信じる能力

私たちは誰しも何かを信じる能力を持っています。その能力を使わないで生きることはできません。言い換えると、まとまりのある一人の人間として生きている限り、何かを信じているということです。

たとえ何事も、誰の事も信じられない状態であるとしても、それは何かを信じ続けた結果なのです。この信じる能力というのは、言ってみれば幸せになるための頼みの綱です。

もし今自分の人生がうまく行ってないと思うのでしたら、その原因となる何らかの事柄を信じているからに違いありません。間違ったものを信じることで間違った結果が起こるのです。

ですが、今がうまく行ってないからと言って悲嘆する必要もありません。なぜなら、その信じる能力を使って、別の事柄を信じなおせばいいだけだからです。

信じる能力は決してなくなりはしません。そして、人によってその能力に高低差があるとも思えません。誰にも平等にその能力は備わっています。

人によって違いがあるとすれば、恐怖の大きさかもしれません。その恐怖が大きければ大きいほど、今信じていることから別のことを信じなおす勇気が必要になるのです。

信じなおすことが難しいかどうかは、一重にその恐怖の大きさにかかっているといっても言いと思います。そういったストッパーがなければ、誰でも同じ信じる能力で信じなおすことができるのです。

私たちは誰もがみな自分が作ったエゴを信じているのです。エゴを頼りにして、すがりついて生きています。それが原因となって、今の自分の人生である結果が起きています。

自分が作ったエゴが自分自身に信じ込ませていることを、そのまま信じる能力をフル回転させて信じ続けてきただけなのです。

つづく

セッションについて

クライアントさんとのセッションでは、その時によってカウンセリングだけだったり、ヒーリングをしたり、あるいはヒプノセラピーをしたりと様々です。

そして、それぞれの主な目的というものがあります。カウンセリングでは、クライアントさんの話しをできるだけ解釈せずに聞いて、なるべく深い理解を得ると共に気持ちを共感するという目的があります。

そして更に、幸せになるために是非分かっておいて欲しいいくつかの基本的なお話しをします。その時には、もしかするとクライアントさんにとっては心に痛い内容だったり、都合の悪い事柄に聞こえるかもしれません。

しかし、そういったことこそが一人で悩んでいるだけでは難しい新しい発見や、とても大切な気付きを得ることに繋がるのです。

耳障りのいいことばかりをお話しして、いい気持ちになって帰っていただくだけでは、その状態は長続きしなしと分かっています。

その飴と鞭的なバランスが必要かもしれませんね。そういったカウンセリングに対して、ヒーリングはすごく単純です。

ヒーリングの目的は心の緊張状態を解いていただくと同時に、知らず知らずのうちに溜め込んでしまったゴミのようなエネルギーを体外へ放出すると同時に愛のエネルギーを注入するのです。

これには何の理屈も必要ありません。唯一つ、身体は肉体であると同時にエネルギー体でもあるということを知っていると、ヒーリング中に感じる様々な身体の反応に驚かなくなります。

そして、ヒプノセラピーの目的は、変性意識状態という比較的抑圧が少なくなる意識の状態になっていただき、心の奥に仕舞い込んでしまっている感情を開放することです。

それだけで、エゴのパワーがかなり少なくなります。そしてもう一つの目的は、過去の体験をその時の自分と現在の自分の両者で再体験することで、新しく解釈をし直すことです。

それによって、それまで持っていたわだかまりや心の傷が緩和されて生きやすくなるのです。セッションではそういったことを組み合わせて、その時のクライアントさんの状態とご本人のご希望に合わせて、セッションをしています。

財産

自分の財産て何があるんだろうと思って少し考えていましたが、形のあるもの、目に見えるものとしては一つもないということに気付きました。

夫として家内に残して上げられるもの、親として子供たちに残してあげられるもの、そういった財産はまったくないなと思うのです。

だったら無形の財産はどうなんだろうと考えて、唯一これだと思ったのは自分の今までの経験とそれから得たさまざまな気付きなのです。

確かに自分の中では、特にこの十年の気付きはとても大きいものがありました。今の仕事をするようになって、多くの人と気持ちや考え方、そして体験なども共有することができました。

それは自分にとっては何よりもかけがえのない財産となっていることは確かなのです。自分一人のこの限定された人生だけでなく、自分以外の人たちの人生を一緒に見つめることができたことは、何倍もの人生を同時に経験したのと同じようなものかもしれません。

この気付きという財産をただ自分の内面にとどめておくのは、何とももったいないと思うようになってきました。

自分自身も当然今でも気付きの現在進行形であることは間違いないのですが、それでも財産をいくらかでも伝えることができたらいいなと思うのです。

伝えることこそ自分の学びそのものであるというコースの教えにもあるように、自分の財産を是非伝えたいと本当に思えるようになったのです。

それで、何となく伝えることを今まで以上にやって行きたいなと思うようになってきたのです。7月から始めたヒーリング講座も、もう来月の初めで終わりになります。

引き続きその講座も続けて行きたいし、そのほかの自分ができる講座も是非始めて行きたいなと思っています。

起きている事態を許す

「奇跡のコース」では、許しの実践をすることが自分やこの世界を救うことになると繰り返し教えてくれています。シンプルなことですが、実践するのはなかなか難しいですね。

一口に許しと言ってもいろいろあります。一般的には罪深い誰かの言動や目には見えない誰かの考え方や観念を許すということをあげることができます。

これは人が関係することに対する許しなわけですが、それ以外に直接人が絡まないような、起きている事態そのものを許すということもあります。

例えば、渋滞にイライラするのは渋滞という事態を許していないことになりますね。逆に言えば、渋滞を許すということは、その事態に何の反応もしないでいられるということです。

何かの買い物に出かけて、その品物の値段を見て何でこんなに高いんだろうといやな感じになるとしたら、その価格設定を許してないということになります。

おろし立ての新品の靴を履いて出かけたのに、急にどしゃぶりの雨に見舞われたら、まったくもうという気持ちになってしまうかもしれません。

それは自分の不運を許してないということになりますね。許すということは言葉を変えるとその事態を受け入れるということです。

起きている事態を許せない、受け入れられないという心とはどういったものでしょうか?それは、やはり自分を守りたいという欲求なのです。

今起きてる事態によって、自分という存在が傷つけられる、あるいは攻撃されるということはないのだということに気付く事ができたら、防衛しようとする必要はなくなります。

そうなると、どんな事態に遭遇したとしても、それをただ受け入れるということが可能になります。それが、その事態を許すということです。

毎日の生活のあらゆる場面で、この「起きている事態を許す」という実践をすることです。それを忘れないで生活することが大切です。そこから、他の許しも次第にできるようになっていくからです。

不思議な話し

考えてみると自分は昔から不思議な話が大好きです。心霊的な怖い話しやUFOやとにかく常識ではあまり考えられないような物語や話しに惹かれます。

子供のときに、潜在意識というものがあって自分の行動を裏から支配しているということを知って、人の心の奥深さに興味を持ったこともありました。

今はそれが仕事にとても役立っていると言えば言えるので、まんざら無駄なことでもなかったのかなと思っています。

しかし、何でそういった超常現象のようなことに興味があるのかなと考えると、それはどうもこの世界の常識をとにかく覆したいという欲求があるらしいです。

何かを暴いてやりたいという気持ちがあるのです。そうした気持ちは、この世界は実在するものではないというコースの教えにまで繋がってしまいました。

話しとして興味があるというだけではなく、エゴが作ったこの世界の法則から逸脱した経験をしたいのだろうとも思っています。

私自身このブログでも確か書いた、時間に対する不思議な体験も実際していますし、それ以外にも詳細には説明していないことも含めると、そこそこ摩訶不思議な経験をするようになってきました。

そういう体験は、大抵が子供の頃に集中するものだと思っていたのですが、私の場合はその逆で、子供の頃はいたって普通の経験しかしていないのに、大人になってからいろいろな体験をしています。

そうした常識では考えられないような体験をするたびに、おもしろいことに自分の中に二つの相反する見方があることを感じる事ができます。

体験したばかりのときには、ああやっぱりこういったことは起きるのだというシメシメという感覚が来て、それはずっとなくなることはないのですが、一方で時間が経つうちにあれはやっぱり勘違いだったのではないかという疑いの気持ちが起きてくるのです。

その気持ちに気付くと自分でもとてもおかしくなります。エゴが一生懸命に、この世界は実在するということを言い聞かせようとしているのだろうなと分かるからです。

そんな常識的なエゴの声を聞きながらも、毎日もっと不思議な体験したいなあと期待して生きています。エゴに一泡吹かしてあげたいと思うのです。

実年齢

新聞やテレビのニュースなどで、人を紹介するときに必ずその人の年齢が出ますね。括弧で数字がくくられていたら、大抵は年齢を意味すると知っています。

また初めて会った人について、この人は大体何歳くらいなんだろうと無意識的に思う癖が付いているかもしれません。本来その人が何歳であろうが構わないはずなのに、すぐに年齢のことを考えます。

年齢を気にする理由は、いくつか考えられます。例えば、自分と比べて相手は年上なのか年下なのかとか、年齢が近いのか離れているのかとか。

それによって、相手に対する自分の態度を幾分変えて見たり、あるいは相手の自分への態度はこれで問題ないのか等をチェックすることもあるかもしれません。

つまり上下関係の厳しい文化では、自然と年齢を気にせざるを得ないという面があるのでしょうね。日本は、相手に失礼があってはいけないと思うことが強い文化かもしれません。

自分の言動に気をつけるという意味で相手の年齢を気にするだけならいいのですが、相手の態度を年齢から相応しいかどうかを判定しようとすると、さまざまな反応をしてしまうものです。

そして多くの場合は、その反応はネガティブなものであるといえます。例えば、幼い子供だからと思って接していたら、とても大人びた態度や言動をされたらあまりいい気持ちはしないものです。

自分と同じくらいの年齢だと思っている人から、上から目線の態度をとられたらこれもムカッとくるかもしれませんね。

逆に、自分よりも随分と年上だと思っている人から、子供じみた言動をされたら、これもまたやっぱり腹が立つかもしれません。

私たちはいつも歳相応ということを気にしているからです。しかし、実年齢と精神年齢は必ずしも一致しないということは経験から知っているはずなのですが、それを許すことができないのです。

物理的な年齢というものをとても重要視している証拠ですね。心を学ぶと、誰の心にも実年齢とは全く異なるさまざまな年齢の心の断片があることがハッキリ分かります。

実年齢と異なる自分の心を許していないので、相手のその心も許すことができないのです。こうしたことにも、許しのネタはあるということですね。

実年齢も心の年齢も実は本質的な我々の存在とは関係ないと分かる事です。なぜなら、ここでいう精神年齢とは、エゴの年齢のことだからです。愛の心には年齢はないのです。

それはなぜかというと、愛には成長するという概念が当てはまらないからです。愛は永遠に変化しない想念だからです。相手の奥にある愛だけを見つめたら、年齢などどうでもよくなるはずですね。

一人は気楽

ずっと一人でいて全く寂しくないかと言えばそんなことはないのですが、自由気ままで過ごせる一人の時間というのはとても快適なわけです。

ということは、逆に言えば人と一緒にいると気を使ったり自分勝手はできないと思うと、疲れることにもなり、うっとうしいなと感じてしまうと言う事です。

私たちは、一日のうちでその両方をうまくバランスをとりながら生活できている場合には、そこそこ不満を感じないし、それほど疲労することもありませんね。

しかし、それはあくまでも何とかやり繰りし続けているというだけで、根本的なことは何一つ解決しているわけではありません。

そもそも人と一緒にいて疲れるのは、そこで自己防衛をしているからに違いありません。防衛が必要だということは、自分は傷つけられる可能性があるとの思い込みがあるということです。

そして傷つけられるとの思いは、人と自分が対立していることに起因します。対立を維持するために、相手に対して攻撃的な心をいつも忍ばせているのです。

その投影として逆に傷つけられる恐れというものが発生するということです。こうした心のメカニズムは、自覚できるような強いものの場合もあれば、全く気付くことができないような場合もあります。

もしも、自分は人と一緒にいても傷つけられることはないという自覚ができたなら、自分独りでいる時と誰かと一緒にいることの違いはなくなるはずです。

そればかりか、人と一緒に過ごすことが楽しみ以外の何物でもなくなってしまうはずです。なぜなら、他人は自分を決して傷つけることなどできないと分かったら、相手に対して隠し持っている怒りは全くなくなってしまうからです。

そして、相手への感情は愛だけが残ることになるのです。愛しい人たちと一緒にいる時間はすばらしい体験でしかありません。

もうそうなったら、一人は気楽などとは決して思わなくなるでしょう。すべての人がそんな心で生活できたらこの世界は天国になるでしょうね。

共通無意識

かつて、フロイトは人間の心には潜在意識や無意識といった、表面から隠された部分があって、そこが意識の大部分を占めているということを唱えました。

そして更に、フロイトの弟子であったユングは後に無意識のまたその下には集合無意識、あるいは共通無意識と言われる部分があると言いました。

その部分はすべての人類に共通する部分であると同時に、互いにつながっているということも示しました。こうしたことに興味があれば、読みやすい本が沢山出ていますので読んでみてもいいですね。

ここで大切なことは、この共通無意識という考え方は、すべては一つという愛の想念に通じるものだということです。すべての人が深い部分で互いに繋がっていると言っているからです。

一般に知能が高いと言われているクジラやイルカは、我々が表面意識と読んでいる通常の自覚的な意識よりも、この共通無意識の部分が突出していると聞いたことがあります。

真偽のほどは確かではありませんが、人類が更なる精神的な進化を遂げると、クジラやイルカと同じように共通無意識の部分が大きくなって、逆に個人としての表面意識は小さくなっていくことになると聞いたことがあります。

確かに、この自分が自分なのだと認識している表面意識は、自分の個別性を維持しているエゴと考えられるわけですから、心の進化と共にエゴが衰退すれば、自然と共通無意識の領域がメインとなっていくはずです。

現在の私たちの常識では個性を大切にしようとする傾向がありますが、これはエゴを助長させることになるのは明白ですね。

自分は他人とは違うとする意識、自分は特別なのだと思おうとする意識がエゴなのですから、エゴは共通無意識などを否認しようとするはずです。

没個性は絶対いやだと思うのは今までの常識では当然の反応だと私も思います。ですが、許しの実践を通して裁くということを完全に手放していくことは、結局自分と人は一つに繋がっているという境地に戻っていくことだと思うのです。

そしてそれが本来の自分たちの姿であるし、それこそが恐れや憎しみから開放されて愛の自分を取り戻す唯一の方法であるとも思います。

合理化

何年も前のコラムに、「合理化」について書いたことがあります。自分にとって都合の悪い言葉、考え、事態などに遭遇したときに、そこから何とかして逃げようとする心の働きのことを言います。

それは勿論、その都合の悪いモノから自分を守ろうとするまさにエゴの防衛のさせる技であるわけです。人の心が持つ合理化のパワーというのはすさまじいものがあります。

後催眠効果というのをご存知ですか?催眠中にいろいろな暗示を与えておいて、催眠から醒めた後でも本人は無意識的にその暗示どおりに行動してしまうというものです。

例えば、催眠中に「自分の名前を言おうとすると、喉がつかえて言えなくなる」という暗示を与えておいて、催眠から醒めたあとにあなたの名前は?と質問されて、それに答えようとすると確かに言葉に詰まるという状態が起きるのです。

被験者は、自分の名前を言えないなどという経験が今までないわけですから、必死になって言おうとするのですが、どうしても声がでない状態になってしまうのです。

それ以外の言葉は普通に話せるし、自覚としては催眠から完全に醒めているはずなのに、自分の名前を言おうとしたときに限って、言葉が出てこないという経験をするのです。

こうしたことは、表面意識に逆らって、暗示を受けた潜在意識がその暗示どおりの行動を本人にさせてしまうことから起きるのですが、それが「合理化」ととてもよく似ています。

後催眠効果というのは、他者からの暗示によってその通りの言動をさせられてしまうのですが、「合理化」はエゴが自己防衛のためという大義名分を使って潜在意識に命令をするのです。

どちらのパワーもすごいものがあります。しかし、他者からの暗示の場合には、私が知る限りでは本人が不利益になるような場合には暗示に従わないでいられるのですが、「合理化」の方は客観的にみて本人に不利益になると思われるようなことでも、「合理化」が優先されてしまいます。

例えば、どんなに一生懸命上司の言うことを理解しようと頑張っても、「合理化」によって理解力を低下させられてしまうと、何も理解できないという状態になってしまいます。

「合理化」も後催眠効果も、共通していることは本人の理性を超越してしまうということです。 そしてそのために、本人としては自分の言動に不信感を持たないでいられるのです。

「合理化」が起きると、それに気付かない限り、防衛をやめることができません。それはエゴの思う壺なのです。自分の言動をいつも注意深く見つめていることが、「合理化」を見破る唯一の方法かもしれませんね。

伝えるということ

人は自分が信じていることを知らず知らず相手に伝えながら生きています。それは拡大すれば教えるということにもなります。

例えば、親が子供に対して、特別何も言葉で伝えてないとしても、仕事は辛いとか、人生に不満があるとか、これはこうあるべきだとの信念などは、知らぬうちに子供に伝播してしまいます。

友人に対して、はっきり明言しなくても自分が日頃思っていることや信じていることなどは何となく伝わっているものですね。

そして実は明示的に伝える、あるいは教えるということは、知らぬうちにそうしている時以上に自分の信じていることを更に固く自分自身で信じるようになるのです。

このことはあまり知られていないかもしれません。私はこの仕事をするようになってすぐの頃、ふとした時に、「自分の身に起こることは自分が起こしている」という考えが浮かんできました。

そしてそのことを心の中に置いて、いろいろ思考してるうちに、その考え方がとても気に入ってきて、次第に信念に変わってきました。

そして、気が付くとクライアントさんとのセッションの時に、この考え方をお伝えするようになっていました。伝えることを繰り返していくうちに、出来上がったばかりの信念はどんどん確信へと変化していきました。

伝えることは自分の信念をより確固としたものにしてくれるということです。しかし、まだその先があります。それは、伝えたことが相手の心の中でもそれを認めるようになると、それを互いに分かち合うという状態になりますね。

そうなると、確固としたものは更に互いの心の中で強められて、一般的な信念以上のものに成長してくれます。

ただし、互いの心で分かち合えるものというのは、愛に基づくものでしかあり得ません。愛を含まない思考は決して分かち合うことができません。

今、私は自分たちの本質は身体ではなく、スピリットなのだということをできるだけ多くの人たちと分かち合いたいと思っています。それがすべての人の心から恐怖や怒りを消滅させることになるからです。