幸不幸からの脱脚

人生には浮き沈みがつきものですね。上昇しているときにはバラ色に見えるし、下降しているときには灰色に見えるのです。

私自身も経験があるのですが、嬉しくて心が軽やかなときには本当に周りが明るく見えるのです。瞳孔が開いてより多くの光を取り込むのでしょうね。

だから明るくバラ色っぽく見えるのですが、一方で落ち込んでいるときには逆に瞳孔が閉じて光が入ってこないため、いつもより暗く灰色に見えるのです。

内面の状態が肉眼に直接影響するために、見え方が変わってしまうというわけです。このようにして知覚を変化させてしまうのは、思考なのです。

自分の身に起きたことをどのように思考で捉えるのか、それによって世界が違って見えてしまうのです。

ということは、もしも思考に飲み込まれずにいられるとしたら、人生がバラ色になったり灰色になったりすることもなくなるということです。

私たちは「身に起きることが幸不幸を作る」と決めつけているのですが、それを決めているのは単に思考だということです。

自分は惨めで不幸だという思考を使わずに要られるなら、この世界から不幸な人はいなくなるはずです。

あるいは、自分は願いが叶って幸福だという思考も使わずにいるなら、自分は幸福だと思う人もいなくなるのです。

幸不幸からの脱脚は誰にとっても原理的には可能なことなのです。これが最大の救いだと思いますね。

「私がいる」という思考

心のなかに何かがあるということは、光明を得ていないということだ。心のなかになにもないことが<光明>を得ることだ。心のなかに光明があるなら、あなたはまだ光明を得ていない。心のなかになにもないことが<光明>を得ていることだ。それを憶えておきなさい。

by osho

つまり、<光明>を得るという言葉は方便に過ぎないということです。心のなかに何もないときに、何かを得るなどということはできないのですから。

<光明>を得たい、つまり覚醒したいというのがれっきとした一つの欲望であることは間違いないことです。

内面にどんな種類の欲望もなくなってしまったとき、初めて<光明>を得た状態になるということですね。

欲望がないということは、欲望なしには存続できないマインドが消えてしまったということなので、一般的には想像もつきません。

もう少し正確に言えば、マインドの奥底にしっかりと根付いている「私」という思考、その思考をつかわなくなることです。

たったそれだけで、欲望は消えてしまうはずなのです。なぜなら、欲望は分離した「私という自己」という思考から派生して作られる思考だから。

思考が別の思考を作り出すという無限の連鎖によって、マインドは営まれているのです。だからマインドという実態はないのです。

自分はどんな欲望を持っているのか、深く探ってみることは無駄ではないと思います。その要望の真下に「私がいる」という思考が隠されているのですから。

存在し、存在しない

若い頃、「存在」についてあれこれ考えていたことがありました。そもそも、存在するってどういうことなのかって?

で、出てきた結論は、知覚することだって分かったのです。つまり、自分がそれを知覚することで存在が確定するということ。

ただし、よくよく考察してみると、その知覚そのものがかなり怪しいものだと気づいたのです。

私たちの知覚というのは、存在していないものでもあたかも存在しているように感じることが多々あるからです。

たとえば、「影」というのは存在しないと誰もが知ってはいるものの、あたかも存在するように扱っています。

視覚というのは、輪郭を探し出してそれをトレースすることで、境界線を作り出す習慣があるのです。

そのために影が在るかのように見てしまうわけです。実際は影というのは、光の不在でしかありません。

もしも知覚とは無縁に存在を定義するとなると、妄想を逞しくして、ただ実在するということがあると考えるしかないですね。

それはあくまでもイメージ、つまり思考の世界で存在を捉えようとすることです。結局、真実はといえば、存在することと存在しないことのどちらでもないということ。

存在とは思考の世界にしかないということですね。完全に無思考になれたとき、存在には意味がなくなってしまうのですね。

眺め、眺め、眺め続けると…

誰かがあなたに腹を立てる、侮辱する–

見守るのだ

もしあなたの中に怒りがこみ上げてきたら、それを見守るのだ

丘の上のものみになるのだ

眺め、眺め、眺め続けるのだ

何を見ることもなく、何に取り憑かれることもなく

by osho

もしもお腹が空いたら、それを眺めて、何かを食べるならそれも眺めるということですね。

誰かに否定されて悲しい気持ちになったら、それをただ眺めて、何をしても虚しいなと感じるなら、それも眺めるのです。

快適な生活があるなら、それを眺めて、不快な境遇にあるなら、それも眺める。どちらにしてもその時々の気持ちも眺めるのです。

独りぼっちで寂しいなら、それを眺め、愉快な仲間と一緒にいて楽しい時にもそれを眺めるのです。

多忙で疲れ果てているなら、それを眺め、暇で何もすることがなく時間を持て余しているなら、それも眺めるのです。

頭の中に思考が渦巻いているなら、それを眺め続けるのです。そうすると、次第に過去と未来に向かっていた思考は緩み、眺め、見守ることだけが残るのです。

そうしてゆっくりと、真実の薫りがやってくるのですね。

マインドと雪だるま

毎日あまりにも暑過ぎるので、ちょっと季節外れの話しをしますが、誰もが一度くらいは雪だるまを作ったことがあると思います。

思い出して欲しいのですが、雪だるまを作る時には、最初のうちは雪の塊を手で作るのですね。

バスケットボールくらいの大きさまで固めたら、後は積もった雪の上でコロコロひたすら転がしていくのです。

転がすだけで、自動的に雪が塊にくっついて益々大きく重くなって、その重さで更に雪がくっついて、どんどん大きくなってくれるのです。

それと同じようなことが、私たちのマインドにも起きるのです。幼少の頃、まだ自我が出来てない状態では、日々起きていることをひたすら集めて思考の塊を作るのです。

そして一度でも自我が芽生えてしまえば、後は自動的にすべての経験を自我の経験として取り込むことで、思考の吸収が急ピッチで進むわけです。

気がついたときには、立派な雪だるまならず、立派な自我(マインド)が完成することになるのですね。

あとは、自我の自己防衛によってそれこそ雪だるま式に自我は肥大していくことになるのです。

雪だるまをどこまで削っていっても、中身は何もないのと同様、私たちのマインドも深く見つめればそこにはどんな実態もないことに気づくことになるのです。

ただ集めた思考が絡み合っているだけなのですから。

自分に目醒める壮大なドラマ

この宇宙のすべては、無から立ち上がって来た現象だと言えます。初めから無が在り、その背景からやってきては去っていくもの。

それがそれ自身に気づいていない状態(無意識状態)ですべてが起きてきて、ようやく人類とともにほんの少しずつ意識が目覚めつつあるのです。

といっても、まだまだそのほとんどは無意識状態のままなのですが、それでも私たちが自分の存在に気づいたことは奇跡だと言えます。

私たちはそのプロセスの真っ只中にいて、それを実際に体験しているのでしょうね。そしてそのことに気づくことができて、本当にラッキーだと思います。

ただ残念ながら、自我の目覚めは私たちを苦悩の中へと落とし込むことになっています。この世界から戦争がなくならないのは、自我のなせる技なのです。

けれども、これは目醒めるために必要なプロセスであり、ごく一部の先駆的な人だけが覚醒してきた経緯もあるのです。

いずれは誰もが覚醒することで、壮大な目醒めのドラマが完結することになるのでしょうね。

どれほど過酷なことが起きようと、何であれ目醒めるための壮大なドラマの一部だと気づけば、そこに完全なる救いがあるということです。

アンテナの感度が高い人

私たちの知覚のなかでも、一番メインに使っているのはきっと視覚でしょうね。見ることは生活の中心になっているように思います。

ところが、生物の進化全体を見た時に、視覚を持つようになったのは割と最近のことらしいですね。

つまり、見ることはそれほど当たり前ではなかったということです。進化の過程で少しずつ知覚を増やして行ったということです。

結果として、今となっては五つの感覚を持つようになったわけです。これで感覚器官の進化は打ち止めでしょうか?

たとえばオーラを見ることができる人がいますね。あれは見るとは表現するものの、肉眼で見ていないのは明らかです。

なぜなら、目を閉じた状態でも感じることができるようだからです。ということは、五つの感覚以外の知覚だということができます。

今現在、すべての人がオーラを感じることができないとしても、いずれはその感覚がより発達することで、ごく普通に見えるようになるかもしれません。

きっとオーラは、私たちがよくエネルギーと言っているものと同じ部類の何かなのでしょう。

怒りをたくさん抱えている人の近くにいると、恐怖を感じるといったことはよくあることですが、それも怒りのエネルギーをどこかで検知しているのでしょう。

そんなものは単なる気のせいだと言う人もいるでしょうけれど、気=エネルギーと考えれば、気のせいとはエネルギーのせいと言い換えることもできます。

敏感な人というのは、そういうエネルギーに対するアンテナの感度が高い人ということかもしれません。

あまりに敏感過ぎると生きづらくなってしまいがちですが、人に分かってもらえなくても進化の過程として、受け入れることができるといいですね。

全体性は移動しない

小学生の頃、よく自転車で家の近所を走り回っていたことがありました。当然歩きよりもはるかに行動半径が広がったのを覚えています。

中高生ともなると、自転車での距離が桁違いに長くなったのと同時に、バスや電車などの交通手段も使うようになって、大人とあまり違わない行動範囲を手に入れました。

そして大学生ともなると、クルマの免許を取得したことで、更に長距離を自分の意のままに移動するようになったわけです。

社会人になると、仕事の出張などによって海外へと拡大して、大げさに聞こえるかもしれませんが、まさに地球規模まで拡大しました。

今となっては、行こうと思えばそれこそ南極にしても地球上どこへでも行くことが可能です。勿論それなりにお金と時間は必要ですが…。

ところが自分としては行きたいところが見つからないのです。移動することにことさらの興味を持つことがなくなってしまったのです。

今自分がいるところが快適であれば、それで満足なのです。だからもうずいぶんと旅行らしきものをしていません。

このまま真新しい景色を目にすることなく、死んでいくのかもしれないと思うのですが、何処に行っても同じものが一つあるのです。

それが全体性なのですね。それは移動することがありませんし、いつもここに普遍的に在るのです。それを感じていられるだけでいいのかもしれません。

ゆったりと自由であれ

自分自身と戦わないこと、ゆったりと自由でありなさい

あなたのまわりに、品性だの道徳だのというワクをつくろうとしないこと

自分自身を調教しすぎないこと、さもなければ

その訓練そのものが束縛になってしまうだろう

自由でいなさい

漂い、状況とともに動くのだ、状況に応えるのだ

by osho

なぜ自分自身と戦うなどという愚かなことになってしまうのか?それは勿論自己防衛を優先しようとするからです。

不安や恐怖、あるいは罪悪感などから逃れようとして、本当は気が進まないことをやろうとしてしまうからなのです。

人類全体に平和がやって来ないのは、個々人のマインドの中で自分自身と戦う状態が起きているからに他なりません。

罪悪感を恐れるあまりに、相手の期待に応えようとしてしまうのです。つまり、罪悪感と自己犠牲を天びんにかけるわけです。

それこそが自分自身との戦いを生み出す標準的なマインドの仕組みの一つなのです。品性や道徳を優先させようとするのも、まったく同じ原理です。

そうして人から後ろ指さされないようにして、不安や恐怖から解放されて安心を得ようとするのです。

自己防衛=自己犠牲、この公式を決して忘れないことです。自己防衛を緩めれば自己犠牲も小さくなり、同時に自分を縛ることがなくなるのです。

その結果、ゆったりとして自由でいられるようになるのですね。

大切なことを思い出して実践してみる

ときとして静かに坐ることがあったら

目を閉じて感じてごらん

自分が誰であり、どこにいるのかを–

深く進んでごらん

すると不安になるかもしれない

なぜなら、深く進めば進むほど

あなたは自分が誰でもなく

ひとつの無であるにすぎないのをより深く感ずるからだ

by osho

それなのに、私たちはやれこれは間違いだとか、そうすることは人の道に反するだとか、伝統を重んじなければなどと言うのですね。

そういう日々の雑多な物事の方に思考がロックされてしまったら、そう簡単には抜け出すことができなくなってしまいます。

だからそんな時は諦めて、しばらくして少し心が落ち着いた時には、ほんの1分でも構わないので、↑これを思い出してみることです。

自分が誰かは分からなくなり、どこにいるのかも意味をなさなくなるのです。そうなったら、どんな人生を生きて来たのかということすら消えていくのです。

自我は消えたくないともがくでしょうけれど、それもそのままにして抵抗することなく、対処することなくただ在るだけになるのです。

自分の中心に自我などないと気づいた時、いきなり全体性に包まれることになります。平和とはこういった境地を指すのですね。