当事者から見守る側へ

私はクライアントさんとのセッションの中で、幾度となく「物語」という言葉を使うのですが、それは人生が物語だというニュアンスに気づいて欲しいからなのです。

映画やドラマを観ているときには、そこに物語が展開されていることに気づいていて、それを楽しんでいるのです。

ところが、自分の人生となると物語だとはとても思えなくなってしまうのです。なぜなら、人生は作り物ではないしリアルな世界だからです。

けれどもどれほどリアルだとしても、人生は思考がふんだんに使われていて、実はそれは物語と同じなのです。

物語というのは思考で出来ているのですが、人生も思考で出来ています。リアルな世界はあるがままにあるのですが、そこに物語性を付加するのは思考なのです。

もしも人生を見守る立場で見ることができれば、それが物語だということに気づけるはずなのです。

そして物語として見る事ができれば、少々のことでダメージを食らうことも少なくなるのです。

なぜなら当事者意識が薄らぐからです。人生物語との距離ができるからですね。カギは当事者から見守る側へとシフトすることなのです。

所有性=執着

昨日のブログで、所有という属性について書いたのですが、この所有という概念、結構根が深くて厄介なのです。

私たちは不安のあまりに安心したくて、所有という概念を使うのです。何かを自分の物だとして、つまり所有するということで安心しようとするのです。

恋人同士が、互いに相手のことを他の誰かに取られたくないという気持ちから、相手を自分のものにしたいと願うのはよくあることですね。

お前は俺のものだ!というわけです。けれども、所有できるのはモノでしかありません。人間はモノではないので所有する対象にはなれないのです。

だから、お前は俺のものだ!というのは、相手を人間ではなくてモノにまで落とし込むことと同じだと理解することです。

人間は自由であるので、所有する対象にはなり得ないのですが、誰かに奪われるという不安から相手の自由を奪ってまで所有物にしておきたいのです。

親が我が子を所有物のように扱う事例はよくありますね。幼子は保護されなければならないのですが、それでも親の所有物ではありません。

子供が自分の手から離れて、好きな人を見つけて幸せになっていく姿を見るのは、子供を所有物だと信じてきた親には苦痛なのです。

子供への執着心が子供の自由を奪おうと画策するわけです。そんな毒牙に引っかからないように注意して、自分の自由を第一に考えられる大人へと育って欲しいですね。

真実は共有できない

私たちの社会が社会として成立するためには、それなりのルールをみんなで共有している必要があります。

一万円札を一万円の価値があるものとして扱う、そうルールで決めてそのルールを全員が共有しているからこそ、紙幣として安心して使うことができるのです。

所有という属性にしても同じです。この土地は私が所有しているとどれほど声高に叫んだとしても、みんながそれを認めなければ意味を持ちません。

実際、ロシアがウクライナに侵攻して土地を占領してしまえば、何百年暮らしてきた先祖代々の土地であっても、その所有権は消えてしまうのですから。

地球が丸いということを子供の頃に教えられて、その知識を共有することができたのは、それが単なる情報だからです。

このようにして、この世界は共有で成り立っているのですが、真実についてはそれができないのです。

私にとっての真実は、それを他の人に譲り渡すことができません。なぜなら、それは情報ではないからです。

もちろん私が誰かの真実を受け取ることも不可能なこと。真実は自分がその根っこまで降りて行ったときにようやく見つかるもの。

だから個人的な体験を通してのみ、見つけることができるのです。みんなで一緒に瞑想をするのは、深く入りやすいので有効な手段かもしれませんが、瞑想で見る景色を共有することはできないということですね。

自我は自己矛盾で出来ている

自我をよくよく調べてみると、それはものすごい自己矛盾を抱えているということが分かってきます。

幸せになりたいと願っているくせに、願い続けたいという本音を隠し持っているので、どこまで行っても幸せにはなれないというジレンマがあるのです。

もしも幸運にも幸せになってしまったとしたら、あっという間に今度は違う願望を作って、それに向かって生き始めるのです。

言葉を変えて言えば、満たされたいと心底願っているのに、本当に満たされてしまったとしたら、自我は自分を保てなくなってしまうのです。

というのも、自我が活躍できるところというのは、何かが足りないという状態だからなのです。ひどすぎる自己矛盾ですね。

熱いコーヒーが美味しいと知っていてそれを望んでいるのに、ひどい猫舌で冷ましてからでないと飲むことができないのと同じようなもの。

生きづらさを抱えていて、それを何とかして改善したいと思っているはずなのに、気楽に伸び伸びと生きようとは決してしない等々。

自我は自己矛盾によって生きながらえているようなものかもしれませんね。そこに気づいたら、もうこれまでのように自我に肩入れする気にもなりません。

自我を適当に生きさせておいて、それをやさしい気持ちで見守る側へと立ち位置を変えるのが賢いと感じるようになりました。みなさんはどうですか?

幸せと安心を混同してる

誰もがみんな幸せになろうとしていると、そう思っているのは間違いないのですが、ところが本当のところはそうではないのです。

自分自身の内面をしっかり見ることができる人は、幸せになろうとしているというフリをしていることに気づけるはずなのです。

そのフリの内側には一体何を隠しているかというと、安心しようとしているというのがあるのです。

安心を得ようとする理由は不安だからですね。その不安を安心に変えることができれば、その先に幸せが待っていてくれると錯覚しているのですね。

はっきりさせましょう。幸せになろうとすることと、安心しようとすることは決して交わることがありません。

というよりも、その両者は全く異なる生き方になってしまうということに気づく必要があるのです。

もしもあなたが幸せを求めるのであれば、自分本位に生きるはずですし、瞑想的で、愛に溢れていようとするはず。なぜなら、それが幸せのもとになるからです。

一方で、あなたが安心を求めるのであれば、戦って勝とうとするし、人に気を使い、正しい自分であろうとするはずです。

幸せになりたい人は、今日をどう楽しもうかと考えるだろうし、安心を求める人は人に嫌われたり否定されないためにはどうすればいいかを考えるのです。

両者の違いを明確にして、自分はこれまでどちらで生きてきたのかを知ることです。もしも安心の方であれば、幸せを手に入れる生き方に舵を切ることですね。

誰もが超能力者

この仕事をするようになって、人間というのは誰もが超能力者なんだなとつくづく思うようになったのです。

勿論非常に分かりやすい超能力者の方々もいるのですが、自分が普段超能力を使っていると全く自覚のない人たちがたくさんいるということです。

例えば、セッションの予約をしているにも関わらず、いざ当日になり深い部分で気が進まなくなることがあると、無意識的に遅刻しようとするのです。

そうすると、まんまと電車を止めてしまう人もいるくらいです。常識的には、たまたま起きた事象だと思うのが普通ですよね。

けれども、あまりにも何度も経験させてもらっているうちに、どうやら「あなたやってますねえ」、と気づくことになるのです。

あるいは、クルマを運転しているときに突然脇道から飛び出してくる自転車や歩行者がいるのですが、こちらからすると自殺行為に見えるのです。

あんなことを毎日やっていて、よくこれまで死なずに来れてるなと驚嘆するのですが、きっと無意識に超能力を使って危険を回避しているのでしょう。

そうとしか思えないのです。でも一番の超能力は、自分の人生を作る能力ですね。これも自覚は全くないのですが、潜在意識が望む通りの人生になっているのです。

自分はこんな人生を望んだ試しはないと思っている人も多いかもしれませんが、無意識の部分が望んでいることが実現しているということです。

つまりは無意識の願望を明るい方向へと変えることができたら、あとはもう自動的に人生が明るくなっていくということですね。

「成長」が物語を紡ぐ

生まれた時から慣れ親しんだこの物質世界、自我が作ったこの社会においては、とにかく成長するということが一つの大きなテーマとなっています。

より高い人格を目指す、たくさんの経験を積んで、多くのことを学び、幾多の試練や教訓からより完成された人物を目指す等々。

更には、スピリチュアルな人々がよく言うことですが、より高い精神性、魂を磨くといった表現をすることもあります。

この世からあの世に行っても、魂にはランクがあって、究極の頂点を目指して上がっていくというのです。

最終的にどこを目指して切磋琢磨していくのかは分かりませんが、とにかく人間として生きていても、死んで霊となっても変わらない上昇志向。

自分が全体の一部だと分かったなら、この上昇志向は一体何の意味を成すのかと考えてしまいます。

成長ということを通して私たちは、物語の中にずっと居たいのかもしれませんね。私は個人的には、ほとんど興味がないのですがあなたはいかがですか?

自分の本質を探る

私たちは自分の本質について真実を知る必要があるのです。この自分とは身体なのか、あるいは心なのか、心のうちの考えが自分なのか、あるいは感情が自分なのか。

気持ちや気分といったものも自分に属していると感じているかもしれません。あるいは、そのどれでもない意識が本当の自分なのか。

精神世界に興味がある人は、自分は身体であるとは思っていないかもしれませんが、それでもまだ多くの人が自分は身体だという感覚を強く持っているはずです。

なぜなら、「私」という自我が生み出されるときに、身体が大きな役割を担った時期があるからです。

人から見られる対象はいつも自分の身体だし、親の愛情表現として抱きしめてもらうのだって具体的には身体だったわけです。

だから「自分=身体」という感覚が強烈に植え付けられたとしても、何ら不思議なことではないと分かります。

ところが、成長するにつれて色々なことを考えるようになるにつれて、考えているのが自分なのではないかと思うようになるのです。

いくら身体がいつも身近にあっても、考えることを抜きに自分が存在するとは思えなくなるのです。

そうして、「自分=考える存在」という感覚が身体に代わって大きくなるのですね。つまり、肉体的な物質的なものというよりも、目には見えない精神的な存在だというわけです。

ところがまだ先があったのです。もしも自分が考える存在であるなら、瞑想などによって思考が消えてしまったら、自分も消えてしまうことになります。

確かに、深い瞑想状態においては「私」という自我は用をなさなくなります。けれども、それでも残っている何かがあることに気づけます。

それが意識なのですね。考える存在である自我が消えた後に残るもの、それこそが意識としての自分の本質だと言えるのです。

自分のことを人間だと信じているのは自我であり、そのバックに在る意識こそが本質だと気づくことで、何かが大きく違ってくるはずなのです。

なぜなら、自分は身体でもなく、人間でもなく、心でもないということになるのですから、この世界の見え方も変わらざるを得ないですね。

イヤだ!を受け止める

動画サイトのおすすめに、たまたま上がってきたあるご家族の日常を撮影したものを観たのですが、びっくりしてしまったのです。

若いパパとママと、軽度知的障害&自閉症と診断された3歳の息子さんとの奮闘記のような内容となっているのです。

この男の子は見るからに賢そうで、純真な目をしていて、きっとものすごく敏感体質で生まれたのでしょう。

幼いのですが、ものすごく好き嫌いがはっきりしていて、ママが新しい靴を買おうとして試し履きしてもらおうとしても、全身で嫌がるのです。

自分が今履いている白い靴が良いの一点張りで、ママはサイズを合わせたくて何とかして新しい靴を履かせようとするのですが、泣き叫んで拒絶するのです。

ママの気持ちは痛いほどわかるのですが、なぜ大切な息子さんの「嫌だ」を尊重してあげられないのか、不思議です。

パパママは、きっと医者の診断結果をもらう前から薄々発達障害らしきものがあるかもと感じていたのでしょうね。

だからこそ余計に、分別ある人間に育って欲しいと考えて一生懸命に正しさを教え込もうとしてしまうのですが、そうすればするほど息子さんの心は傷つくのです。

子供を親の不安の目で見てしまうと、平均値から遠いことが気になるのでしょうが、発達の進み具合などは、その子供の個性によって異なるのが当然です。

パパママがゆったりとした眼差しで見守ってあげて、子供の嫌だという拒絶をしっかり受け止めてあげることが何より大切であることに気づけるといいのですが。

「信頼」がくれる効能

昨日と一昨日のブログでは、信頼について少し書きました。今日のブログでは、もっと具体的に信頼があるとどうなるかについて書いてみたいと思います。

信頼は受容を生み出すということを一昨日書きましたが、それは実際どのようなものなのでしょうか?

例えば、一般的に恐れられている「死」については、信頼が深くなればそれとしっかり向き合うことができるようになるはずです。

あるいは、自分は何て惨めなんだという悲しい思いほど認めたくないものはありませんが、それも逃げずにいられるようになるはずです。

自分ばかりが酷い目に遭う、理不尽なことばかり遭遇する、なんでこんな境遇で生まれてしまったんだろうというやりきれない思いを持っている人もいます。

けれども、信頼を持てばそういったことすらも受容できるようになるはずなのです。なぜなら、自分よりも全体性に委ねることができるからです。

存在価値が分からない自分のことを信用することは難しくても、代わりに全体性を信頼できるなら、明け渡すという感覚も身近なものになるかもしれません。

信頼は、自我の思い込みや勝手な判断、あるいは自責の念などを緩める力を持っていると思います。

ここで気づくことができますが、信頼とは自我のものではないということ。自我ができるのは、信じることと信じないこと。

そのどちらでもない、そして真反対のない信頼こそが無思考の産物なのですね。だから信頼が大きくなればそれだけ、自我が小さくなるということでもあるのです。