり前というのは有難いというのと正反対だからです。

何を手に入れたとしても、すぐに満足が消えていってしまうのもこの「慣れる」というのが原因なのです。

慣れることがやって来なければ、最初の喜びや感動や感謝がずっと続くし、いつまでも新鮮でいられるはずなのです。

逆に言えば、慣れることの罠から抜け出すためにも、できる限り注意深く意識的であるように練習することが必要なのだろうなと思うのです。

信念体系をぶっ壊す

「私」という自我は、非常に立派な信念をたくさん持っています。元々自我というのは思考の塊だからですね。

間違ったことを固く信じてしまったことが、そもそもの発端なのですが、その間違った信念をぶっ壊すと言うことを言いたいのではありません。

もちろん間違った信念は全くいらないばかりか、人を不幸へと導く問題児には違いないのですが…。

本当に必要なことは、間違っていようと正しいことであろうと、信念である以上はそれがいらないということです。

信念と化した頑なな思考、つまりは誰が何と言おうと信じて疑うことができなくなってしまった思考は、百害あって一利なしです。

信念はそれを作った主人である自我を強化し、強靭な防壁を作ってしまうので、聞く耳を持つことができなくなるのです。

こうなると思考からも抜け出すことができなくなってしまうのです。一つの信念がそれを補強するために別の信念を作り出すのです。

そうやって信念の連鎖が起きるので、本人は鋼鉄の壁の中で守られているような生き方をする羽目になってしまいます。

信念の壁をぶち壊して、清々しい外の世界の空気を吸いに出てこれると良いですね。そこには、決めつけていたのとは違う気持ちの良い外の世界が待っています。

存在は改善とは無関係

心の癒しというのは、自分の内面を改善することだと思っている人がいるかも知れませんが、それは全くの誤解です。

どちらかと言えば、その真逆と考えてもらった方がいいのです。つまりは、自分は改善が必要な存在だという間違った思いを捨てる作業なのです。

この社会では、より良い自分になろうと努力することは素晴らしいこと、歓迎すべきことだと認識されています。

けれども、社会にとって都合の良い人間になることと、満たされた人生を生きることでは根本的に異なるのです。

自分の何をどう改善したところで、それには果てがなく、次から次へと改善箇所が見つかる無限地獄になるのです。

しかもそこには常に不安が重くのしかかってくるのです。自己改善から離れることです。元々、「存在」を改善することはできません。

自分の存在を深く理解し、それを丸ごと認めることができるようになったら、改善したいという「改善病」が薄れてくるはずです。

たとえば、自己否定を持っているなら、それをなくそうと努力しないで良いのです。まずは、その自己否定をするようになった原因を見つけてあげること。

自己否定は単なる結果なので、その原因がわかれば自然と小さくなっていくものです。これは体験すればわかることです。

あなたがゆったりと自然でいられるようになったら、改善欲求も自然と小さくなっていくものなのですね。

不思議な感覚

最近ふと感じることがあるのですが、すごく身近なところにこの肉体があるなあという感覚です。

邪魔というほどではないにせよ、何だかいつもこの肉体がそばにあることに違和感というか、そういったものを感じるのです。

この肉体に縛られているという言い方でもいいかも知れません。そのくせ、一方では完全に透明でクリアな存在としての自分もいます。

その透明性は全体性のものなのですが、個人(個別性)として肉体を持った自分の感覚とごっちゃになってしまっているのでしょうね。

こうしてブログを書いている間も、その二つの感覚が同時にあるのが分かるのですが、もしかすると少しずつ全体性の感覚の方が大きくなってきたのかも。

私の自我は、自分は肉体ではない、自分は存在しないのだということを悟りたくて、この二つの感覚の間を行ったり来たりしているようです。

そして、ああでもないこうでもないと考えた末に、所詮は起きることが起きるだけだからに落ち着くのです。

まだまだ自我の力が強いことも分かっていて、この人生の主役から降りたくないと言っているようです。

それでも実の所、自分には何の力もないということも分かっていて、深く静かなところに落ち着いてくれるのです。

反動形成の副作用

皆さんは「反動形成」って知っていますか?もしかすると聞いたことはあっても、意味は曖昧かも知れないですね。

身近なところで言うと、男の子が好きな女の子に対して優しくする代わりにイジワルをしてしまうようなものです。

好きと言う気持ちのやり場がなくて、あるいはその気持ちを隠そうとして、嫌いな女の子にするような行動をするのです。

この程度であれば可愛らしいで済むのですが、それが本格的なレベルになると人生を悪化させてしまう要因にもなるのです。

例えば、幼い頃に母親に抱きしめて欲しいのに、それをいくら願ったところでしてはもらえないとなったときに、「抱きしめて欲しくない」という反対の気持ちを作るのです。

そうすれば欲しくてももらえないという地獄から解放されるからです。本音をしまい込んで、嘘で蓋をして凌ぐわけです。

ところが大人になって、友人などからごく普通にハグされそうになると、居心地の悪さを感じて拒絶するようになったりするのです。

本人はなぜ他愛のないハグが苦手なのか、理解に苦しむわけですね。こうした反動形成の副作用が起きる可能性があるのです。

もしも何か理由なく拒絶してしまうと言った経験があるなら、この反動形成の副作用を疑ってみるのも一つの方法かも知れませんね。