疑問がなくなる時、平安がやってくる


誰でも気づいていることだと思いますが、私たちは何かを知らない状態でいるよりも知っている状態の方が安心できるのです。

初めての場所に行く時には、地図などで下調べをしてから行った方が安心できますが、これは何にでも言えることですね。

つまり、知りたいという気持ち、知っておきたいという願望は、単なる知識欲というよりは根っこに安心したいという気持ちがあるということです。

何か分からないことを一生懸命勉強して、それを理解することができた時には喜びさえ感じるものです。

その一方で、分からないままでいることは、とても不安だし落ち着かない心持ちに置かれてしまうのです。

分かった時、理解できた時にはそれを征服できたような気持ちにもなれるかもしれません。

だから、どうしても知りたい、分かりたい、ということを切望してしまうのも理解はできるのです。

そのために、人によっては質問魔になってしまったり、常に疑問を抱え込んでいる状態になるわけです。

そしてその疑問が解決した時には、とても爽快な気分にもなれるのですが、ここに大きな落とし穴があるのです。

なぜなら、疑問が解決したとしてもその気分の良さはほんの一瞬のことであり、またすぐに次の疑問が頭をもたげてくるからです。

こうした疑問は、知りたい、分かりたい、がなくならない限り永遠に続くことになるのです。

そしてより本質的な疑問には、答えというものがありません。なぜなら、疑問は思考の範疇であり、答えはその思考の中にはないからです。

これに気づいた時、人はふと疑問を解決しようとすることをやめることになるのです。

もっと正確に表現するなら、疑問を持った自分というものが薄くなっていくのです。そして疑問は消えていくことになるのですね。

その時にようやく、真の平安、自由の中へ入っていくことができるのです。

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逆さまつ毛に悩まされる

小学生の頃、朝学校へ行く前に左目がどうにも痛くて、母親に目医者さんに連れて行ってもらったことがあったのです。

その時に初めて、「逆さまつ毛」という言葉を知ったのです。左の目尻のまつ毛が折れ曲がって目の中に入り込んでいたのです。

その時にそのお医者さんに言われた言葉が今でも印象に残っています。まつ毛の毛根が普通の場所にないのだと。

要するに、まつ毛の奇形のようなものですね。手術して毛根を切除してしまうこともできますが、どうしますか?と。

子供の自分も母親もちょっとびっくりして、そんな提案はなかったかのようにして足早に戻ってきたのを覚えています。

その性悪まつ毛が、生えては抜き生えては抜きを繰り返しているために、産毛のように細くなっていったのですね。

その細くなってしまったまつ毛が、いまだに目の中に入ってしまうために、それを忘れて生活していると、時としてやはり目にダメージがくるのです。

先日もそれで目医者さんに言って、2本ほどそのまつ毛を抜いてもらったのです。毛根の位置の異常なんて、聞いたことないですよね?

探求によって、この肉眼でものを見ていないということが分かっても、何か異常があればやはり目医者さんのお世話になることは変わりないのですね。

本当は何も知らない

私たちは、成長するとともに知らないことを知るようになり、分からないことを理解できるようになっていくのです。

そこに価値があると誰もが思っているわけです。自我というのは、知らないことを悪だと思っている節があるくらいです。

分からないということは能力不足だとして、何とかして分かるようになる必要があると信じてしまっています。

この俗世の中では、知識もそれなりには活躍する道具になり得るかもしれませんが、例えば自分の本質を知りたいと思って知識を使うことはできないのです。

そこはどんな知識も邪魔になるし、思考によって理解できるようなものでもないのです。だから、どれほど勉強したところでかえって遠ざかるのです。

本当は何も知らない、ということをある程度は感じていたのですが、非二元の探究を通してそのことがより明確になったのです。

何かを知ろうとしたり、分かろうとすることを完全に諦めて、それは不可能なことだと知ることこそが唯一の理解なのかもしれないですね。

非二元を想像することはできない

「赤という色」があります。この赤という色というのは、概念です。実際にあるのは、「赤」という色です。

でもアカという呼び名は概念です。だから、実際にあるのはあのアカという感覚ですね。皆さんも知っているアレです。

アレだけがリアルに現れているのですが、それだけではどんな物語も生まれることができません。

そこで、その色をまとったモノの存在と、そのモノを見ている何かの存在の二つを想像するのです。

そうすると、そこにあっという間に物語が生まれ出てくるわけです。これが私たちが知っている二元の世界なのです。

二元の世界はとても上手に言葉によって表すことができるのですが、想像した二つをなかったものとして見ると、それは言葉では説明することができないのです。

それを無理やり説明しようとすると、非二元という呼び名がついて、ただ現れだけがあるという言い方になるのです。

それを言葉で説明できないということは、想像することもできないということは覚えておいた方がいいかもしれないですね。 

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信頼があれば痛みも小さくなる

ずっと以前に治療した奥歯の被せ物と補強の残骸が、レーズンチョコを食べている間にポロッと取れてしまったのです。

あれって嫌なものですね。突然口の中に異物がやってきて、何が起きたんだ?と思っているうちに一瞬にして気づくのです。

あ〜あ、やっちゃったなと。急いで歯科に電話しようとしたのですが、たまたまその日は休日だったので断念。

一日待って、朝イチで連絡して翌日に予約が取れました。きっと、新たに型を取ったりして治るのに時間かかるのだろうなと。

治療してもらうまでの間というのは、急に自分が不完全な身体にでもなってしまったような心許ない気持ちになるものです。

ところが、いざ歯医者さんに行って見たら、取れた被せ物をそのまま使って、それ以外の部分は新たに補強をして完結したのです。

予想とは違って、あっという間に治療が終わってしまいました。何かあるとお世話になっている歯医者さん、きっと腕がいいのでしょうね。

ただ痛くても麻酔をしないのがたまに傷。怖がりの人は行かないほうが無難です。でも、時間を優先する人には最高の歯医者さんかもしれません。

私たちが通常嫌がっているのは、実際の痛みそのものよりも実はどうされてしまうのかという不安感なのです。

私はその歯医者さんへの信頼があるので、不安を感じないだけ楽なのです。ただの痛みだけになるからです。これは強いですね。

幸せは手に入れるものではない

若い頃に物事が上手くいかなくなって、落ち込んでみたり後悔してみたりして、しばらくどうしようもなくなってしまった経験があるかもしれません。

もう自分はダメだとか、お先真っ暗に思えてしまってやりようがなくなって、オーバーに言えば万策尽き果てたみたいな。

でもそんな時に、長老のような仙人のような人がやってきて、「君はまだ若い、可能性は無限大だ、何にでもなれる!」と言ってくれるかもしれません。

その有難い言葉に救われて、また明るい未来に向かって突き進んでいくことができるようになるというわけです。

こうした物語が素晴らしいもののように感じたとしても、実はとても大きな罠にハマっていることには気づかないのです。

自分には何かが足りない、こんな自分ではまだダメだ。もっと上を目指さなければ。そうやって目標に向かうことで自分の欠乏感を誤魔化すのです。

何かしていなければならないような気持ちが強い人は、こうした欠乏感から逃れようと必死になっているのです。

探究がやめられないのも似たようなものかもしれません。私たちが過去にも未来にも行かなくなった時、今の中に戻って来れた時、足りないという不満足感は幻想だったと気づくのです。

その時に初めて、最初の最初から満たされていたことに気づくのかもしれないですね。それこそが月並みな表現をすれば、幸せということです。

幸せは頑張って努力して手に入れるものではなくて、自分自身が幸せそのものだったと気づけばいいのですね。

これ以上ない非二元のシンプルな解説

何かが見えているという現象が起きているとき、そのことに対して次の二つのことを思考が勝手に付け加えるのです。

一つは、見ている誰かがいるから、見えているのだと。もう一つは、見えている対象物が実際に存在するのだと。

思考によって追加されたこの二つのことで、この世界は成り立っているのです。これを二元の世界というのです。

けれども、もしもこの思考の答えを脇に置いてそれを使わずにいられるなら、この世界は非二元になるのです。

ただただ見えているということのみが起きているということ。これが思考を挟まずにこの世界を捉えた瞬間なのです。

見えているということをもっと中立な表現で言えば、赤という色が起きているとか、丸という形が起きているとなるわけです。

赤や丸が起きているだけなのに、それを見ている私がいるとか、赤い色をした丸い玉がそこに存在する、と思考が叫んでいるだけなのです。

この違いを見抜くことができれば、もう非二元を理解したことになるはずですね。

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