体験せずとも理解できる

社会の中で生きていくためには、知識を蓄えることはとても必要なことですが、ただ知識というのは誰か他の人から聞いた情報でしかありません。

地球は丸いという情報は知っていても、普段は地面は平らだと感じているので、それを身を持って知ることはできません。

飛行機に乗って高度1万メートルくらいから地球を見れば、ある程度は確かに丸いかもと分かるのです。

一番いいのは宇宙旅行に出かけて、大気圏外から地球を見ることができれば、知識ではなく実体験として「丸い」が分かるのです。

体験することこそが、知識を超える唯一の方法だと思っても不思議ではありません。だとすると、生きている間にどれだけの体験を積めるかが重要になってきます。

けれども一生のうちに体験できることなど、たかが知れています。人類全体の体験が丸ごと自分の中に入ってきてくれるならいいのですが、そうはいきません。

となると、体験していなくとも自分のこれまでの体験などを使って、類推することができたらいいわけです。

たとえば、このブログで何度もお伝えしている、「自我は何を手に入れても満たされない」ということを知識としては知っていたとします。

でも本当の理解に至るには、自分で実体験するしかないのだとしたら、あらゆることを手に入れることは不可能なので、結局限られた人生という時間の中での理解も不可能ということになります。

でも賢い人であれば、何度かそれを体験することで推論することはできるのです。これまで繰り返し欲しいものを手にしてきたのに、思っていたような満足は得られなかった。

であれば、この先何を手に入れたとしても結局同じなのではないか、このような推論ができれば体験せずとも理解に至ることができるのです。

そしてさらに言うと、この推論を後押ししてくれるのがマインドについての理解です。マインドの仕組みを深く理解すれば、推論がより容易になるのです。

マインドの仕組みとして、真に満たされたならマインドはもたないということを深く理解することで、違った角度から体験なしの理解を得ることが可能なのですね。