思考に騙されるな

最近つくづく感じるようになってきたのですが、普段何気なく生活しているときのこの世界、つまり二元の世界というのはほとんどがイメージの世界なんですね。

非二元的な話を聞くと、そんな世界が本当にあるの?と思うかもしれませんが、二元の世界と非二元の世界の二つがあるわけではないのです。

リアルな世界というのはいつだって非二元だけであり、二元の世界はただ思考がこしらえたイマジネーションに過ぎないのです。

イメージが作り上げた世界であろうとなんであろうと、この世界で思い切り楽しめばそれでいいじゃないか、という意見があるかもしれません。

ところが、この二元の世界で生きるということは、ブッダが言ったようにそのほとんどが苦しみなのです。

生老病死、つまり生まれることも老いることも、病になることも、死ぬことも全てが苦しみになるのだと。

ただ、それら全てが苦しみになる理由は、この有りもしない物質と空間でできている二元という発想が原因なのです。

思考に付き合って幸せになるならいいのですが、ほとんどが苦しみに化けてしまうと気づいたらどうでしょう?

それがきっかけとなって初めて非二元への道が開けてくるのです。本当は道なんてないのですが、見かけ上は二元から非二元へは時間がかかるのです。

たとえば、自分の人生は自分がコントロールできるとか、得たものは自分の所有物だと言った思い込みが一瞬では取れないのを思えば、なるほどなと分かるはず。

こうした思い込みが外れてくればそれだけ、非二元に近づくことができるのです。そしてそれは同時に忘れていた本来の自由のフレーバーも連れてきてくれるのですね。

真理は知覚できない

何かを知覚することと認識することは全く異なることだということをまずは理解しておく必要があります。

知覚というのは、主に五感によるものであって、認識は思考を介在するのです。場合によっては、思考だけでも成立するのです。

「これはリンゴだ」という時には、認識していることになり、ただその色や形が見えているのならそれは視覚なのです。

ところがこうした視覚などによる知覚は、定義上はあくまでも我々の五感に基づくものであるということです。

これに対して、非二元的に表現するところの現れとは、知覚でもありません。そもそも、目も耳も皮膚も鼻も舌もありません。

知覚は、対象物からやってくる情報を感覚器官を通して脳で感じるものです。非二元では脳がないだけでなく対象もないのです。

現れとは気づきの別名であって、その時に初めてこの世界の真理があるということです。真理は気づきそのものでもありますね。

ホログラフィ原理

最先端の宇宙物理学で、ホログラフィ原理というのがあるのですが、その中で「この世界は幻である」ということを言ってるのですね。

また別の表現をすると、この世界は3次元のように見えて実は2次元なんだということです。あれ、これ非二元そのものじゃないの?と。

詳細は分かりませんが、重力を計算するときに空間が3次元であるとするよりも2次元とすることで、うまくできるのだと。

それが、ホログラフィのようにつまり、「見た目」では3次元の空間があるように見えるだけなのだという理論ですね。

よく聞く話ではあるのですが、最先端の物理学が2600年前にブッダが示したことにやっと追い付いて来た?というもの。

少し前まで、こうした情報を知るたびにやっぱりね、みたいな感覚があったのですが、実は今はもうそれはないのです。

というのも、物理学の話というのが私の中ではただの現れに過ぎないことになってしまったからなのですね。

だから、特別に食いつくようなこともなく、淡々とああそうなんだと思うだけになったのですが、今後もこうした情報はきっとやってくるのでしょう。

時間はないとか、モノはないといった物理学での話も、いずれは証明されるのかもしれませんが、気にならなくなってしまいましたね。

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得るものは何もない

私たちは誰もが丸裸で生まれて、そこから死に至るまでに様々なものを得ることになるのですが、得たものが多ければそれだけ価値のある意味深い人生になると思うわけです。

たとえば、知識、体験、お金、人間関係、その他諸々。とにかく、持っていなかったものを得ることが人生なんだと。

それでは沢山得た人はそれだけ本当に満足のいく幸福な人生になったのかというと、どうやらそうではないのです。

どこまで行っても、何を得たとしても、それを握りしめたまま死にゆくことはできません。また、生きている間も本当に満たされるということはないのです。

気付かなければならないのは、実は本当に得るものなど一つもないということ。なぜなら、リアルなのは今この瞬間だけだからです。

得たと思っているのは思考であり、時間という妄想の中でのこと。そのどれもがリアルではなかったのです。

真の安らぎ、本当の自由は、妄想の中で得たと思っている全てを潔く手放すことでしかやってこないのです。

その全てを流すことができた時に、初めて目指していたものと出会うことができるのですね。それは元々ここにあったものなのです。

頭の中の声は自分の声ではない

誰かと共に過ごしている時であれ、一人きりで過ごしている時であれ、いつでもどこにいても頭の中でなんらかの声が響いているはずです。

例えば、どこかへ向かっているときに、「このままだと遅刻しそうだな」とか、「また嫌な人に会っちゃったな」とか、「今日はいい天気だな」等々。

直接言葉に出して表現する独り言であれ、心の中、頭の中で聞こえる声であれ、どちらにしても自分の声だと信じているのです。

けれども、頭の中の声というのは思考の声なのです。そしてその思考は自分の思考ではないと分かれば、その声は自分の声ではないと気づくことができるのです。

非二元の立場に立った時には、このことは明確になるのですが、日頃はどうしても忘れてしまうのです。

ここで実践することが必要となるのです。なるべく静かにして、頭の中の声に気づいているようにするだけ。

その内容に入っていくのではなく、ただそれを聴いているようにすることで、自我から離れた気づきの立場でいられるようになっていくのです。

その先には、これまで何かを得ようとしてきた探究者は、その居場所が無くなっていくということが起きるのです。

そして残るのは、それこそが探究者が求めてやまなかった静寂なのかもしれません。この実践は続けていく必要がありそうですね。

苦しみの原因は外側にはない

ほとんどの人は、嫌な出来事があったから辛く苦しい思いをしたのだと。その逆に嬉しい出来事があったから気持ちが明るくなったのだと。

そのように、自分の内側の幸不幸は外側で起きることに原因があるのだと思い込んでいるのですが、そうとばかりは言えないという話です。

外側の出来事がきっかけになることは十分に考えられることですが、それは単なるきっかけに過ぎないのです。

それに対して、どのように反応するのかはその人の内側の状態によるということです。内側の状態とはなんでしょう?

それは、何に執着しているかということです。何を握りしめているかによって、それに応じた反応をしてしまうわけです。

もしも、自分は正しくあらねばならないというのを握りしめていたなら、正しくないことをした、あるいはされたということに対して、激しい反応をすることになります。

外側の出来事にばかり気を取られていたら、その反応(苦しみ)は実のところ、自分が握っていることからやってきたということに気付けないのです。

だから、その苦痛はいつまでも続くことになるでしょうね。何も握ることがなくなれば、物事はやって来てもすぐに過ぎ去っていくのみです。

だから自分の中には何も残らないのです。それが本当の平安だし、自由でいられるということなんですね。

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当事者意識が薄れてくると…

数日はバタバタしていて、書きたいことを書けずにいたのですが、ようやく落ち着いてきたので、本来のブログに戻してみたいと思います。

私たちが日頃、辛いとか苦しいというとき、それは当事者意識が優勢になっているときなのですね。当たり前かもしれませんが。

その一方で、これは物語なんだということを観ていることができれば、どんな物語の内容であれそれを楽しむことができるのです。

ただ残念なことに、私たちは自分の人生を単なる人生物語だとは思えないのです。そこに深刻さがあるのです。

物語というのは、兎にも角にも楽しむためにあるのです。他人のことであれば、そのことを忘れずにいられるかもしれません。

けれども、いざ自分のこととなると、これはただの物語だとは思えなくなってしまうのです。そうなると、楽しめるはずの物語もただ苦しいだけのものへと成り下がってしまうのです。

非二元の探求をしていると、自分を個人だと思う気持ちが薄れてくるのです。そうすると、当事者意識は揺らいできます。

だから、ただ物語が起きつつあるという感覚になれるのですね。物語から距離をとって、見守ることができるようになるのです。

何が起きても、それは生身の自分に起きているのではなく、ただ現象として現れているに過ぎないという感覚。難しいですけどね。

ホームページが取り敢えず復帰しました

ご不便をおかけしてしまい、申し訳ありませんでしたが、取り敢えず復帰することができましたので、そのご報告です。

ホームページにアクセスできなくなってしまった時には、どうしたらいいのか皆目分からなかったのですが、WordPress で使っているプラグインを全て削除しました。

その結果、今のところですが、通常通りのアクセスができるように制限を解除してもらうことができました。

今後は、サーバーの管理会社からの情報を気にしつつ、問題があれば対応していきたいと思っています。

私のような素人で対応ができなければ、専門業者に依頼して調査&改修作業を進めて行ってもらう可能性もあります。

今回突然のようにアクセスできなくなって、17年続けてきたブログも投稿できないとなった時には、まるで自分の一部を奪われたような感じがしましたね。

つまり、自分の中では知らない間に単なるホームページ、単なるブログではなくなっていたということです。

これは完全に執着の一種になっていたと言ってもいいと思います。それが経験できただけでも良かったと思います。

ホームページがアクセスできなくなった

このブログの内容は、Facebookに投稿したものをこちらに再度、投稿し直したものですので、ご了承ください。

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昨日のお昼頃より、私のホームページはアクセスできなくなってしまいました。数日前からお借りしているサーバー会社より警告のメールが届いていたのです。

なんでも、対象データベースへ多数の同時接続があり、サーバーの高負荷が発生している状況であると。

何がどうなっているのか、皆目分からない状態だったのでしばし静観していようと思っていた矢先に、解決しないようなので、サーバーの利用を制限すると。

いやあ、いきなりだなあと。管理者の私自身も全くアクセスできなくなってしまったので、もう素人の私では対応ができないなと。

17年間1日も欠かさずに続けてきたブログも、書けなくなってしまったので、取り敢えずここに書くことにしました。

この事態がたとえば10年くらい前だったら、ちょっとパニックになっていたに違いないと思うのです。

この先どのようになっていくのか、今の時点では分からないのですが、いくつかの選択肢があるのかなと。

ホームページがなければ、クライアントさんとのセッションはできなくなってしまうので、それをどうするのか。

なんとかして、現状を回復する方向でやっていくのか、それとも別のサーバーに全く新たなホームページを作り直すのか。

あるいは、潮時として仕事を打ち切るのか。明日以降の方向は神のみぞ知るといった感じですね。

もしかすると、一部の方々にはいろいろご迷惑やご不便をおかけしてしまうかもしれませんが、しばらくの間ご勘弁のほど、よろしくお願いいたします。

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無為自然とは?

中国の思想家である老子の思想を表す重要な言葉に、「無為自然(むいしぜん)」というのがあります。

ちょっと聞くだけでは、「何もしないでダラダラ暮らす」という意味なの?とも思いますが、実際には全く違う意味があります。

まず、無為というのは、文字通りには「為さないこと」ですが、自我の思惑で無理に操作しない、物事を自分の都合でねじ曲げない、あるいは流れに逆らって力まない、という意味です。

例えば川の流れに逆らって泳ぎ続けるのではなく、流れそのものを理解して自然に身を任せるようなあり方です。

もう一方の自然とは、現代日本語の「自然(nature)」とは少し違って、「おのずから然る(しかる)」という意味。

つまり、あるがままであり、ひとりでにそうなっている、本来の姿と言うくらいの意味なのです。

無為自然を一言でいうと、自我による作為を手放し、物事がおのずからそうであるあり方に任せること、となります。

老子は、人間が余計な知恵や欲望で世界を操作しようとするほど混乱が増えると考えました。

だから、支配しようとしない、競争しようとしない、無理に変えようとしない。そうすると、かえって物事は調和すると説きました。

非二元の立ち位置から見れば、無為自然は「私が人生を動かしている」という感覚が薄れ、「すべては自然に起こっている」ということを体感することですね。