感じる心

昨日から今日にかけて、本当に久しぶりに学生時代の友人たちと一泊旅行に行ってきました。旅行といっても、山中湖の近くの施設に泊まるだけです。

東京から一番近くにあるリゾートかもしれません。なにせ、クルマで1時間半くらいで到着してしまいます。夏のシーズンも過ぎて、これから本格的な紅葉の季節になる前ということもあって、比較的人の出が少なくてよかったです。

夕べは現地に着いてからずっと雨に降られてしまって、気温も下がるしで、あまりいい印象ではなかったのですが、今日の朝目が覚めてカーテンを開けたら雲ひとつないような晴天の空の中に富士山がそびえたっていました。

それは目の前に手が届くくらいの印象で真っ青な空の中に雄大な姿を見せてくれていました。あまりに美しいので一気に夜更かしした寝不足の目が覚めてしまいました。

少しオーバーに表現すると、あっ気に取られるという感じでした。以前から思っていたことですが、なぜ富士山を自分はあれほど美しいと感じてしまうのだろうかと。

しばらくして、皮肉なことを言う友人が、ただ地面が隆起しただけのものなのに、と言っているのを聞いて、確かにそうだなと思いました。

富士山を眼前にして、感動するという体験をさせているのは他でもない自分なんだということをあらためて思いながら、何かを美しいと感じる心にはやはり愛があるのだろうと思ったのです。

物理的には確かに地球の内部の熱がその圧力を増して、地球表面に噴出する噴火によってできた大地の隆起に他ならないのですから、自分の心に愛が全くなければその姿に感動することもないはずです。

日ごろ愛を選択しようと心で願って生きているのですが、こうした感動は何も意識せずともできるわけで、人の心には必ずそうした感じる心、つまり愛を使うことができるということですね。

もしも、自分の心が恐怖を防衛しようとしていたなら、それはやはり感動することはできなかったと思うのです。ただ無防備に何も考えない穏やかな状態であれば、それだけ美しさを感じることができる、つまり愛の状態になれるということですね。